キャリア事例
自分らしく働く医師のキャリア事例をご紹介します。-
事例
厚労省を辞めた医系技官が選んだ転職先―坂上祐樹氏・vol.1
10年勤めた厚生労働省を辞め、一般病院へと転職した坂上祐樹氏。医系技官時代は、臨床研修制度の見直しや診療報酬改定など、数々の政策に携わった末、行き先も決めずに退官。数々のオファーを吟味した末に選んだのは、急性期経過後の患者のケアをする、いわゆる慢性期の医療機関でした。30代という若さで、この領域に挑もうと思った背後にある思いについて取材しました。
-
事例
住民が身近な離島医療 親しさゆえのジレンマとは―張耀明氏
家庭医の張耀明氏は長年、へき地医療に携わりたいと考えていました。2017年、そんな張氏に東京都・新島へ赴任するチャンスが到来します。2018年度からは診療所長も務める張氏に、新島の医療事情や課題、将来の展望について率直に語っていただきました。
-
事例
「サーフィン専門外来」立ち上げ秘話 ―私の専門外来Vol.1サーフィン外来(後編)
2020年の東京オリンピックで正式種目に採用されたサーフィン。注目の高まりが予想されるこの競技に医学的にアプローチし、「サーフィン専門外来」を立ち上げた稲田邦匡先生に、サーフィン専門外来の立ち上げ秘話について聞きました。
-
事例
サーフィンに医学的アプローチを―私の専門外来Vol.1~サーフィン外来(前編)
学生時代からサーフィンに親しみ、千葉大学医学部卒業後は、整形外科医として研さんを積んできた稲田邦匡先生。2008年から競技スポーツとしてのサーフィンの医科学研究を開始し、2009年から日本プロサーフィン連盟(JPSA)のオフィシャル・サポート・ドクターに就任。2010年には、日本初の「サーフィン専門外来」を開設しました。ライフワークのサーフィンをキャリアに活かしながら働く稲田先生に、これまでの経歴、今後の展望について伺いました。
-
長文インタビュー
医師インタビュー企画 Vol.21 名知仁子
ミャンマーの医療に全力を捧げる医師・名知仁子。巡回診療、保健衛生指導、家庭菜園指導の3つの活動を通して、ミャンマー人の健康を支える名知仁子。大学病院、国境なき医師団といった最前線の経験を経て行き着いたのは、日常生活からの自立支援だった。とはいえ、名知ははじめから崇高な目標を持っていたわけではない。人生プランに国際医療が加わったのは30歳過ぎ、海外の地に降り立ったのは39歳のときだった。途中、乳がんなどを患いながらも医師として走り続ける理由とは――。
-
事例
ジェネラリストと中規模病院の価値観を高めるために。ある家庭医の施策―大杉泰弘氏
在宅療養支援病院が皆無だった愛知県豊田市。2015年、市内の豊田地域医療センターに一人の家庭医が赴任したことで在宅医療看取り率が大きく向上しました。年間看取り数120名の在宅医療支援センターを立ち上げる一方で、2018年現在、18名が在籍する総合診療プログラムも構築しています。この状況を作り上げた家庭医・大杉泰弘氏には、ある展望がありました。
-
事例
「教授選落ちて踏ん切り」年半分を海外で過ごす女医の人生観
浅草生まれの浅草育ち。生粋の江戸っ子で明るく笑顔が印象的な小児科医の岩川眞由美氏。国境なき医師団に初挑戦してから15年後の60歳の時に再び参加し、イラクや南スーダン、ナイジェリアなどに飛んで活動をしています。半年ずつ海外と日本の2つの拠点で生活する「半分海外、半分母国」の生活を続ける理由は、医学生時代と、派遣先での現地人との出逢いにありました。
-
事例
10年目での決意。三重県から新潟県へ一家総出の転職活動―山本重忠氏
転職は大きなライフイベント。そこに遠方への転居を伴うとなれば、プライベートも大きく変わることになるでしょう。そんな中、医局人事以外でははじめての転職でありながら内科からリハビリテーション科への転科、三重県から新潟県への子連れ転居を同時に叶えたのが山本重忠先生です。今回はキャリアとプライベートの両面から、転職前後のリアルな実態を伺いました。
-
事例
まだ日本で浸透していない医学を広めたい! 形成外科医の新たな挑戦―菊池守氏
形成外科医として、乳房再建や下肢静脈瘤の治療に専念していた菊池守氏。キャリアの転機を迎えたのは、医師10年目。ある学会で聞いた発表に衝撃を受け、日本に足病学を浸透させるべく、挑戦を始めました。菊池氏が院長を務める足病専門総合病院の軌跡、今後の展望を伺いました。
