岡田正人がブレないわけ
「日本の臨床はまだまだこれから」―。そう評されるほど未成熟だったアレルギー・膠原病領域を極めるために、単身でアメリカへ渡ってから25年。現在、聖路加国際病院(東京都中央区)でアレルギー・膠原病科部長として診療・後進指導に携わるのが岡田正人だ。どんな状況でも怯まず、キャリアを突き進んできた背景にある哲学とは-。
「身一つでどこまで患者に寄り添えるか」
日本では、アレルギー疾患を持つ患者の多くを耳鼻科、皮膚科、呼吸器科など、臓器別診療科が分担して診療してきたのに対し、アメリカでは、アレルギーという症状をベースに臓器・年齢を問わず患者に対応する。アメリカでアレルギー・膠原病領域の治療に携わってきた岡田は、そのやりがいを、次のように表現する。
「アレルギー・膠原病などの自己免疫疾患は、根治療法が確立されておらず、多くの患者さんは、病気を抱えたまま生き続けなければいけません。
そんな患者さんの容態を左右するのは、最新治療に頼るというよりは、むしろ医師が患者さんに『身一つでどこまで細かくフォローできるか』です。疾患がすぐに生死に関わる病態でなくても、患者さんのQOLに与える影響は少なくありません。医学的根拠に基づいて説明し、生活習慣の改善も併せて薬を減らし、副作用を少なくする方法を、時間を掛けて伝えます。ここは医師によって対応の差が出やすいところだと思います。
また、病態の解明がなされていない分、治療法は日々アップデートされていきます。そのため、医師が最先端の知識を身に付けているほど、患者さんに提案できる治療選択肢は拡大します。医師がどこまで親身に患者さんに向き合っていくかが、患者さんの人生に影響を及ぼしやすいのです。
こういった医師の影響力の強さがこの領域の難しさであり、魅力でもあると思います」
そんな魅力を感じてか、「特に膠原病の領域を志す医師は、最近になって増えてきた」というのが岡田の実感だ。岡田がこの自己免疫系の領域でキャリアを歩み始めた25年前から、様相は大きく変わったと話す。
「日本の遅れ」は妨げにならず
岡田が自己免疫疾患の領域への進路を考え始めたのは、医学部3年のとき。「免疫が得意で面白いと思った」のがきっかけだった。医学部5年には、九州の膠原病の専門施設を見学し、この領域でキャリアを歩む意思を固めた。施設の医師たちが患者と密に対話しながら治療方針を決めていく様子を見て、話し好きの自分に向いていると感じたからだ。
当時は、利根川進が免疫の研究でノーベル賞を受賞し、免疫系の研究成果の臨床応用がようやく始まろうとしていた時期。
「当時、国内の研究者から日本の膠原病治療が『大きく遅れている』とも言われていました。でも、そんなことは進路決断の妨げにはならなかったですね。研究も臨床も進んでいるアメリカへ渡ればいいのですから」
「日本が遅れているならアメリカへ」。そう決めた岡田の行動は早かった。その後の大学生活では、英文の教科書で勉強を進め、「日本人が受験しても500人中10人も受からない」と言われた当時のアメリカ医師資格試験(FMGEMS)に医学部6年時に合格。卒後は、国内の医療機関で2年間臨床能力を磨いた後、1991年、米ベス・イスラエル病院メディカルセンターで新たなキャリアを開始した。
当時はインターネットも存在していない時代。今以上に、アメリカで医師免許を取得して臨床現場でキャリアを積むことが日本人医師にとって珍しく、情報も限られていた。岡田はそんな中で、医局の後ろ盾などもなく、単身でアメリカにわたることを決断した。大胆な決断だったようにも映るが、その背景には、岡田の「最適なキャリアを選ぶためのルール」があるのだという。
得意、好き、人の役に立つ
「キャリア選択は、1.得意なことの中から、2.好きなことを見つけて、その中からさらに3.人の役に立つことを選ぶ、という3つのステップで考えることが大切です。たとえ『好き』だとしても、それが『不得意』だと成果は出せませんし、『得意』で『好き』だからといって、それが『人の役に立たな』ければ、誰にも認められませんから。
