「女性は子どもを産むと戦力外?」当時の前提に疑問を抱いた女性医師
「子どもを産むと仕事ができなくなる」のは本当か。「一斉行進の列からはみ出してしまったら二流医師なのか」「日本で子育てをしながら働く女性医師の立場を変えたい」。産婦人科医の吉田穂波(神奈川県立保健福祉大学)はハーバード公衆衛生大学院への留学前、子ども2人を抱えながらそう心に誓っていた。仕事と子育てを両立しながら大学院留学にも挑戦したのは、自分の身をもって、働く母親の価値向上に挑みたかったから。現在は公衆衛生医師として母子保健を中心とした統計疫学・政策研究や人材育成の仕事に携わり、家庭では4女1男の母親である。そんな吉田も、30歳を過ぎてからは結婚、出産、夫の留学による海外生活と、自分の努力だけではコントロールできない壁が現れ始めた。妊娠・出産、子育てと医師業とのダブルワーク、留学先での所得格差――。その時々で弱者の立場になったからこそ当事者視点からの変革に挑み続けた、吉田の原動力に迫った。
仕事も家庭も中途半端、だからこそ医師10年目で留学を決意
吉田が医師になったのは1998年。女性医師の割合が全体の15%にも満たない時代、医学部生から研修医の時期にかけて、男性中心の医療現場で育った。それでも「その時の挫折、悔しさ、失敗のおかげで今がある」とやわらかな笑みをこぼす。
医師になって20年の節目を迎えた2018年現在、吉田は神奈川県で保健医療分野の人材育成や、母子保健と災害時対応に関わる公衆衛生医師として、新たなチャレンジのステージに立つ。母子保健は人の生涯の健康基盤にかかわる分野だが、家族、地域全体の健康や疾病予防という観点からはなかなかその効果を検証することが難しい。そんな中、吉田はICT(Information and Communication Technology、情報通信技術)やAI(Artificial Intelligence、人工知能)などの最先端技術を取り入れ、楽しく使いやすい母子保健支援ツールを開発している。例えば電子母子手帳アプリの普及啓発を通して、平時からの妊娠・出産・子育て支援や人口過疎地における少子化対策など、有事の際も情報閲覧や専門職の派遣が叶えられるようなしくみづくりに力を注いでいる。また、人々がこれからの「人生百年時代」をどう生きるか、産官学、市町村等と連携し、社会人がヘルスケア分野とビジネス分野を学べる大学院「ヘルスイノベーション研究科(2019年開校予定)」の設立準備に携わる。
「病院にいた頃は、厚生労働省をはじめ、国や自治体の考えに対する認識は浅く、むしろ現場感覚との乖離を感じることもありました。でも、ハーバード留学や東日本大震災を経験して、医療という社会インフラや社会システムをつくるのはやはり行政や自治体なのだと再認識したんです。そこに何かしらの課題があるなら文句を言うのではなく、私が解決の一端を担う姿勢でないと良い方向に進まない。だからこそ、2012年からパブリックセクターに飛び込み、政策研究を学んでいきました」
2013年に5人目の子どもが産まれてもなお、厚生労働省や文部科学省の補助金を得て、母子保健や災害対応、地域の紐帯形成に関する研究を行い、エビデンスの蓄積や論文作成に取り組んだ。今も災害時の母子支援は、吉田にとって大きなテーマだ。
吉田の歩みには、最初から「社会的弱者を助けたい」という明確な軸があったかのように見える。ただ、吉田いわく「今までのキャリアはすべて出会いと幸運の賜物」。転機となったのは結婚、そして医師10年目で決意したハーバード公衆衛生大学院への留学だったという。
「留学を決めた当時は、産婦人科の臨床現場にいました。仕事も家事も100%頑張っているのに、職場では午後5時に帰る人、家では子どもが起きている数時間しか一緒にいられない母親。つまり、どちらの立場も中途半端ではないかと自ら感じていたのです。子どもはかわいいし、仕事も楽しい。両方とも一生懸命やっているのに誰も褒めてくれないのはなぜだろう、もっと働く母親を認めてほしいと、今思えば狭い了見ながら、そう強く思っていました」
仕事と子育ての葛藤の中、大学院留学というあえて険しい道を選んだ理由、それはこれまでの原体験にさかのぼる。
競争レースからはずれてもなお、自分の望むキャリアを歩み続ける
もともと吉田は、読書が好きな生粋の文系女子学生。ただ、9歳の時に超未熟児の弟が産まれ、16歳の時にはテニス部の合宿中に自身の左膝靭帯を損傷するなど、患者側から医療の世界を眺める機会は多かった。
