志水太郎が「愛され指導医」になれたわけ
東京都江東区の東京城東病院(130床)。同院には、異例の人気を誇る後期研修プログラムが存在する。立ち上げたのは、若くして日本・アメリカ・カザフスタンで医学教育に携わってきた志水太郎だ。
志水のノウハウをまとめた著作『愛され指導医になろうぜ』(日本医事新報社)は現在、後進指導に悩む指導医のバイブルとして親しまれている。30代という若さにして、華々しい実績を残しているように見える志水。しかしその裏には、数々の挫折があった。
3週間で総合内科メンバー15人が殺到
2014年11月、後期研修医の募集を開始するには遅い時期にもかかわらず、東京城東病院に新設された総合内科後期研修プログラムでは、3週間で15人の採用枠が充足。その後も応募者は殺到した。
ここまでの人気を集めたポイントは、“ベッドサイド重視の指導”と“新しくて、楽しいプログラム”にあると、志水は語る。
「カンファレンスは臨床業務をさまたげないよう必要最低限の1日30分にとどめ、その分、後期研修医が患者と接する時間を大幅に増やしました。
一方でアメリカのプログラムなどを参考にし、業務負荷が掛かり過ぎないように勤務形態も工夫し、プライベートや自習の時間も確保できるよう配慮しました。
希望があれば、大学院進学・臨床留学のサポートも行いますし、将来指導医として活躍したい人には、リーダーシップやマネジメントの訓練をします。
もちろん研修内容には指導医が考えて提供するものもありますが、一方で後期研修医自身にも自主性をもって提案・行動してほしいと思っています。個々の要望に応じて一緒にプログラムを作っていくというフレキシブルな体制を敷いています」
夢は、新しいコンセプトの医学部をつくること
医学教育にかける志水の思いは、並大抵ではない。
はじめて医学教育に興味を持ったのは、医学生のとき。母校・愛媛大学医学部の解剖実習で下級生に指導して以来、どんどんのめり込んでいったという。
イギリスの大学に短期留学した際は、現地の実践的なベッドサイド教育に衝撃を受け、帰国後に母校の自治会委員長に立候補し、60名からなる医学教育小委員会と教育プログラムを組織。学内の教務委員会に『医学教育改革案』を提出したほど。
医学部卒業後も、医学生・研修医向けのTdP(Teaching delivery Project)と名付けた勉強会で講師活動を続けてきた。そうした成果もあって、若手医師や医学生の間で志水の知名度は高い。志水に指導を仰ぎたいと門戸を叩くケースも多いそうだ。
志水の将来の夢は「新しいコンセプトの医学部をつくって、世界をリードする医学教育を展開すること」だという。
「自分がいなくなった後も、自分を超える後輩が次々と育っていく教育システムを確立したい。そのためには医学部をつくって、卒前教育にも携わっていきたいと思っています。
今思い描いているのは、単に医療現場で戦力となるための臨床スキルを磨くだけでなく、医師としての”初等教育”までしっかりできるような医学部です。
卒前教育の段階で、患者さんと接する上で大切な、人としての優しさや医師としてのマインドを学んだ医師が増えていけば、絶対に社会はもっと良くなる。話が大きいと思われるかもしれませんが、良い医師が増えれば、わたしの最終目的である世界の平和・教育・文化にもそれぞれ貢献できると思っています」
これまでの実績が買われ、2016年度からは、獨協医科大学の総合診療教育センター長として、大学病院の強みを活かした教育プログラムを新たに立ち上げる予定。
大きな目標に向かって、着実に歩を進めている今日の志水を“若き成功者”として見る向きは強いかもしれない。しかし、これまでのキャリアは必ずしも順風満帆ではなかった。
東京城東病院の総合内科プログラムの特徴
東京城東病院・総合内科アドバンスド・レジデンシー・プログラムは、2週間×26ブロックからなる多様なローテーションを基本骨格としている。
後期研修医は各ブロックで、病棟業務、夜間業務、外来業務、救急外来、臨床研究など特定の業務を集中的に研さんする。
東京城東病院で2年間後期研修を受けて以降は、プログラムの外部選択ができるようなローテーションを計画中だという。
思い切って渡米 “常軌を逸した日々“へ
「残念ながら、あなたを迎え入れるポジションはありません」―。
日本国内のアメリカ海軍病院から、不採用通知が届いたのは2009年、大阪でチーフレジデントを務めていた医師4年目のことだった。
特に根拠はないものの、妙な自信で採用されるものと思いこんでいた当時の志水にとっては、にわかに信じられない出来事だった。
