国境なき医師団・加藤寛幸の挑戦
紛争地帯や災害地域で危機に瀕した人々への緊急医療援助を展開する「国境なき医師団」。その日本事務局会長として、途上国での医療活動に身を投じているのが加藤寛幸だ。医師としてこれまで9回にわたり援助活動に参加してきた加藤。途上国医療の光も闇も目の当たりし、挫折を繰り返してなお活動に身を投じ続けるのには、わけがある。
医師22年目に南スーダンで味わった、まさかの挫折
「先生、どうもありがとう。また会おうね」――。
2014年の南スーダン。現地の子どもたちが目を輝かせながら贈ってくれた感謝の言葉を、加藤はうまく受け止めきれずにいた。3か月間のミッションを振り返り、「自分には何もできなかった」という無力感が、何にも勝ったからだ。
2011年に独立を果たしたばかりの南スーダンでは、独立して間もなく内部分裂が勃発。加藤が現地に訪れた2014年当時、社会的インフラは完全な崩壊状態に陥っていたという。加藤が赴任した北バハル・エル・ガザル州の州都アウェイルにあるアウェイル病院は、州の全住民約120万人に対応する、たったひとつの病院。各地での戦闘によって首都からの医薬品供給も遅延しているような中で、新生児を含む小児科診療、妊産婦への産婦人科診療、熱傷や骨折・外傷などの診療の指揮をとるのが加藤のミッションだった。武装蜂起に巻き込まれた緊急搬送者、雨季に伴うマラリア流行、圧倒的な医療物資とスタッフの不足――めまぐるしい混乱状態の中で、助けられる命は限られていた。
「顔に大やけどを負いながら炎天下を3日も歩いて病院に来た7歳の少女、すぐに治療すれば治るはずのマラリアで命を落としていった多くの子どもたち――一つひとつの出来事が、今も脳裏に焼き付いています。『あなたを助けることはできない』と患者に告げるたび、筆舌に尽くしがたい敗北感と申し訳なさでいっぱいでした。正直なところ、ミッションを終えて感じたのは、現地に貢献できたという達成感などではなく、つらい環境から抜け出して日本に帰れることのうれしさと、現地の患者さんたちへの申し訳なさでした」
そのとき医師22年目。それまでも国境なき医師団の活動にも定期的に参加し続け、日本国内でも小児救急科の立ち上げなどを経験するなど、医師としてのスキルにもある程度の自信を持っているつもりではあった。にもかかわらず圧倒的な挫折を味わった加藤は、帰国後に当時勤務していた静岡県立こども病院を退職。国境なき医師団の活動一本でキャリアを歩んでいくことを決め、2015年には国境なき医師団日本の会長に就任した。会長として国境なき医師団日本の運営に携わることで、現地の医薬品供給、人員体制など、組織として対応しなければならない課題にも向き合いたいと考えたからだ。「すべては現場のために」。それが、会長としての信条だという。
「残りわずかな狂犬病のワクチンを、どの患者に使うべきか――特に南スーダンでのミッションは、そんな厳しい判断の連続でした。あんな状況を、どうにかなくしたい。国境なき医師団は国際NGOとしては規模が大きいですから、医薬品の供給網を整えたり、途上国に必要な薬の製造を製薬企業に訴えたりもできるはず。現場スタッフが働きやすいよう、組織としてのバックアップ体制にも力を入れていきたいと思っています。
われわれだからこそできる援助が、きっとある。固定観念にとらわれず、現地のためになることであれば、積極的に挑戦していきたいですね」
国境なき医師団とは
国境なき医師団は、1971年にフランスで誕生。人種や宗教、政治的信条を越えて、独立・公平・中立の立場で医療を提供。世界約70の国と地域で医療援助活動を展開するほか、現地で目の当たりにした虐殺や強制移住などの人権問題を国際社会に訴える、証言活動にも注力している。
1999年にノーベル平和賞を受賞したこともあり、途上国医療の担い手として国際的にも高い知名度を誇っているが、日本事務局が設立されたのは1992年と、比較的新しい。2016年度は34の国や地域に107人の日本人スタッフを156回派遣。医療技術が高く協調性もあるとして途上国支援において日本人医師を求めるニーズは高く、外科、産婦人科、麻酔科、内科など複数の科目で、恒常的に医師を募集している。