「弟が産まれた時の緊迫した雰囲気や両親の深刻な表情から、幼心に命の儚さを感じ、儚いからこそ守る価値があると思いました。高校生になって自分の靭帯損傷により松葉杖をついて生活した際、膝を治してもらった柔道整復師さんにどうやって恩返しをしたらいいかと考えて手紙を書きました。そうしたら『このお礼は自分にではなく、あなたが他の人の力になることでお返ししてください』と言われ、その時から自分のためだけでなく人のために役立つ仕事を志向するようになりました」
当時、何かの本で「難しいものと簡単なものがあったら、まずは難しいものを選びなさい。うまくいかなかったとしても、簡単なものに軌道修正する方が楽だから」という言葉を読み、意を決して三重大学医学部に進学。しかし、実際に医療現場を見て痛感したのは、女性医師のキャリアをはばむハードルがいくつも存在することだった。「当時は女性医師が少数派だったこともあり、まるで最初から期待されていないかのように感じた」という吉田。その悔しさをバネに、卒後の研修先は当時、全国で1、2位を争うほど教育レベルが高いと言われていた聖路加国際病院に決めた。当時はまだ全科ローテーションのレジデンシー制度が珍しかった時代。大学の先輩たちに「卒後3年間の学びが医師人生の基礎になるから」と教わり、勧められた道だった。しかし、自分の専門については医学部のポリクリ研修や多くの研修病院見学をしてもなかなか決められなかった。迷いに迷った末、直感に従い、お産への感動と小さな命を助けることへのやりがいを感じた産婦人科を志す。
同院で、身を粉にして働く中で学んだものは大きい。「レジデントの頃に、妊娠中から出産まで、一人の患者さんに付きっきりで経過を追えたことが良かったと思っています。『終業時間だから帰ります、次の日来たら生まれていました』ではそれまでに何が起こっていたのかがわからない。今は労働時間の問題で賛否両論あるかもしれませんが、眠い目をこすりながらでもお産のプロセスに付き添った経験が、患者さん一人一人への思い入れにもつながりました」
三つ子の魂100まで、とは人の一生についてよく言われることだが、吉田の医師人生にとっても研修医時代の修行が、その後の臨床スキルの素地を作った。
3年にわたる怒涛の臨床研修を終えた後は、大学教員である両親の勧めと自分の意志もあって、大学院で博士号をとる道を選択。日中は臨床、夜は研究、と医師としての専門性を高め、順調にキャリアアップを叶えていった。しかし、大学院3年目、30歳の時にある転機が訪れる。それが「結婚」だった。
海外で思い知った多様性、時にみじめな経験も
結婚相手は、友人の紹介で知り合った感染症内科医。夫は、知り合った時点で翌年のドイツ留学が決まっており、その後もイギリス留学が控えていた。そうした状況下、吉田は最短で博士号を取得して大学院を修了。自身の渡独から9ヶ月後には第一子を出産するなどライフイベントが立て続けに起こる。それでも仕事を辞めて家庭に収まるという選択肢はなかった。
「せっかく海外にいるなら、その地の臨床を見たいと思い、ドイツとイギリス両方で、研修医のようなかたちで臨床現場を体験させてもらいました。日本とは異なる診療体制や患者との向き合い方、薬の使い方、トータルヘルスケアを学べたからこそ、帰国後の日本で、黎明期だった女性総合診療に参加させてもらえたのだと思います」
HPV検査やHPVワクチン、低用量ピルの処方はまだメジャーでなかった時代、院長はじめクリニックの医師たちと、女性の健康に関する普及啓発活動を行いながら3年間働いた。同クリニックは、女性医師が働き続けられるような環境整備にかけては、当時、時代の最先端を行っていた。
「イギリスからの帰国後、生後半年の長女を保育園に預けられるようになるまでは、院長先生の計らいで、ベビーシッターさんにクリニックの事務所まで来てもらって、子連れ勤務を可能にしてもらいました。今でいう院内保育所のはしりです。そのおかげで復職ができるようになったと今でも感謝しています」
しかし、周囲が激務の中、子育て中の自分だけが午後5時になると「すみません」と言いながら職場を後にする、肩身の狭い日々を送る中で、いつも胸いっぱいの罪悪感を抱いていた。同時に「子育てしながら働ける方法を学びたい」「医師の勤務環境を改善するにはどうしたらいいのか海外の先行事例を学んで来たい」と思うようになったのだ。