在籍していた市立堺病院(大阪府堺市)には退職届を提出済み。上司の藤本卓司や同僚・後輩はじめ、看護師たちからも送別会まで開いてもらって温かく送り出された手前、出戻るわけにもいかない。
キャリア設計が、完全に狂ってしまった。
不採用通知から2夜ほど悩んだ末、志水は、思い切って渡米することに決めた。もともと海軍病院に勤めようと思ったのも、将来アメリカで働く準備をしたいと思ったから。
恩師・青木眞がアメリカで感染症の臨床スキルを学んだことから、自分も医師人生のどこかで、アメリカでの臨床経験を積んでおきたいという思いがあった。そのステップボードと踏んでいた海軍病院に“橋”がかからなかったことで、臨床留学の道は塞がったに見えたが、とりあえずアメリカに渡る道はあるかもしれないと考え、“他の橋”を探し始めたのだった。
志水は応募可能な大学院に片っ端から応募し、1か月の準備でどうにかエモリー大学ロリンス公衆衛生大学院に滑り込んだ。同大学院とは別に、経営大学院にも合格した志水は、2つの大学院に通うことを決めた。ここから2年間におよぶ、想定外に濃密な大学院生活が始まることになる。
「大学院に通うことになって一番困ったのは、『学費をどう捻出するか』でした。
そもそも奨学金を得ていませんでしたし、当時のわたしではとても払えるような額ではなかったんです。
その結果、アメリカの大学院にフルタイムで在籍しているにもかかわらず、最低でも月1-2回は日本へと戻り、スポットのアルバイトをしなければなりませんでした。
月曜日から木曜日まではアメリカで大学院に通い、金曜日から日曜日までは日本に戻ってアルバイト―往復30時間ほどかけての太平洋通勤でした。
今振り返るとやや常軌を逸していたとも思えるのですが、大学院に在籍していた2年間プラスその後の1年のサンフランシスコ生活で勤務した医療機関は、日本国内だけでも約200施設以上。
お給料の良いところでアルバイトをしようと考えていたので、結果として比較的ハードな勤務体制を敷いている医療機関に日夜切れ目なく勤務しました。
北海道・知床半島にある日本最東端の一人診療所に勤務したこともあれば、都市部の急性期病院でショック患者を4人同時に診たり、連続で11台救急車が並ぶ病院で一人対応するような状況に遭遇したこともあり、懐かしく良い思い出です」
焦燥感と無力感の中で
大学院修士課程修了後は、アメリカに残って臨床医として活躍しようと意気込んだ。しかし、志水を雇ってくれる病院は、そう簡単には見つからなかった。気づけば、大学院在籍中から全米の内科の病院やプログラムの医師らに送り続けたメールは約3000通。思い通りに行かなかった当時の思いを、次のように振りかえる。
「青木眞先生にあこがれ、夢を持ってアメリカにまで行ったのに、なかなか芽が出ずに、周りに心配をかけてばかりの状況は、どこか情けない気持ちでした。
医学部に入るのに3浪して、初期研修でもアンマッチを経験しているのですが、アメリカに行っても就職が決まらない。ここぞという時に結果が出ない自分に、無力感と焦燥感が募った時期もありました」
しかし、それでも医学教育にかける思いはついえなかった。
アメリカで仕事が見つからない間は、医学教育者として世界的にも有名なローレンス・ティアニーのもと、無給で診療補助をし、診断の力を磨くべく訓練を受けた。日本に一時帰国した際は、医学生や研修医の勉強会で、これまで学んできたことを惜しげもなく披露した。
精力的に活動するうちに、医学教育に対する志水の思いは、次第に周囲に伝わっていった。
エモリー大学大学院の知り合いからの紹介で、カザフスタンのナザルバイエフ大学へ客員教授として、現地の医学教育に携わる機会を得ることもできたし、医学生や研修医からの人気を聞きつけた出版社から『愛され指導医になろうぜ』の執筆依頼も舞い込んだ。
青木眞、ローレンス・ティアニー、徳田安春、藤本卓司といった恩師とのつながりも活かしながら、内科医として特に診断の思考過程の解明とその応用、教育方法について研究を進め、そのコンセプトを形にするために、『診断戦略』(医学書院)という書籍を執筆。それまでになかった形で、診断の総論やその上部概念を言語化しようと試みた。この本の出版が「診断理論の教育と研究、そして実践」という志水のキャリアの軸を確立することになった。
「うまくいかない状況の中でも、自分のなるべき姿を明確にしてベストを尽くせば、必ず前進できる」。その確信だけは、どんなときも揺るがなかった。
念願かなって、臨床医としてハワイ大学に就職できたのは、大学院を修了して1年が経過した2014年。しかし、その後も順風満帆な航路が待っていたわけではなかった。ハワイ大に入職してしばらくたって、家族の事情で、ハワイ大学との契約期間よりも早く日本に帰国するよう求められたのだった。