10年がかりで実現させた「国境なき医師団」への思い
そもそも加藤はなぜ、国境なき医師団の活動に身を投じるようになったのか。
その原点は、1993年にまでさかのぼる。東京女子医科大学の小児科への入局を控えた当時、空港のロビーで偶然、国境なき医師団のプロモーション映像を見る機会があったのだという。
「やせ細った子どもたちに、懸命に処置をしているスタッフの様子を見て、『こんな世界があるのか』『僕にもできることがあるのではないか』と思ったんです。それまで、国境なき医師団はもちろん、途上国医療についても考えたことがなかったのですが、医療にアクセスできずに命の危機にある多くの子どもたちの存在を改めて知ると同時に、自分にできることがあるならば、やらないという選択肢はないと思いました。もし行動を起こさなかったら、あんな酷い状況を受け入れているのと同じだと感じたんです」
それ以降、加藤の日常は激変した。国境なき医師団の現場で役立ちそうな経験を求め、大学医局の人事においても、あえて人出が足りない医療機関での勤務を志願。サブスペシャリティに小児救急を選んだのも「途上国医療に役立ちそう」という理由からだ。ただ、周囲の反応は必ずしも良くはなかった。「日本国内にも医師不足に困っている地域はある」「まだまだ半人前なのだから、もう少し考えてみてはどうか」――そんな意見を聞くたびに、何が何でも夢を実現させてやろうという反骨精神が奮い立ったと当時を振り返る。
しかし、夢はそう簡単には実現しなかった。国境なき医師団に参加するためには書類選考や面接審査を受けることになるが、なかなかこれを突破できず、1度目は語学力不足、2度目は臨床スキル不足で不合格に。3度目の正直でなんとか合格を勝ち取ったのは、2003年。国境なき医師団への参加を夢見はじめたときから、10年以上の年月が流れていた。
「10年間、語学力を鍛えるためにオーストラリアに留学したり、熱帯医学で有名なタイのマヒドン大学で学んだり――自分なりに努力はしていたつもりです。周囲に威勢良く夢を語ってきたこともあって、なかなか合格をもらえない状況には焦りましたし、こんなに頑張っているつもりなのに実現できなかったらどうしようという不安もありました。
それだけに、合格を言い渡されたときはうれしかったですよ。一つの目標に向かって10年も頑張り続けることなんて、人生で初めてでしたから。合格後、実際に現地での活動経験のあるスタッフに何人も会ったのですが、皆、背中で志を語るような、味のある方々ばかりで。『やっとあこがれていた医師たちの仲間入りができる』という喜びは本当に大きかったですね」
晴れて国境なき医師団の仲間入りを果たした加藤。初めてのミッションは2003年、スーダンにある孤児院での小児医療だった。それまでの助走期間が長かっただけに張り切って参加した加藤だったが、そこで途上国医療の難しさを知ることとなった。
路上に捨てられる乳児➖はじめてのミッションで見た衝撃
生まれて間もない乳児が、道端に捨てられている――。
イスラム教の戒律が厳しいスーダン。避妊や中絶が許されない上、未婚女性の妊娠が罪となることがその要因だと考えられるが、当時、乳児が路上に放置される事例が多発していたという。加藤は孤児院で待機し、瀕死状態で運ばれてくる子どもたちの救命措置を行った。孤児院には年間500人の捨て子が連れてこられるが、そのうち450人は死亡するというのが、2003年当時の状況だった。多くの子どもたちの死を見送ったときの心境を、加藤は次のように振り返る。
「何というか、1人亡くなるたびに、石を1つ飲み込むような感覚で、日を増すごとに、どんどんその石の数が増えていって、立ち上がれなくなるような気持ちでした。『子どもたちを助けるために来たつもりだったのに、どうしてこんなことになっているんだ』『赤ちゃんが亡くなる責任は、医師である自分にあるに違いない』と、自分を責め続けました。
