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救急医が42歳で選んだセカンドキャリアとは―亀崎真氏

2021年4月2日

都立墨東病院(東京都墨田区)で10年以上、救急医としてキャリアを積んできた亀崎真先生。医師18年目、42歳でセカンドキャリアとして地域のプライマリ・ケア医に転身します。その第一歩として小笠原諸島・父島の小笠原村診療所に赴任した亀崎先生に、お話を伺いました。(取材日:2020年12月21日)

研修を契機に退局、外科医から救急医へ

——都立墨東病院で、救急医として勤務するまでのキャリアを教えてください。

1997年に熊本大学医学部を卒業後、同大学の外科に入局して、外科医としてキャリアをスタートさせました。トレーニングを積んでいた関連病院で、先輩から「同門の中だけでなく、都市部でいろいろ修行を積んだ方がいいのでは」とアドバイスをもらい、東京に出てみようと思ったんです。

当時は、独自の後期研修プログラムを作って専攻医を募集し始める病院が出てきた時期でした。私は医局に在籍しながら、都立駒込病院の外科研修プログラムに3年間参加させてもらうことになりました。当初は研修修了後に医局に戻るつもりでしたが、結果的に医局を離れて、プログラムの一環でお世話になっていた都立墨東病院救命救急センターで救急医として働くことになりました。

——なぜ、医局に戻らなかったのですか。

医局に戻った後は、臓器を絞ってさらなる研鑽を積んでいくことになります。しかし当時の私は、どこかの臓器に専門を絞り、特定の領域のスペシャリストとしてキャリアを積んでいきたいわけではないと、漠然と感じていて――。研修修了を目前に「今後どうしようか」と悩んでいると、墨東病院救命救急センターの部長から「うちでしばらく働いてみないか」と声をかけていただいたのです。

墨東病院救命救急センターは救急の初期治療だけでなく、継続して根本治療も行っていました。そのため「ここなら、サブスペシャリティとして外科のスキルを活かせるかもしれない」と思いました。また当時は、医局に籍を置かなくてもキャリアを積んでいけることが、先輩方の実績から見え始めた時期でした。そのため医局にこだわらなくてもいいと思えるようになったのも、後押しになったと思います。医局に戻る予定だったので、送り出してくれたみなさんに申し訳ない気持ちはありましたね。

セカンドキャリアの第一歩に、離島を選んだわけ

——どのような理由で、12年間在籍していた墨東病院救命救急センターから、父島の小笠原村診療所に着任を決めたのですか。

10年以上救急医療に携わった結果、地域医療に興味を持つようになったからです。

小笠原村診療所には、妻を通じて縁がありました。妻はもともと墨東病院で看護師をしていましたが、自分のやりたいことや働きたい場所を模索している中で、小笠原村診療所にたどり着きました。そして1年半、同診療所に単身で勤務していました。私は休暇を利用して父島に遊びに行くうちに、診療所の運営母体である村役場の方々と知り合いになり、その縁で同診療所の代診医を一度経験できました。

妻が単身赴任を終えて本土に拠点を移し、子どもが生まれるなどプライベートの変化もあった中で、私はセカンドキャリアを考えるようになりました。救命救急センターに勤務し続けるのも1つの選択肢でしたが、「次のキャリアは地域医療にシフトしていくのもありなのではないか」と、漠然と考えるようになったのです。

——なぜ、地域医療に興味を持ったのでしょうか。

地域住民のみなさんが健康を維持するには、地域医療が非常に大事だと肌で感じていたからです。

救命救急センターには、日頃の生活・体調管理ができていれば、救急搬送になるほどの悪化を避けられた患者さんがたくさんいました。他にも、末期がんの患者さんが息を引き取ろうとしている段階で、ご家族が急に心配になって119番をしてしまい、搬送されてくることもありました。かかりつけの先生ともう少しコミュニケーションを取れていれば、救急搬送せずに済んだかもしれません。

このような患者さんと出会うたびに、地域に安心して診てもらえるかかりつけ医、終末期でも在宅で診てくれる医師がいることが、非常に大切だと思うようになったのです。

——本土ではなく、島の地域医療に携わることになった決め手は何だったのですか。

小笠原村診療所の医師の欠員が出ると、役場の方から連絡をいただくようになりました。次第にセカンドキャリアへの転換が自分の中で具体的になっていき、3回目にお話をいただいた時、今がそのタイミングだと思えたのです。

小笠原村診療所は代診経験もあるので、大変なことも含めて事情はある程度分かっていました。それも踏まえて島のへき地医療にシフトしてみようと決め、2015年小笠原村診療所に着任しました。地域医療に携わることになったら、都市部もへき地も、どちらも経験したかったので、今こうして働いているのも縁とタイミングだと思っています。

——最初、奥様は単身で赴任されましたが、今回ご家族は一緒に行かれているのですか。

家族全員で移住しました。子どもの教育環境を考慮して、家族揃っての移住を躊躇する方もいるかもしれませんが、私は、自然豊かな環境に身を置くことで得られることがたくさんあると考えています。そのため迷うことなく家族での移住を決めましたね。

現場で実感「こんなにも知らないことがあるのか」

——事情も分かっている中での着任でしたが、環境の大きな変化に戸惑いや苦労もあったのではないですか。

本土との交通手段は、週1回運行する片道24時間の定期船のみ。そのため、患者さんが本土の専門医療機関を受診するのは非常に大変です。診療所で可能な限り診療して、「専門医に診てもらわないと心配」という状況を回避しなければいけません。それを分かって着任を決めたものの、実際に診療してみると自分の知らないことがあまりにも多いことに驚き、多少戸惑いましたね。

知らないことは、知らないからこそ全体像が把握できず、勉強すればするほど「あれも知らなかった」「この知識も足りなかった」の連続で――。最初のうちは診察室に来た患者さんに一度帰ってもらい、連携している本土の医療機関にコンサルトしたり自分で調べたりして、再び来てもらって診療することもありました。そのようなやり方にも、住民の方が理解を示してくれることも実感しました。救命救急センターではさまざまな仕事をしていたので、いろいろと分かっていたつもりでしたが、医師十数年目にして「こんなにも知らないことがあるのか」と実感しましたね。それでも日々診療を続けていると対応できることが増えてくるので、着任当初に比べれば、そういった苦労もだいぶ減ってきています。

——今後のキャリアはどのように考えていますか。

しばらくは、この診療所で勤務を続けると思います。ただ正直なところ、3年後、5年後、どこでどう働いているかは分かりません。先のことをあれこれ考えるよりも、今の自分が何をやりたいのかを自問自答しながら、そこから外れないようなキャリアを歩みつつ、地域住民の役に立ちたいですね。

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