そんな時、志水のキャリア変えるようなオファーが訪れた。それが先述した、「獨協医科大学に総合診療部をつくって欲しい」「東京城東病院に総合内科をつくって欲しい」という2つのオファーだ。種々の状況の中、志水は、ハワイ大学を辞め、日本に戻ることを決断した。
当時、渡米から4年半。凝縮された日々の中で、日本、アメリカ、カザフスタン、イギリスなど、各国の医学教育体制の長短に触れ、気づけば公式非公式合わせれば日本国内にある50以上の大学で、数えきれないほどの医学生や研修医の指導に当たっていた。
「自分の中に蓄積された知識とノウハウをまとめれば、これまで世界中のどこにもなかった医学教育が実現できる」。志水にはいつしか、そんな自信と期待が芽生えていた。
その後、東京城東病院で何が起こったかは、文頭に記した通りだ。
愛され指導医になろうぜ
志水のことを、著作『愛され指導医になろうぜ』で知る人も多いかもしれない。
「効果的な指導方法が分からない」「研修医のモチベーションをどうすれば高められるのか知りたい」―こうした悩みを抱える指導医にとって、指針になるような書籍にしたいと、2014年に志水は同著を発表。
研修医の叱り方や効果的なカンファレンスの進め方など、等身大の指導医が対面するであろうリアルな事象への対応法をかみ砕きながら、リーダーシップやマネジメントのあり方について解説している。出版後の反響は大きく、いまもなお、講演依頼が絶えないという。
ちなみに「愛され指導医」というキャッチフレーズは、たくさんの人の目を引くようにと、志水自身が女性ファッション誌のタイトルを研究して考案したもの。
志水のことを、著作『愛され指導医になろうぜ』で知る人も多いかもしれない。
「効果的な指導方法が分からない」「研修医のモチベーションをどうすれば高められるのか知りたい」―こうした悩みを抱える指導医にとって、指針になるような書籍にしたいと、2014年に志水は同著を発表。
研修医の叱り方や効果的なカンファレンスの進め方など、等身大の指導医が対面するであろうリアルな事象への対応法をかみ砕きながら、リーダーシップやマネジメントのあり方について解説している。出版後の反響は大きく、いまもなお、講演依頼が絶えないという。
ちなみに「愛され指導医」というキャッチフレーズは、たくさんの人の目を引くようにと、志水自身が女性ファッション誌のタイトルを研究して考案したもの。
つらいとき、背中を押してくれるもの
ジェットコースターのように浮き沈みの激しいキャリアを送っている志水。自らの原動力を、次のように語る。
「最近友人から指摘されて思い出したのですが、学生時代は机に付箋を貼っていました。『頑張れよ。患者がお前のことを待っている』って。もちろんこれからもずっと、こういう思いは大事にしていきたいと思っています。しかし今、わたしが頑張ろうと思える理由は、これだけではありません。
つらいときにいつも心に浮かぶのは、『自分の後ろには後輩がいる』という思いです。
とてもありがたいことに、わたしと出会えたことで、『内科医になりたい』『勇気を持って明日からの臨床をもっと頑張ろう』と思ってくれた後輩がいる。
そういうことを思い返すと正直、自分のつらさなんて、何だかどうでもよくなってしまう。『今までどんな困難も乗り越えてきたのだから、今回も大丈夫』と思えるし、手探りでもいいから、どうにかして一歩進んでみようと、前向きな姿勢になれるんです。
今まで何か上手くいかないたび、常に他の方法を見つけることができました。
それは、わたしが強かったからではありません。いつも周りの誰かがわたしのことを支えてくれたから、それに報いたいと、もがいてきた結果なのかなと思います。
プロレスラーのアントニオ猪木も、強そうに見えて人一倍、『自分がどう見えるか』を気にしていたというエピソードがあるんです。わたしにも、心のどこかに『後輩からカッコいいと思われたい』という思いがきっとある―そう考えると、わたしを突き動かしているのは結局のところ、かなり素朴なモチベーションなのかもしれませんね」
取材終盤、そう語る志水の笑顔に、愛され指導医の片鱗を見た。
エムスリーキャリアは、より多くの選択肢を提供します
先生方が転職をする理由はさまざまです。
- 現状のキャリアや働き方へのご不安・ご不満
- ご家庭の事情や、ご自身の体力面などの事情
- キャリアアップ、新しいことへの挑戦
- 夢の実現に向けた準備
など、多様なニーズに応えるために、エムスリーキャリアでは全国から1万件以上の求人を預かり、コンサルタントは常に医療界のトレンド情報を収集。より多くの選択肢を提供し、医師が納得のいく転職を実現しています。
転職すべきかどうかも含め、ご相談を承っています。