もともと孤児院にいたスタッフたちは長年子どもたちが死んでいくのを見てきたせいか、子どもたちとの距離を保とうと意識しているようにも見えました。毎年400人もの赤ちゃんがなくなるのを見て平気でいられる人なんているはずがないわけがないにもかかわらず、です。スタッフの協力を得らえないのだから自分が頑張るしかないのだと、初めのうちは休みも取らず1人で診療に励んでいたのですが、スタンドプレーのように見えたのか、周囲との関係は、どんどん悪くなっていきました」
10年もかけてようやく叶った、国境なき医師団の活動。だからこそ目の前の子どもたちのためにできることはすべてやろうと、心に決めた。ただ、次々と亡くなっていく子ども達の姿を見て、加藤は「自分1人ができることには限界がある」と次第に悟るようになっていった。子どもたちのために、自分がすべきことは何か――。加藤は周囲への声がけを心がけるようになり、息抜きの時間は他のスタッフと一緒に過ごすようにした。驚くべきことに、こんなちょっとした気配りの積み重ねで、チームは徐々に良い方向へと向かっていったという。
「距離が縮まったことで、現地スタッフが、赤ちゃんの容体に異変があると教えてくれるようになったんです。その結果、以前なら亡くなっていたであろう赤ちゃんを救えるようになりました。すると、瀕死状態にあった赤ちゃんが徐々に子どもらしい可愛らしさを取り戻していって、だんだんと現地スタッフも子どもたちとの距離を縮め、愛着を持つようになっていった。少しずつですが、孤児院が子どもたちの元気な泣き声や笑顔でつつまれていくのを感じました」
チームを改善に導けたのは一つの成功と言えるかもしれない。ただ、加藤の心境は複雑だった。
「半年で250人の子どもを治療しましたが、生存したのは150人。残念ながら、100人の命は救えなかった。もし、わたしがもっと早く、チームのメンバーに心を開いていたら、もっとたくさんの子どもを救えたはず。そう思うと、悔やみきれません。
あれから複数の国々で医療活動を行ってきましたが、今でも思い出されるのは、助けられた命ではなく、助けられなかった命のことなんです。せめて救いきれなかった子どもたちの思いを背負って、次のミッションに挑みたい。そんな思いで、国境なき医師団に携わってきました」
助けられなかった子どもたちのことを思い出すと、今でも目頭が熱くなる。スーダンでのはじめてのミッション以降、今日まで加藤は計9回にわたり国内外での支援活動に従事。文頭に記した南スーダンのような、医療崩壊地域での小児医療を中心に、途上国医療に携わり続けている。
損得勘定で動いているうちは、本当にすべきことは見えてこない
夢を抱いて国境なき医師団に参加し始めて以来、2度と見たくないような光景も幾度となく目の当たりしてきた加藤。理想と現実のギャップにさいなまれることもありながら、それでも国境なき医師団に携わり続ける理由を、次のように語る。
「自分のことを待っていてくれる人がいる。シンプルですが、この一言に尽きると思います。
暑いし、汚いし、設備も十分には整っていないし、キャリア的にもどう評価されるかはわからない――『自分にとって損か得か』という基準で考えると、現地に行かない理由はいくらでも列挙できると思います。でも、『お金持ちになりたい』とか、『楽な生活をしたい』とか、当然のごとく抱いてきた個人的な欲求が些末に思えるような圧倒的ニーズが、現地にはあるんです。ときに、その重圧に押しつぶされそうにもなりますが、懸命にもがきながら現地の人々や自分自身に向き合ってきたことで、生きることの意味、厳しい環境で暮らす人たちの優しさやたくましさ、家族のつながりの強さを感じてきました。
今なお、『日本にも患者さんは大勢いるのに、どうしてわざわざ海外に渡るのか』と問われることはあります。ただ、世界には、10万人あたりたった1人しか医師がいないような国もあって、個人の力ではどうしようもない状況に苦しんでいる人々がたくさんいる。その事実に対して、『海外の出来事だ』と心のなかに国境線を引いて傍観するのではなく、自分にできることを考えたい。自分を頼りにしてくれる人たちのために、これからも行動していきたいと思っています」
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