キャリア事例
自分らしく働く医師のキャリア事例をご紹介します。-
事例
院長のラブコール「帰ってこい」Uターン医師の新たな挑戦 NEW
お看取りのあり方に課題を感じ、介護士から医師に転身した光田栄子先生。諏訪中央病院を経て、現在、岡山市内のベッドタウンにある有床診療所「かとう内科並木通り診療所」に勤めています。地元にUターンした光田先生がこれから取り組んでいきたいことについて、お話を伺いました。 -
事例
「診療科の隙間を埋める」院長の挑戦とは NEW
大津ファミリークリニック(滋賀県大津市)院長の中山明子先生。外来、訪問診療をしながら、家庭医として、相談先を見つけにくい思春期の子どもや女性のケアに力を入れています。 -
事例
日本の当たり前を再考する渡航医学の視点 NEW
さまざまな診療領域の中でも、コロナ禍で大きな影響を受けている「渡航医学」。中野貴司氏は日本渡航医学会の理事長を務めつつ、川崎医科大学の小児科教授、病院の小児科部長としても働いています。改めてこれまでのキャリアを振り返りながら、「渡航医学」の視点がキャリアにもたらすプラスの要素を聞きました。 -
事例
コロナで大打撃「渡航医学」の今 NEW
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって、大きな影響を受けているのが「渡航外来」や「トラベルクリニック」です。各国への出入国が従来よりも難しくなっている今、渡航医学(トラベルメディスン)の現状と未来を、日本渡航医学会理事長の中野貴司氏に聞きました。
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事例
47歳で実感、「内科系の転職は40代前半に」
転職活動の結果、地元にある2つの病院から内定を得て、急性期病院に入職することに決めた消化器内科医のK先生。ご自身の転職活動を振り返り、「内科系だったら40代前半で転職してもいいと思う」と語る理由とは──。
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事例
医師20年で退局。新天地は募集してない地元病院
大学医局に入局し、研鑽を積んで消化器内科医になったK先生。地元に帰りたいと思いつつ、医局人事で働き続けて約20年、気付けば同期は全員医局を去り、K先生1人のみとなっていました。これまで退局に及び腰だったK先生も、47歳のときに転職することに──。
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事例
最期まで自分らしく生きる「緩和ケア」を文化に
最期までその人らしく生きるためには、病気や人生の最終段階に生じるつらさを軽減する緩和ケアの普及が必要だと感じた田上恵太(たがみ・けいた)先生。現在は東北大学病院緩和医療科で「緩和ケアを文化に」することを目標に、臨床・研究・社会活動の3点を軸に取り組みを進めています。
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事例
1年限定のつもりが…在宅診療所で院長を続ける理由
千葉県鎌ケ谷市にある「くぬぎ山ファミリークリニック」の院長・細田亮(ほそだ・とおる)先生は、2015年、1年間限定のつもりで同クリニックの院長を引き受けました。ところが、院長のまま6年目を迎え、現在はクリニックの新築移転も計画中です。今もなお院長を続ける理由とは――?
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事例
「自分が理想とする糖尿病診療を追い求めて」開業へ
小児糖尿病の宣告を受けるも、「糖尿病だってなんでもできる」という医師の言葉をお守りに自らも医師を志すことを決意した南昌江内科クリニック(福岡市)の院長、南昌江先生。現在の糖尿病専門科医院を経営するようになった軌跡を伺います。
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事例
犬猫の脳腫瘍は、一度私に診せてほしい
医師・獣医師の安部欣博(あべ・よしひろ)先生は、ヒトと動物の脳神経外科医として、両方の臨床を並行して行っています。どちらの臨床も行っているからこそ感じる双方の特徴、相違点や刺激について伺いました。
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事例
小児糖尿病にならなければ、医師の私はいない
福岡市にある糖尿病専門科医院、南昌江内科クリニックの院長・南昌江先生は、ご自身が中学2年生の際に小児糖尿病を宣告された身の上です。病気を発症した前編に続き、今回は医療への水差し案内人となった医師との出逢いや転機となった出来事について伺います。
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事例
医師と獣医師の世界「常識が違う」
ヒトと動物の脳神経外科医として、オンリーワンのキャリアを構築している安部欣博(あべ・よしひろ)先生。医局時代、脳神経外科専門医を取得後、動物の脳外科手術も並行して行うようになった現在のワークスタイルのお話に加え、医師・獣医師、どちらの世界も知っている先生が抱いている問題意識について伺いました。
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事例
14歳で1型糖尿病「前向きに考えて生きなさい」
14歳の夏、”小児糖尿病”の宣告を受けた南昌江先生。その数年後、両親や主治医、同じ病気の仲間たちに支えられ医学部受験、医師になるという夢を果たしました。前編では、病の発症、闘病生活について伺います。
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事例
獣医師、動物の脳外科を学ぶために医学部に入学
脳神経外科医の安部欣博(あべ・よしひろ)先生は、医師免許のみならず獣医師免許も所持しており、動物の脳神経外科医としても働いています。そのキャリアの原点は、獣医学部時代に知った“ある現実”をどうにかしたいという強い思いでした。
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事例
医学生から育児を両立して約10年… 支えとなった言葉
二人のお子さんが就学し、育児から少し手が離れてきた林安奈先生。現在は、クリニックや大学病院での診療のほか、産業医業務にも注力されています。今日に至るまで、さまざまな壁を乗り越えてきた林先生の支えとなったのは家族の存在、そして、ある医師に言われた言葉でした。
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事例
専門資格取得で立ちはだかった「小学校の壁」
学生時代に第1子をもうけた林安奈先生は、研修医時代に第2子を出産されました。幼い子ども2人を育てながらの研修は困難を極めましたが、子育てと並行して精神保健指定医と専門医も取得しています。周囲のサポート状況や、ご自身のモチベーションの保ち方などを伺いました。
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事例
「学生時代に結婚・出産」から始めた医師キャリア
女性医師のキャリア形成において、結婚や出産は重大テーマです。医師として経験を重ねる時期と子育ての時期は重なりがちで、そこに「キャリアの壁」を感じるケースは少なくありません。林安奈先生は大学在学中に結婚・出産を経験し、学業や仕事と子育てを両立してきました。約10年前の当時を振り返りながら、子どもから少し手が離れた今だから思うことについて語っていただきました。
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事例
視力を失った精神科医だからできること
網膜色素変性症を抱えながら、精神科医となった福場将太先生。容赦なく病状が進行する中で、一度は医師を辞めようと考えた福場先生でしたが、様々な人々との出会いで医師を続けていこうと決意します。
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事例
辞職か、継続か…視力を失った精神科医の葛藤
医学部5年生の時に、網膜色素変性症を発症した福場将太先生。次第に視力が衰えていく現実に、迷い、葛藤を覚えながらも、医師の資格を取得されます。
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事例
「見えなくなっていく」卒試、国試前に病を発症
網膜の機能が低下し、人によっては視力を失うこともある網膜色素変性症。次第に視力が衰えていくこの病気は、福場将太先生に、医師として、一人の人間としてどう生きるかを、常に問いかける存在でした。