誰ひとりとして見捨てない、栃木の赤ひげ・髙橋昭彦
障がいを持つかどうかは確率の問題。たまたま障がいを持つ人とその家族が、なぜこんなにも苦しまなければならないのか――。この思いを出発点に2002年から栃木県宇都宮市で「医療的ケア児」と呼ばれる子どもたちを対象にした在宅医療、家族支援をしているのが髙橋昭彦だ。その取り組みが認められ、2016年には日本医師会「赤ひげ大賞」を受賞。採算度外視で我が道を行く髙橋だが、40歳を迎えるまでは自身の生き方に悩んでいたという。髙橋のキャリアを突き動かした出来事とは。
すべての人に、当たり前の暮らしを
宇都宮駅から車で30分、視界が少し開けたところにあるヒノキや杉をふんだんに使った建物が髙橋の本拠地・ひばりクリニック。一歩足を踏み入れると、木のぬくもりを感じる空間にスタッフの笑顔が映える。子ども好きが高じて小児科医を志した髙橋は、その言葉の通り、子どもたちを目にすると思わず顔がほころぶ。診察の始まりと終わりは立ってあいさつをするという、親しみある診療スタイルも好評だ。
外来業務に加えて力を入れているのが、人工呼吸器や経管栄養といった医療デバイスで命をつなぐ子どもたちを対象にした在宅医療。医療技術の向上とともに救われる命が増えた結果、医療的なケアを受けながら自宅で暮らす子どもたちは現在増加傾向にある。2016年の障害者総合支援法改正によって「医療的ケア児」と呼ばれるようになり、ようやく法制度のセーフティネットに含まれるようになった。とはいえ、今なお両親の負担は重く、本人の教育や社会参加がままならない状況が続いている。
「医療的ケア児は2015年時点で約1万7000人にも上りますが、高齢者は全国に340万人。この数字からも分かる通り、高齢者支援は誰にとっても身近なものであり、問題意識をもってもらいやすい一方、障がい者は自分の身近にいない限り、なかなか理解されません。
正直なところ、障がいを持つかどうかは確率の問題で、誰にだって障がい者になる可能性がある。だからこそ、社会全体で当事者を支えていけるような体制をつくらなければならないと思っています。当院の活動を通じて、医療的ケア児やそのご家族が当たり前の暮らしを送れるようなサポートをしたい。そしてその過程で、当事者たちの思いや環境について発信して、社会的な認知を高めていきたいと考えています」
現在は外来・在宅医療だけでなく、医療的ケア児の預かり事業や病児保育にまで守備範囲を広げている髙橋。ただでさえ採算がとりづらい小児領域で開業に踏み切る契機となったのは、2001年9月11日、同時多発テロに揺れるアメリカでの体験だった。
揺り動かしたのは、シスターの言葉と九死に一生の経験
「目の前のことをやりなさい。そうすれば必要なものは自然と現れます」
同時多発テロが起こる3日前の2001年9月8日。アメリカ・ワシントン郊外にあるエイズホスピスの運営代表のシスターから聞いたこの言葉を、髙橋は今も胸に刻んでいるという。当時、日本国内の介護老人保健施設に勤務していた髙橋は、緩和ケアのあり方を学ぶために現地を視察。そこで注目したのは、ホスピスの運営モデルだった。このホスピスは補助金や患者収入に頼らずに、長年にわたってエイズ患者たちへのケアを継続。その理由は、「信念に基づいて目の前のことを行った結果、共感が集まり、世界中から寄付やボランティアが集まるようになったから」だと聞いた。
衝撃だった。その時、髙橋は40歳。自治医科大学卒業後10年にわたる義務年限と、宇都宮市での6年の勤務医生活を経て地元滋賀県にある介護老人保健施設に勤務していた。両親や5人の子どもたちとの生活には満足感もあったが、医師としては閉塞感を感じ始めていた。
「当時は、大きな組織を動かす理想と現実のギャップにさいなまれていました。勤務していた老健では、食事の出し方やお看取りの仕方、接遇に至るまで、職員を説得する日々。経営者ではなく雇われの身で何に挑戦するにも、できない理由ばかりを考えるようになっていたのです」
しかし髙橋の胸中には、漠然とやりたい医療があった。それは、子どもからお年寄りまで幅広い患者の悩みに応じられる医師になること。医学生時代のボランティアで障がい児と触れ合ったり、27歳のへき地勤務で在宅医療に出会ってきたりしたからこそ「診療だけではなく、その人の生活にまでサポートできる、温かみのある医療がしたい」という思いを胸に秘めてきた。ただ、本当に実現できるのか。夢を叶えられたとしても家族を養っていけるのかと、思いを押し殺してきたのだった。
「日本に戻ったら、自分が本当にすべきことを考え直そう」
そう思いはじめた同年9月11日、ニューヨークにあるホスピスへ見学に行こうとしていた矢先に同時多発テロが起きた。髙橋の目の前でビルが燃え崩れただけでなく、事件から数日後、テロリストがまだニューヨークにいるかもしれないと噂されている中で、ホテルの非常階段を駆け下りたときは「死ぬかもしれない」と思った。同時に、このまま挑戦せずに死ぬのは嫌だと強く願う自分の思いに気づいた。
同時多発テロから半年後の2002年5月、髙橋は勤務医時代のネットワークが生きる栃木県宇都宮市で開業。まさか自分が開業するなど夢にも思っていなかったので、資金や設備はまったくのゼロ。自己資金500万円と父から前借りした老後資金1000万円で、ひばりクリニックが設立された。
「ないないづくし」のクリニック運営で得た手ごたえ
