海外
海外について紹介します-
事例
日本の当たり前を再考する渡航医学の視点 NEW
さまざまな診療領域の中でも、コロナ禍で大きな影響を受けている「渡航医学」。中野貴司氏は日本渡航医学会の理事長を務めつつ、川崎医科大学の小児科教授、病院の小児科部長としても働いています。改めてこれまでのキャリアを振り返りながら、「渡航医学」の視点がキャリアにもたらすプラスの要素を聞きました。 -
事例
コロナで大打撃「渡航医学」の今 NEW
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって、大きな影響を受けているのが「渡航外来」や「トラベルクリニック」です。各国への出入国が従来よりも難しくなっている今、渡航医学(トラベルメディスン)の現状と未来を、日本渡航医学会理事長の中野貴司氏に聞きました。 -
事例
「医療的正しさ」を追求した女医が選択した道 NEW
これまで計7回、国境なき医師団(MSF)の活動に参加している團野桂先生。その度にぶち当たる課題を解決すべく、日本やロンドンで勉強されています。後編では、團野先生がMSFの現場で見てきた実情、帰国後の活動やキャリアの築き方に迫ります。 -
事例
なぜ「WHOで働く」という夢を自ら諦めたのか NEW
ロンドンに渡って公衆衛生を勉強しながら、ジュネーブのWHO本部でのインターン勤務を経て、現在は国境なき医師団(MSF)の活動に精力的に取り組んでいる團野桂先生。大阪のホームレスが多く入院する病院での勤務経験から臨床医療の限界を感じるなど、理想と現実のギャップの狭間で揺れながら、自分が進むべき道を果敢に切り開いています。
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事例
「祖国救え」在日アフガン人医師の奮闘
島田市でレシャード医院を開業するレシャード・カレッド先生は、留学生として来日後、日本で医師免許を取得。日本での医療活動のみならず、祖国アフガニスタンでも救援・医療支援を続けています。一人ひとりの患者に寄り添うというのが医師の根本であり、場所は問題ではないというレシャード先生。活動の内容や、掛ける想いを聞きました。
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事例
「アフガンで兵士になるか、日本で医師になるか」極限の選択
静岡県島田市でレシャード医院を開業されているレシャード・カレッド先生。留学生としてアフガニスタンから来日し、今年でちょうど50年になります。レシャード先生が日本を留学先に選んだ理由から、医師国家試験取得時の苦労、そしてこれまでの医師としての活動についてお話を伺いました。
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事例
「ルーティンではダメになる」医師が重んじる習慣
2008年に初めて国境なき医師団(MSF)の活動に参加し、ナイジェリアへと渡った小杉郁子先生。以降、定期的に活動に身を投じ続けているのは、日本の医療機関にいるときとは違う刺激を、現地で得られるからなのだそうです。小杉先生が国境なき医師団に参加するようになった経緯を紹介した前編に続き、後編では、現地でのエピソードを中心にうかがいました。
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事例
「医師の子は医師に」?固定観念への違和感も
医学部卒業後、ドイツ留学を経て現在は国境なき医師団(MSF)の活動に精力的に取り組んでいる小杉郁子先生(福井県済生会病院外科医長)。医師の家庭に生まれ、女性外科医としてキャリアを歩む過程で、さまざまな固定観念に疑問も覚えながら、今日のライフスタイルに至ったと語ります。国境なき医師団に参加する医師たちをインタビューする本連載。前編では、小杉先生が途上国に渡るまでのお話を中心にご紹介します。
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事例
「安定より旅がしたい」ノマド医師の人生観
母親の寄付活動がきっかけで幼い頃に国境なき医師団(MSF)の存在を知り、2011年の東日本大震災で救急医を目指すことを決意した真山剛先生。MSFで活躍するためのキャリアと経験を積んで、今もミッションに参加する傍ら、バックパッカーとして世界中を旅しています。活動中のある経験から、一時は参加を辞めることも考えたという真山先生。それでも活動を続ける理由とは、いったい何だったのでしょうか。
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事例
東日本大震災や僻地医療で知った「医師の無力さ」
母親が募金をしていたことをきっかけに、国境なき医師団(MSF)で活動する医師に興味を抱くようになった真山剛先生。2011年の東日本大震災をきっかけに救急専門医を志し、同時にMSFで活動するためのキャリアを選択します。真山先生が選んだ道筋とは?前編では、真山先生がMSF に参加するまでのお話を中心にご紹介します。
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事例
医療現場で「鈍感力」が大切な理由
イェール大学病院での研修前に初めて国境なき医師団(MSF)に参加し、それ以降6回の海外派遣活動に参加している中嶋優子氏。2017年には日本人初の米国EMS(Emergency Medical Services 米国プレホスピタル・災害医療救急専門医)の資格を取得しています。これまでの活動を振り返り、思うことについてお話を伺いました。
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事例
3か月で退局した女性医師の今