-
事例
研究と臨床を行き来して思う、大都市型プライマリ・ケアの役割―密山要用氏
家庭医を志し、王子生協病院で7年半研さんを積んできた密山要用氏。診療を続けていくほどに課題を感じるようになり、行き詰まりを感じた密山氏は、ある決断をしました。今のキャリアを歩む決断に至るまでの悩みや思い、そして今後の展望とは――。
-
事例
開業医から勤務医へ 「閉院」を選んだ50代医師の思い―神内隆宏氏
脳神経外科専門医を取得後、研さんを積み、香川県高松市に「じんないクリニック」を開業した神内隆宏氏。開院から13年目を迎えた2017年、家族、そして自分自身のこれからのことを考え、クリニックの閉院を決意します。開業医から勤務医へ戻る選択をした神内氏に、その胸中を伺いました。
-
事例
都市部の“かかりつけ医難民”を救え!地域に寄り添う家庭医の想い―杉谷真季氏
開業医であった祖父の姿を見て、医師を目指した杉谷真季氏。高校生の時から家庭医を志し、都市部の患者を診ていきたいという明確なビジョンを持ちながら研さんを積んできました。キャリアを築くにあたっての考え方、これから家庭医として取り組んでいきたいことを取材しました。
-
事例
コワーキングスペースを回診! 地域にコミットするクリニックの想い―麻植ホルム正之氏
医療者側から医療の門を狭めない――。麻植ホルム正之氏は、このような思いから2017年9月長野県茅野市にライフクリニック蓼科を開業し、患者に多様な選択肢を提供しています。「人を医療を地域からハッピーに」というビジョンの裏には、どのような思いが込められているのでしょうか。
-
事例
「30代前半でのキャリアチェンジ」は時期尚早?悩んだ末の決断とは―林伸宇氏
医師8年目、30代前半という若さで、東京都練馬区の祐ホームクリニック平和台の院長に抜擢された林伸宇氏。「タイミングとしては正直少し早いのではないか」と思っていた林氏が、急性期医療から在宅医療へキャリアチェンジした背景とは――。
-
事例
医師を離島医療に掻き立てた“一本の電話”―石橋興介氏
2015年、竹富診療所に赴任した石橋興介氏は、島の人の健康に危機感を覚え、住民と一緒に島の健康づくりを推進。その取り組みが評価され、竹富診療所は厚生労働省主催「第6回 健康寿命をのばそう!アワード」の生活習慣病予防分野で、厚生労働大臣最優秀賞を受賞しました。
-
事例
2人の子持ち医師が、あえて通勤2時間の病院で働くわけ―斎藤舞子氏
祖父の死をきっかけに無医村を知り、地域医療を志した斎藤舞子氏。初期研修を通じて理想の医師像と出会い、医療資源の少ない地域で医師として働く決意を固めます。それを実現するために選んだ勤務先は、自宅から片道約2時間かかる東埼玉病院。斎藤氏の原動力、そして、地域医療にかける思いとは―。
-
長文インタビュー
医師インタビュー企画 Vol.20 吉田穂波
「女性は子どもを産むと戦力外?」当時の前提に疑問を抱いた女性医師「子どもを産むと仕事ができなくなる」のは本当か。
-
事例
遠隔集中治療を広めたい!一人の医師を起業に駆り立てた“課題感”とは―中西智之氏
中西智之氏は心臓血管外科医、麻酔科医として臨床現場でキャリアを積んできましたが、40歳で起業。遠隔集中治療の普及に注力するようになりました。このキャリアチェンジの裏側にある思いを取材しました。
-
事例
『ドクターX』の外科監修から予防医療まで。手術だけではない脳外科医のキャリア論―新村核氏
テレビドラマ『ドクターX ~外科医・大門未知子~』(テレビ朝日系)や『コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』(フジテレビ系)。これらの外科手術シーンを監修したのが、医療法人社団誠馨会 セコメディック病院(千葉県船橋市)の新村核先生です。先生のワークスタイルについて伺いました。
-
事例
医療支援に行った医師が、地域の伝統行事に打ち込む理由―小鷹昌明氏
東日本大震災の翌年、大学准教授を辞め、南相馬市立総合病院の神経内科医として赴任した小鷹昌明氏。医療支援ということもあり、赴任当初は1~2年で南相馬市を離れるだろうと考えていたものの、「医療支援だけではだめだ」と気付き、コミュニティの再構築に奔走します。小鷹先生が赴任して丸6年が経過した今、南相馬市にはどのような変化が生まれたのでしょうか。