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長文インタビュー

医師インタビュー企画 Vol.21 名知仁子

2018年9月1日

ミャンマーの医療に全力を捧げる医師・名知仁子
巡回診療、保健衛生指導、家庭菜園指導の3つの活動を通して、ミャンマー人の健康を支える名知仁子。大学病院、国境なき医師団といった最前線の経験を経て行き着いたのは、日常生活からの自立支援だった。とはいえ、名知ははじめから崇高な目標を持っていたわけではない。人生プランに国際医療が加わったのは30歳過ぎ、海外の地に降り立ったのは39歳のときだった。途中、乳がんなどを患いながらも医師として走り続ける理由とは――。

39歳、遅咲きのキャリアで国際医療の地へ 「こんなに何もできないなんて」

自分の年齢がわからない、数字が読めない。正式に医学を学んだことのない現地の人や難民の人たちに医療を教えながら、自身も聴診器一本で患者を診ていく――。

39歳で初挑戦した国際医療は、国境なき医師団のミッション。軍事政権のミャンマーからタイに逃げてきたカレン族の難民キャンプで、現地にいる医療従事者(現地ではメドックと呼ばれる育て上げられた人々)をマネジメントするという内容だった。当時は、40歳までにファーストミッションが得られなければその後のミッション付与はないと言われていたため、名知は遅咲きかつ滑り込みのスタートでもあった。そんな中、「人はいかなるときでも可能性があること、そして聴診器一本で患者と向き合う難しさに気付いた」と、自分の原体験を振り返る。

メドックの人たちは、戸籍もなければ、小・中学校にも通えなかった人たち。自分の年齢も数字の意味もわからない中、国境なき医師団メンバーの指導によって、マラリアや結核の対応、顕微鏡検査などができるように目指していく。名知も、彼らが聴診器を使い、的確に脈拍を取れるようになる瞬間を見ていた。

「彼らから、人間はいかなるときでも可能性があるのだと感じました。何歳でも、やろうと思えば何でもできるのだと。『できない』と思っているのは単純にチャンスを与えられていないか、心の奥底にいる自分が望んでいないだけなのだと思う」

とはいえ、国際医療の現場は、何もないことが過酷さを増長する。

「覚悟はしていたものの、現場には聴診器一本しかない。CTはもちろん、血液検査、尿検査もない。派遣先の難民キャンプはタイとミャンマーの国境沿いにありましたが、両国間の自由な出入りは禁止されていました。そのため、大きな病院への緊急搬送が必要なときはタイ政府に許可を得なければならず、お金と時間の両方で諦める人も多かった。医師として10年以上働いていましたが、はじめて“患者と向き合う”意味を考え続けたと思います。

ミッション中は日本へ電話できる機会が1回しかなかったのですが、そのとき、日本人ではじめて国境なき医師団に参画した貫戸朋子先生に電話したことをよく覚えています。『何もできない。帰りたい。こんなに何もできないなんて想像していなかった。現地にいるメドックから学ばせてもらっている』と。貫戸先生から返ってきたのは『あなたは自分が学ぶために行ったのではなく、教えるために行っている。教えなさい』という言葉。国際医療の厳しさを突きつけられる、わたしの原体験になりました」

ミャンマー人難民キャンプ内にて。小学校にも通えなかった現地の検査技師たちと。

“眼科医になりたい”から始まった医師人生

海外での医療活動など、今でこそ精力的に活躍している名知。しかし小学生の頃から高校生までは、学級委員やクラスの主席といったことには縁がない平々凡々とした学生だったという。

「高校は理数科に進んだものの50人中35位前後と成績はふるわず、医学部に行こうなんてみじんも思っていませんでした。でも、高校3年生のとき、父親が白内障になって。術後のお見舞いに行ったとき、担当の眼科医がすごく感謝される姿を見て、率直に眼科医になりたいと思いました。最初は、医師ではなく“眼科医”になりたいと思ったんです」

その後、1年間の浪人生活を経て獨協医科大学医学科に進学。苦労の末入学したものの、いざ現場に出てみると、あれもこれもという状況に陥っていた。

「いざ学生実習という段階で眼科医の手術を見学したら、わたしには不器用だから無理だなと思いました。その後興味を持った外科や整形外科はその頃女性がなかなか入局できず、小児科は子どもが白血病などで亡くなることに自分は耐えられないと感じてしまって――。最終的には、大学で仲が良かった人たちがそろって循環器内科に行くと聞いたものだから、みんなが行くなら行こうと思って専門を決めました」

専門領域こそ安易に選んだ名知だったが、大学病院の11年間は愚直に学び、働き続けた。教授回診で問われた質問には必ず答えられるよう、1つの病気に対して海外の文献を20件あたるなど、徹底的に学んだ一方で、大きな組織の中で働く難しさを感じるようになる。