「ないないづくし」からのクリニック運営は、当然ながらそう簡単ではなかった。
資金がないので職員は勤務医時代の縁を通じて出会った事務職一人だけ。ベッドや事務機器などは知人の医師に譲ってもらい、何とか体制を整えた。開業早々、アメリカでシスターに言われた言葉 ―「あなたの目の前のことをやりなさい。そうすれば必要なものは自然と現れます」― が彷彿とされるようだった。
そんな中でも早くから好調だったのが在宅医療。勤務医時代に関わっていたグループホームの入居者6人を担当することが決まっていたからだ。とはいえ、現在のように医療的ケア児を受け入れるようになったのは、開業から半年後のこと。受け入れ第1号は、勤務医時代に「大学病院を退院するから在宅医療の担当になってもらえないか」という依頼を受けていた子どもだった。
「勤務医時代から子どもの在宅医療に取り組みたいと思っていました。ただ、当時はわたしが院内唯一の小児科医だったこともあり、外来や病棟管理に支障が出ては本末転倒になると泣く泣く断っていたのです。わたしが在宅医療に応じられなかったため、その子どもとご家族は、退院後、自宅と病院の往復生活を送り、日常生活を送るのもままならなかったそうです。それを風の噂で聞くたびに申し訳ないと思っていたので、開業後に受け入れることができて本当によかった。同時に、クリニックを立ち上げ、自分で自分の行動に責任を持てるようになれば、本当にやりたいことができるのだと実感しました」
「ひばりクリニックは、医療的ケア児の在宅医療を始めました」。クリニックの広報誌に大きく書いた。開業を応援してくれる人々にその思いを発信することで、髙橋は自分を後に引けない状況に追い込んだ。
民間の小さな診療所の挑戦
その後ひばりクリニックは、診療だけでなく家族支援にもだんだんと取り組み始める。きっかけは、ある医療的ケア児の訪問診療に行った時、母親が熱を出して寝込み、代わりに父親が仕事を休んで看病する光景を見たからだ。たんの吸引や経管栄養といった医療的ケアが必要なので、一般の保育園などには頼れない状況だったと聞いた。
「平日であっても、お母さんかお父さんのどちらかが必ず自宅に待機していなければならない。その光景を見て改めて、医療的ケア児の日中預かりの必要性を突きつけられました。以前から預かりがないことは知っていたし、もちろんわたし自身も必要だと思っていました。しかし、預かり事業には常勤看護師1名、非常勤ヘルパー1名の配置が必要。最低でも1日2万円程の人件費がかかるので、黒字化はほぼ考えられません。だからこそ、公的な機関がやるべきだとも思っていました。でも、一度死ぬかもしれないと思った人生、やらない理由を考えるのはやめたんです」
採算を考えることは、もうやめた。ただ、幸運にも周囲からの支援には恵まれた。2007年には、公益財団法人在宅医療助成勇美記念財団による助成金がおり、その助成金を頼りに人工呼吸器の子どもを担当できる看護師を採用。以降約1年にわたって毎月1~2回の預かり事業を始め、人員と環境さえ整えば、民間の小さな診療所でも預かりができることを立証した。助成金が終了する間際には、宇都宮市の職員から「医療的ケア児の預かり事業」を支援する助成制度をつくるという話が舞い込み、2008年3月には宇都宮市議会で重症障がい児医療的ケア支援事業が可決。公的な支援のもとで、医療的ケア児の預かり体制が徐々にできあがっていった。
2012年、ひばりクリニックは預かりをクリニック事業から切り離し、特定非営利活動法人うりずんを設立。2014年には認定を受けたことで民間の寄付も活性化し、今や年間800人から1000万円以上の支援が集まっている。
排除ではなく、助け合う方法を考えたい
地道な活動が実を結びつつあり、小児在宅医療の必要性も徐々に認知され始めてきた。世間の風当たりも変わってきて、「うりずん」の子どもたちが近所を散歩していると、気兼ねなくあいさつをしてくれる地元住民も増えてきたという。不安の末に今日を迎えられたことを喜びつつも、髙橋の挑戦は今も終わっていない。
「生まれながらにして持った境遇や考え方に限らず、子どもからお年寄りまで、みんなが自分らしく暮らせる世の中をつくりたい。クリニックを開業したときに描いたビジョンは今も変わりません。
わたしが大切にしたいのは、ソーシャル・インクルージョンという考え方です。それは貧困や障がいといった境遇にある人たちを排除するのではなく、彼らと助け合う方法を追求すること。わたしが診療にとどまらずに地域活動にも力を入れるのは、一人の人間として、この考えを実現したいからです。そのためには医療業界の外にも目を向けて、手を取り合っていくことが大切だと思っています。地域の一員として人に直接お会いしたり、お礼状を書いたり、『ありがとう』の気持ちを伝えたり。丁寧な仕事を積み上げて、より多くの方とこのビジョンを実現させる社会をつくりたいと思います」
生まれ故郷ではない栃木県で活動ができているのも、自身の思いを発信し、共感者との縁を丁寧につないできたからこそ。「『医師らしくないね』と言われるのが1番の褒め言葉だと思っているので、先生ではなく髙橋さんと呼んでもらえるよう、これからもこの地域でがんばっていきます」――取材終盤、栃木県宇都宮市に根を張る現代の“赤ひげ”は、そう言って笑った。
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