高校時代から、「国境なき医師団(MSF)で働く医師になりたい」という思いを抱いていた中嶋優子氏。紆余曲折を経て卒後8年目でUSMLE(United States Medical Licensing Examination 米国医師国家試験)を取得。2017年には、日本人初のEMS(Emergency Medical Services 米国プレホスピタル・災害医療救急専門医)を取得しました。さまざまな分野でキャリアを積み、現在は米国で救急専門医として働きながらMSF理事を務める中嶋氏のキャリアの変遷に迫ります。
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コラム
韓国医療に見た、光と影―海外の医師はこう考える vol.6
電子カルテシステムなど、医療の電子化が進んでいる韓国。その様子は一部、日本のメディアでも紹介されており、日本はその後塵を拝しているとも言われる。私自身も現地への視察へ赴いたが、実際にその勢いには驚いた。再生医療研究などに積極的に取り組む同国では幹細胞を使った実験的医療も進展を見せており、人類が想像してきたような「未来の医療」を実現させようという本気度を感じた。とはいえ、同国の医療現場においても、課題は多いそうだ。今回は、小児科医として現地と双方の小児医療の状況について意見交換した時の様子について、紹介したい。
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コラム
バングラデシュ、公的医療への不信感はこうして生まれた―海外の医師はこう考える vol.5
日本を含め、多くの国々において医療は公的な制度に組み込まれて運用されている。しかし、そんな公的医療に対する信頼感は、国によっても大きく異なる。バングラデシュで見た光景は、公的医療のあり方について深く考えさせるものであった。 バングラデシュと聞けば、テロなど恐ろしい情報もあり、いささか後ろ向きな印象を抱かれる方も多いかもしれない。しかし実際は、カオスの中で元気に生きる人々がおり、多くの人々、特に現場の人々は志を持ち、親日の国であり、居心地は決して悪くない。今回は、そんなバングラデシュの医療のあり方について考察したい。
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事例
文通相手との結婚を機にほぼ亡命状態でチェコから来日―中島恵利華氏
チェコ出身の中島恵利華先生は、日本語を学ぶために始めた日本人男性との文通がきっかけで1979年に亡命同然で来日。子育てをしながら猛勉強して、日本で医師免許を取得しました。現在は新潟県上越市でめぐみ皮膚科を開業しています。来日当時は、医師はもちろん、観光客としてですら外国人が非常に珍しい存在だったそうです。苦労の末、いまや地域の健康を支え、住民の方々に慕われる存在となった中島先生。これまでのキャリアや来日時の想い、チェコと日本の医療の違いなどについてお話を伺いました。
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事例
ウクライナから来日した女医が“日本らしい”緩和ケアを目指す理由─バレンティナ・オスタペンコ氏・後編
25年前にウクライナより来日し、自分を必要としてくれる人々の気持ちに応えたいという思いで緩和ケアに取り組んでいるバレンティナ・オスタペンコ先生。2011年に日本の医師免許を取得し、現在は東大和病院の消化器内科・緩和医療科に勤務されています。最近では病院の中だけでなく、山梨のお寺とも連携しながら、より日本人の心に寄り添ったケアを追及しているそうです。そんなオスタペンコ先生に、緩和にかける情熱について伺いました。
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事例
異国での医師免許取得、子育て…ウクライナ人女医を日本につなぎとめたものとは―バレンティナ・オスタペンコ氏・前編
「息子は当時まだ5歳。正直、“日本に行きたい”と思っていたわけではありませんでした」 東大和病院消化器内科・緩和医療科で、がん患者の緩和ケアに注力するバレンティナ・オスタペンコ先生はこう振り返ります。日ソ共同がん研究のため、ウクライナに家族を残し25年前に日本へ。半年間だけの滞在のつもりが、「いつのまにか日本人らしくなっていました。もう日本でお墓も買いましたよ」と笑うバレンティナ先生。日本で働くという選択肢に先生を導いたものとは何だったのか、伺いました。
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コラム
タイが医療大国になれた理由―海外の医師はこう考える vol.4
日本では、医療ツーリズムの本場としても知られている、タイ王国。私的病院を中心に、高度な医療を提供することで、他国からも患者がやってくる東南アジアの医療大国だ。近年にはすべての住民に公的医療保障を提供する形が整った。経済規模や背景にある貧富の差を勘案すると、保健指標としても、優秀な国である。今回はそんなタイの医療事情について、考察を深めたい。
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事例
シングルマザー女医が我が子に伝えたいこと
女手一つでの2人の子育てに一段落ついたタイミングで、国境なき医師団(MSF)に参加し国際医療活動を始めるようになった橋本裕美子氏。初めてのミッションで見た現地の光景、現在の心境について聞きました。
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事例
バツイチ子持ちの麻酔科医が、中東へ行った理由
「国境なき医師団に応募しようと思う」。息子の受験が一段落し、娘が大学を卒業するタイミングで子供達にこう告げて、国境なき医師団に応募し、国際医療活動を開始したのが、橋本裕美子氏です。離婚を経験し、幼い子供二人を抱え八年間のブランクを経て復職。シングルマザーと医師の両立に苦労してきたという橋本氏。50代で国際医療活動に踏み出した理由と、現地での活動を経験したあとの今の心境について伺いました。