「大学病院なので研究や薬の治験もしなければならない。わたしの場合、臨床から離れれば離れるほど、何のために患者を診ているんだろうという感覚が強まってしまったのです。当時はまだ女性の社会進出が進んでいませんでしたし、不条理だと思うことも多々ありました。命を守る現場なのになぜなのだろうという思いが募っていったんです」

その後、「これから自分の人生をどう生きていくか」を考えたのは28歳を過ぎてから。仕事は好きで1日21時間くらいは働いていたが、それはあくまでも医師としての自分で、純粋に“名知仁子”として働けていないことを感じ取っていた。

読書や人との交流を通じ、ひとつの転機となったのがマザー・テレサの言葉だった。名知は「あなたの愛を誰かに与えれば、自分を豊かにする」という言葉を今も胸に刻んでいる。本を読みながら、自分は医師なのにマザー・テレサのように「あなたは、本当に生きていて良かった」という言葉を患者にかけられないことに気付いた。それは患者を患者としてしか見ておらず、人間として見ていなかったことを突きつけられた瞬間でもあった。「人間を人間としてまるごと受け止める場で働きたい」。そんな思いのもとで国際医療を志す。

現場を知っているからこそ、あきらめない

日本にも無医村がある中、あえて発展途上国を選んでいるのは強い意志がある。

「日本はITを含めて医療が進んでいて、離島であっても、本州へつなげばなんとかなる。逆に、発展途上国こそ誰も行かない。実際に行きたいと言う人はいても、行動できる人はほとんどいない。だからこそ行こうと思ったのです」

ミャンマーでの巡回診療

今でこそ、ミャンマーに根を張るのは偶然の縁。2004~2005年にかけての国境なき医師団でのミッションでボートによる巡回医療をしていた名知は、ある日の船上で1人景色を眺めていたとき、ここが第2の故郷なのだという気持ちが湧いたという。

「わたしはミャンマー語や文化も詳しくはわからなかったし、ラッカイン州の奥地の食べ物もそれほど美味しくなかった。だけど、きれいな夕日を見たときに言葉にはしがたいほど、ぶわっと心の底から気持ちが湧き上がって、ミャンマーのために尽くそうと素直に思いました」

しかし、ボートにできる限りの医療資源を積んで巡回する中で、どうしても診療できない患者がいることに胸を痛めていた。

「ある村へ行ったとき、お父さんが『医療チームが来るから、娘を連れてきた』と言って、子どもの診療を依頼しにいらっしゃいました。でも、見るからにわたしたちの持ち物では治療ができない。率直に処置ができない旨を伝えると、彼らは「ありがとう」と言う。わたしだったら『あなたたちは治すために来たんじゃないの、なんで治せないの』と言うと思うんです。やっぱりそういう姿勢はすごいなと思うし、本当につらいことだなと」

この状況を見かねた名知は、日本での情報発信を始める。はじめは月2回のペースで、「日本以外を知る」というテーマで講演会を開催していたが、発信したことをかたちに残していくため、さらには運営面の公平性や透明性を出すために団体を立ち上げた。

「ミャンマーには病院がない、医師がいない、薬局がない、薬を取りに行くにも3日かかるし、そもそも薬代も持っていないというないない尽くし。2008年にミャンマーファミリー・クリニックと菜園の会の前身となる『ミャンマークリニック菜園開設基金』を立ち上げたのも、中途半端にしないため。週3日のアルバイトをしながら団体の活動をしていた時期もありますが、わたし自身の体力も持ちませんでしたし、現地は政治やインフラが安定しないからこそ片手間ではできないと思いました」

さらに、活動を続ける中で気付いたのは、発展途上国こそ病気が再発しやすいこと。ある村では、米と魚の塩辛を1日2食しか食べられないことも。だから栄養不良に陥りやすい環境になっている。そのため献身的に診療をしても、すぐに栄養不良が再発してしまうケースが多いという。

「栄養不良の子どもは笑ったり泣いたりする体力がありません。巡回診療で診療して元気になっても、次のときはまた同じような症状で悩んでいる。このとき、人の命は医療だけでは救えない!限界なんだと思いましたね。そこで思いついたのが、根本的な問題解決のために栄養豊富な野菜を育てる家庭菜園でした。現在、5の村で講義や実習、種まきをして巡回診療のたびに見に行っていますが、現時点できちんと成功しているのは2つの村だけ。自給自足だけでなく、村のレストランに卸すこともひとつの目標にしていますが、まだまだ道半ばです」

ミャンマーでの保健衛生指導

名知は、1999年の左下肢の副交感神経萎縮症に続き、2008年には進行乳がんを患っている。自身の病気、そして医療という範囲を超えて、自立支援まで行うのは現場を知っているからだ。