3つのステップに合致していれば、あとはその道を信じて努力するだけ。今でも、若者にキャリアについて講演をするときは、このルールを紹介しています」
実は大学入学当初、岡田は脳神経外科医を志し、その勉強にも打ち込んでいた。ただ、手先が不器用だと気付いたため、別の道を選ぶことにした。
「このルールで注意すべき点は、自分の得意分野を思い込みで決めないということです。一通り勉強して初めて、自分の得意分野が分かります。たとえば、医学生であればテキストを読み込むこと、研修医であれば主要ジャーナルを毎週読むことは最低限必要でしょう」
岡田にとって、アレルギー・膠原病科はテキストの内容も頭に良く入り、患者と根気強くコミュニケーションを取る診療スタイルも好きになれた。岡田自身が子どもの頃アレルギー体質で悩まされたこともあり、自己免疫疾患の領域であれば、自分だからこそできる貢献があるのではないかとも思えた。「最適なキャリアを選ぶためのルール」に当てはまったため、迷わずその道に突き進んだ。
最終的に岡田は、米国で約5年間の臨床経験を経てファカルティフェロー(指導医)を2年ほど務めた後、仏パリ・アメリカン・ホスピタルで、8年間アレルギー・膠原病診療などに携わってきた。「得意」で「好き」で「人の役に立つこと」である限り、診療科や国を問わず、挑戦する価値があると考えていた。
後進に伝えたい 医師という職業のやりがい
100年以上の歴史を持つ聖路加国際病院。現在、岡田は同院のアレルギー膠原病科部長を務める。都心部に500床以上を有し、病床当たりの医師数と看護師数は全国平均の数倍―。欧米の複数の医療機関を見てきた岡田だが、「ここまで環境の整った医療機関は世界的にも珍しい」と話す。
「当院に対する患者さんからの期待は本当に大きい。当院の強みは、病院全体がそのことを非常に良く理解していることにあるのではないかと思います。
研修医にもやる気がありますし、看護師の臨床レベルも、アメリカのレジデント以上だと思う場面もあります。事務部門の方も、日本ではまだ普及していない医薬品や機器が必要となれば、精いっぱい対策を考えてくれます」
人気の臨床研修病院としても知られる同院で、岡田が後進育成において意識して伝えていることのひとつが海外から学ぶことの大切さだ。特に海外の学会では、単に発表するだけではなく、セッションや講演を終日聞いて回るよう勧めている。
「わたしの科では、誰かが学会に行ったら、見たセッションの内容を科のメンバーに即座にメールでシェアしてもらっています。とにかく海外からもできる限り知識を吸収してほしいですね。
というのも、海外の論文を読めばおよそ1年後、学会に行けばおよそ2年後の医療が分かります。1年後、2年後が分かれば、患者さんに提案できる選択肢が増える。勉強したことが結果に直結する。それが医師という職業のやりがいのあるところではないでしょうか。そうしたことを後進に伝えていけたらと思っています」
“be a doctor” 医師の力の源は、患者の信頼
取材中、「そういえば」と、岡田はお気に入りの動画を見せてくれた。アメリカに実在する医師の半生を描いた映画『パッチ・アダムス』のワンシーンで、医学部長が医学生に向かってこう語る―。
「医師の力の源は、患者からの信頼だ。だが、人はズルもするし失敗もする。そんな人間を訓練して人間性を高め、医師に育て上げるのが、我々医学部の使命だ」
このシーンを若手医師に見せて、岡田は次のように伝えるのだという。
「人間だから間違っても仕方ないと思わないこと。医師になるとは、患者さんから信頼を得るということです。だから、その患者さんの信頼を裏切らないように、常に『自分は間違っているのでは』と思って、細心の注意を払いながら患者さんを診なければいけません」
そんな岡田の座右の銘は、「be a doctor」。つまり「汝、医師たれ」だ。
「医師にとって大事なことは、どこで何をするかではありません。患者さんの信頼に足る人間となり、医師として勉強に励むことが最も大切なのです。特に若手医師や医学生の方々にはぜひそう伝えたいですね」
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