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「深刻な問題だ」救急科新設した30代医師の挑戦―柴崎俊一氏

2021年2月15日

医学生時代から、いずれ茨城県内の医療過疎地に貢献したいと考えていた柴崎俊一先生。医師8年目で1人、ひたちなか総合病院に飛び込み、救急・総合内科を新設します。診療科を新設し、病院内外に根付かせるにはさまざまな苦労がありますが、どのように取り組まれたのでしょうか。(取材日:2020年9月4日)

総合内科と腎臓内科の2軸でスキルアップ

——医師を志した理由と、これまでのキャリアを教えてください。

私が幼稚園生の頃、祖父が血尿で救急搬送されたと思ったら、あれよあれよという間に亡くなってしまったんです。そのことが強く印象に残っていて、「病気の人を助けたい」と思い、医師を志しました。高校卒業後は、筑波大学に進学。進みたい診療科が明確には決まっていませんでしたが、学生時代から「余計なストレスを感じること」は避けたいと思っていました。医師の仕事はハードです。だからこそ、働く環境が自分の価値観と合うところを選ぼうと考えていました。私は物事をなるべく自由に、ある程度自分の裁量で決めたい性格です。それが認められない職場は避けたいと思っていました。

——初期研修先に諏訪中央病院(長野県)を選ばれたのは、自由で裁量のある働き方ができそうだったからですか。

そうですね。学生時代、市立福知山市民病院 総合内科の川島篤志先生の講演を聴く機会がありました。そこで内科系に興味を持ち、川島先生のもとで見学や実習をさせていただいた際に、お勧めの研修病院を聞いたんです。そのうちの1つが、諏訪中央病院でした。見学に行った時、自由闊達な雰囲気を感じ、指導医の先生方も魅力的だったので「ここで働きたい」と思い、決めました。

——諏訪中央病院で総合内科専門医だけでなく、腎臓内科専門医としても診療されていたのはなぜですか。

「自由な環境で働きたい」ことに加えて、「自分や他人の幸福で平穏な生活が、病気に阻害されるのをどうにかしたい」という思いも持っていたからです。

私は諏訪中央病院の初期研修医時代に、総合内科に進むことを決意しました。ただ治療するだけでなく、患者さんの平穏な生活や幸福を見据えて診療し、それらを取り戻せている手応えを私自身が感じられたからです。そのため医師3年目には、内科系のさまざまな専門科をローテーションして研鑽を積んでいました。そんな折、腎臓内科の医師が急遽3人から1人になってしまい、若手医師の中で誰か腎臓内科を手伝えないか、という話が持ち上がりました。「困っている人をなんとかしたい」という思いから、自ら手を挙げ、腎臓内科を手伝いながら内科系全般の知識を深めていくことにしたのです。

その後約1年間、国内留学で名古屋市内の大規模病院の腎臓内科で診療する機会がありました。その時に、救急科や総合内科、循環器内科などさまざまな診療科の先生方から「とても頼りになります」と、いろいろな相談を受けたんです。「こんな大病院でも重宝してもらえるなら、他の病院でもきっと通用する!」と自分のスキルに自信を持ち、諏訪中央病院を離れて次のステージに進むことを決めました。

1人で救急・総合内科を新設

——次のステージに選んだのが、現在勤務中のひたちなか総合病院(茨城県)なのですね。

はい。実は学生時代から「一定期間、茨城県内の医療に貢献したい」と考えていたんです。ポリクリで茨城県内の医療過疎地を回っていた時、正確な診断がされず、症状をこじらせてしまっている方が大勢いたのです。キャンパスがある筑波大学周辺の環境とは大きく異なることに衝撃を受けました。この経験から、医師としてある程度研鑽を積み、自信がついたら、茨城県に戻ろうと考えていたのです。特に医療過疎が進む県北部の病院を見学する中で、救急・総合内科を立ち上げるために、ひたちなか総合病院に赴任することを決めました。

——なぜ茨城県北部の医療機関の中でも、ひたちなか総合病院を選んだのですか。

当院を選んだ理由は3つ。1つ目は、診療科間で「これはうちの診療科では診られません」と、救急患者のたらい回しが頻発していたことでした。300床の中規模病院にもかかわらず、救急患者搬入後に診療が進まない、入院診療科が決まらないため、救急外来の滞在時間が3時間以上ということがしばしば発生していて、救急医療が機能していなかったんです。これは深刻な問題だと感じました。

2つ目は、救急医療に改善の余地があるからこそ、私が診療科を立ち上げれば、救急医療の分野に根を張れるのではないかと思ったからです。

そして3つ目は、若手が集まる環境だったこと。当院は、毎年数人の初期研修医が来ていて、彼らの教育にも介入できる余地がありました。本来なら、私と同世代で一定のスキルを持つ医師が来てくれるのが理想ですが、そのような医師のリクルートは簡単ではありません。一方、教育に介入できれば、数年後スタッフとして救急・総合内科に勤務する後輩が現れる可能性があります。一緒に救急医療を支えていく仲間を集めるためにも、教育に携われることは重要だと考えていたんです。

——新設の診療科を院内で根付かせていくにあたり、どのような点を意識されてきましたか。

他の人に文句を言われないポジションを作るには、いち早く信頼を勝ち取ることが必須だと考えました。まず取り組んだのは、他の診療科の困り事には率先して手伝うこと。手伝うと申し出て名前を知ってもらうことは、かなり意識的に取り組んできました。

もう1つ意識したのは、依頼の仕方です。各診療科の先生方は、得意領域で力を発揮できるので、「〇〇から△△まではお願いします。××は私たちがやります」と、依頼したいことをかなり明確に伝えるようにしてきました。

今振り返ると、新しく診療科を立ち上げる大変さをあまり分かっていませんでしたし、よくやろうと思ったな、と感じています(笑)。先程お話したように、私は自分の裁量で物事を決める環境が合っているので、心身ともに疲弊するストレスはなく、日々やりがいを感じながら過ごせています。現在、救急・総合内科にはもう1人医師がいて、2人体制でやっています。

地域連携と予防医療に取り組んでいきたい

——今後の展望について教えてください。

2017年に赴任してから3年間、救急・総合内科を立ち上げて、院内での定着を優先させてきました。その結果、救急患者搬入後の救急外来滞在時間は当初3時間以上かかっていたところが、現在私が担当する平日昼間は、約8割が2時間以内に帰宅か入院が決まるようになりました。また、救急車の受け入れ台数も年間約2000台から3000台に増やすことができました。

そのため、次のステップとして、院外との連携に着手していきたいと考えています。この地域の課題の1つが、急性期治療は終わったものの、回復期病院を挟まないと退院が難しい高齢患者さんが多いこと。しかし、受け入れてくれる回復期病院がなかなか見つからないのが現状です。医療資源の少なさも理由の1つですが、昔からこの地域では連携の文化があまりなかったようです。

院長が変わってからは、積極的に地域との連携を図るようになってきています。当院が地域の後方病院の役割を担うようになってからは、徐々に回復期の患者さんを受け入れてくれる医療機関も出てきました。ただ、患者数を鑑みるとまだ十分ではありませんし、病院以外の施設とのつながりも増やしていく必要があります。ただ、新型コロナウイルス感染症の影響で、現状は具体的に動けていませんので、終息次第、この点をさらに強化にしていきたいと考えています。

また、この地域は予防医療にも手が回っていません。救急医療のさらなる定着と院外連携ができるようになったら、自治体と協力しながら予防医療に関する何らかの取り組みも進めたいですね。

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