「現地のメンバーや子どもたちに、将来何をしたいのかを聞くと、『自分たちが生活できるようにしたい』という言葉が返ってきます。その生活はどんな生活かを聞くと『お父さんとお母さんがいて、トイレがあって、鶏がいて、畑がある』と。じゃあ、素直にそれを目指そうって。

わたしが進行乳がんを患ったときは100人中30人が亡くなると言われていて、その30人に入らないためにはどうしたらいいのかをすごく考えました。もちろん手術や抗がん剤、放射線治療にもお世話になったけれど、最終的には、人間には自ら治す力が備わっているのだと信じることができました。だから、ないないづくしのミャンマーでも、生活基盤をしっかりすることで自然治癒力を高めたいと思っています」

人生はカスミソウ。可能性はいつか芽吹く

つらいことがあっても何度も立ち上がる名知の信条はジョークを忘れないこと。つらい現場だからこそ、笑顔が自分と他人の間に流れる空気を変える。さらに、名知は「人生はカスミソウのようだ」ともいう。

「カスミソウは宿根草で、地下に根を張っているので毎年花が咲く。花の咲き方もおもしろい。たとえば10粒の花があるうち、たまたま日陰ができて7粒しか咲かなかったとします。残りの3粒はどうなるかというと、枯れずにまたいつか咲く可能性を秘めている。さらに、花は一方向でなく、さまざまな方向に広がり咲いている。

医師人生も同じだと思います。同じ情報を得たからと言って、みんなが同じようなことをしなくてもいいと思うんです。その代わり、常にアンテナを立てておいて自分が好きなところをキャッチして、芽吹くタイミングを見つける。どの科目でどう働くか、今の時代なら本当に色々な選択があっていい。極論を言えば、医師を辞めることだってひとつの選択肢だと思います。自分が納得してさえいれば、すべて正解なんだと思っています」

既存のレールにとらわれず、自ら納得のいく選択を続けてきた名知。住民たちが自分たちの健康を自分たちで考え問題解決する社会を目指し、今はミャンマーで自らの次なる花を咲かせようとしている。

名知 仁子
なち さとこ
特定非営利活動法人ミャンマーファミリー・クリニックと菜園の会 代表

1963年 新潟県生まれ、埼玉育ち。
1988年 獨協医科大学医学部卒業後、日本医科大学第一内科(循環・糖尿・肝臓)入局
1999年 マザー・テレサの本にあった「あなたの愛を誰かに与えれば、
それはあなたを豊かにする」という一節に感銘を受けると同時に、
日本の医療のさまざまな問題に疑問を感じ、国際医療を志す。
しかし、原因不明の病に倒れ4ヶ月間入院、7ヶ月間リハビリに専念
2002年 日本人として5人目、国境なき医師団(MSF)に入団、海外医療援助活動を開始。
タイ・ミャンマー国境沿い:ミャンマーから逃れてきた
カレン族に医療援助 (MSFフランス)
2003年 ヨルダン:イラク戦争で難民となった
クルド人に対する難民緊急援助(外務省ODA団体 Japan Platform)
2004~2005年 ミャンマー:ロヒンギャ族に対する医療援助(MSFオランダ)
2008年 ミャンマー:デルタ地域でサイクロン被害者に対する緊急医療援助(MSFスイス)。
ミャンマー:パテイン地域でカレン族などに対する巡回診療と
デルタ地域のその後の状況調査。その当時、自身に進行乳がんが見つかる。
手術・抗がん剤治療・放射線治療・リハビリを受けながら、
途上国での医療援助活動を継続
2008年 「ミャンマーファミリー・クリニックと菜園の会」の前身となる
任意団体「ミャンマークリニック菜園開設基金」を設立
2009年 国境なき医師団日本支部の理事に選出
2010年 国境なき医師団日本支部の専務理事に選出。
ミャンマー:パテイン地域でカレン族などに対する巡回診療(横浜YMCA)
2011年 「内閣府 地域社会雇用創造事業」の一環としてグランドワークス三島が実施する
「グラウンドワークインキュベーション」のコンペに第1位で通過、支援を受ける
2012年 「ミャンマークリニック菜園開設基金」を
「ミャンマーファミリー・クリニックと菜園の会(MFCG)」と改名し、
東京都荒川区に事務所を開設、代表理事に就任。
社会起業大學主催のソーシャル・ビジネス・グランプリ大会で
ビジネス・グランプリ大賞を受賞
2013年 ミャンマー保健省との正式な契約交渉に入る
2015年 ミャンマー現地事務所開設・巡回診療開始。埼玉県人会 善行賞に選出。
公益財団法人「社会貢献支援財団」の「社会貢献者表彰」受賞者に選出。
2016年 ステファニ・レナト賞を受賞。朝日新聞5月12日付朝刊「ひと」欄に掲載
2017年 埼玉県グローバル賞を受賞。日本経済新聞朝刊 キャリアの扉に掲載

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