「その頃は『社会を変えよう』なんて崇高なことは考えられず、とにかく自分のこの状況を変えたいという気持ちでいっぱいでした。当事者が声をあげないと変わらないと思っていましたが、子育てをする女性医師が少数派でしたので、自分の身を持って、子育て中の医師が頑張れるということを証明したかったのです。臨床現場に迷惑をかけないよう、留学時期は第3子の産休育休に合わせました。そして、海外で公衆衛生学を学ぶならここ、と勧められたハーバード公衆衛生大学院を目指すことにしました。今振り返ってみると、子育て中の悔しさや憤りを着火剤にしてよかったと思います。例えば、世の中の役に立ちたいといったきれいごとだけでは、仕事と子育てと受験を乗り越える馬力は出なかったかもしれません。自己価値観の低下や不満と言ったマイナスな気持ちも、うまく利用してポジティブな力に変えれば、自分の原動力になるんだと気付きました」
著書『「時間がない」から、なんでもできる! 時間密度を上げる33の考え方』(サンマーク出版、2013年)
日々の仕事や育児、家事に追われる中、いかにして自分のやりたいことを始めるか、そして取り組み続けるかについて、ハーバード公衆衛生大学院から帰国後に上梓。
特に、留学前の受験勉強のポイントや留学中の失敗、そして苦境の乗り越え方について赤裸々にさらけ出し、時間がない中でいかに納得のいく選択をするかといったヒントにあふれている。
ハーバード公衆衛生大学院では、疫学や統計、リーダーシップ、ジェンダーなど幅広い学びを得た。しかし、身分上はあくまでも留学生。無収入なうえに学費、保育料、家賃などで、貯金はどんどん消えていく。格差社会のアメリカでは貧困層に位置付けられ、無月経になるほど極度のストレスを抱えるまでに追い詰められていった。
「妊娠中の女性や5歳以下の乳幼児が受けられる食料配給制度に登録したものの、福祉制度の対象者として、社会から施しや援助を受ける立場の弱さを感じました。慣れない環境下、保育所や住居に関わるトラブルなどが重なってしまい、毎日周囲の助けを求めることに必死でした。今まで病気を治すのは病院にいる医師や医療従事者だと思っていたのですが、このような一連の経験から、人を健康にするのも病気にするのも、その人が置かれた社会システムが重要なのだと気付かされたのです。例えばその人のおかれた生活環境、経済状況、サポートチームの有無など。それが、現在、公衆衛生医師という立場で取り組んでいる政策研究や、社会疫学、地域保健、行動健康科学などに興味をもったきっかけです」
悔しい思いを、未来と他者のために役立てるというキャリア・プランニング
これまでストレートな一本道ではなく、お寺の踏み石のように、回り道をしながらキャリアを選んできた吉田。聖路加国際病院で研修をし、大学院で博士号をとるまでは自分が予想していた道だったが、そこから先は「あっちがだめならこっちに行こう」というように、その時、その時でベストだと思える決断をしてきた。他方、プライベートでは「子だくさんの母でありたい」という思いが叶い、4歳から13歳まで5児の母親という一面を持つ。
「わたしにとっては、最初から競争レースに乗れなかったことが、かえってよかったのかなと思います。女性だからというだけでなく、能力や努力が及ばず、受験や就活、昇進に失敗した経験も一度や二度ではありません。でも、今となってみれば、その時選ばれなかったことが、必然で必要だったのかもしれないと思うんです。だから、不合格や不採用、失敗、挫折を経験する人には、それはもしかしたら、もっと良い方向につながっているかもしれないと言いたい。閉じた扉に未練を持つよりは、新しく開いた扉に目を向けて、そちらの方がチャンスだと思ってみてはいかがでしょう。自分が無理なくフィットするところを見つけ、自分にぴったりの出来事がベストタイミングでやってきた、と思うと、新しい領域でも成長できるのではないでしょうか。
そして、多くの若手医師に伝えたいのは、仕事も子育ても、完璧を求めなくて良いんじゃないかなということ。特に、子どもは親以外にも、保育園、近所の人、学校の先生、さまざまな影響を受けながら自分なりに育っていきます。自分は太陽のように恵みを与え、子どもの生きる力を引き出し、花を育てるように陽の光を存分に注いで見守るくらいがちょうど良いのかもしれません。私は子育てを通じて他者の成長を助けること、患者側の立場、保健医療制度やケアの本質を学びました。子育てで成長させてもらえたのは子どもではなく、むしろ自分のほうです。
・・・もっとも、子育てと自分の仕事の両方を花開かせることの折り合いは、今でも永遠の課題ですが」
医師、働く母親、留学生、あらゆる立場で得た気付きを自身の糧にし続けてきた吉田氏。偶然を掴み取り、それらに真摯に向き合ってきたからこそ、想定外の出来事もチャンスに変えていけるのかもしれない。
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