ロンドンに渡って公衆衛生を勉強しながら、ジュネーブのWHO本部でのインターン勤務を経て、現在は国境なき医師団(MSF)の活動に精力的に取り組んでいる團野桂先生。大阪のホームレスが多く入院する病院での勤務経験から臨床医療の限界を感じるなど、理想と現実のギャップの狭間で揺れながら、自分が進むべき道を果敢に切り開いています。国境なき医師団に参加する医師たちをインタビューする本連載。前編では、團野先生が発展途上国に渡るまでのお話を中心にご紹介します。(取材日:2019年10月4日)
患者さんと接して感じた、臨床医療での限界
──医師家系だと伺いましたが、医師を目指すのは自然な流れだったのでしょうか。
そうですね。曽祖父は歯科医、祖父も両親も内科医だったので、幼いころから食卓では「今日、病院でこんな事があった」という会話が日常的にありました。内科を選んだのも、必然的でしたね。中学受験前後にテレビを見ていたとき、どこかの難民キャンプで飢餓難民の赤ちゃんが泣いているドキュメンタリー映像が映りました。「こんな世界があるのか」と胸が痛くなるほどの衝撃を受け、この子たちのための医者になろうと思ったことを覚えています。
──どのようにキャリアを積まれましたか。
奈良県立医科大学を卒業後、大阪大学医学部附属病院旧第三内科に入局し、3年間研修を受ける中で、循環器内科、消化器内科、呼吸器内科、免疫内科、代謝内分泌内科、血液内科など、様々な内科を回りました。同医学部旧第三内科は特に呼吸器内科と免疫内科に強い医局で、当時の教授が私の「国際保健をやりたい」という希望を聞き受けて下さり、医師4年目から呼吸器専門病院の結核内科に配属になりました。そこで国際保健にも繋がる結核の臨床医学の研鑽を積むことが出来ました。そのときの経験が、私にとっての大きなターニングポイントになりました。
──ターニングポイントについて、具体的に教えてください。
呼吸器専門病院の結核病棟でもそうでしたが、その後に勤務した大阪市西成区の無料低額診療施設には、ホームレス、生活保護受給者、日雇い労働者といった、いわゆる社会的弱者と呼ばれる方々の多くが受診されていました。このような方々の医療費は大阪府と大阪市が税金から折半して担されているので患者負担はなく、医療費が払えない患者さんにとっては医療を受けやすい病院です。それまで大学病院と国公立病院で勤務してきた私はガラリと変わった職場環境に多少戸惑いつつも、結核の臨床経験をしっかり日本で積むことが海外に行ったときに必ず役立つと信じて働きました。仕事を通じて患者さんとも仲良くなりました。しかし、働き続けるうちに、抗生物質を処方するだけではこの方々は救われないと気付いたのです。
──なぜでしょうか。
結核は、患者さんたちにとって、結核はほんの一部の問題だったからです。彼らは高血圧、糖尿病、C型肝炎など他の病気になるリスクが高く、仕事や家がないなどさまざまな問題を抱えていました。次第に、結核を一所懸命治療してもこの方々の人生はそんなに変わらないのではないかと思うようになりました。結核が治癒したとしても、まだ別の問題がたくさん残っている──。つまり、結核の臨床医療の限界に気付いたのです。
このような経緯から、社会的弱者の問題を観察、研究、分析しながら患者さんを診る医療をしよう、つまり公衆衛生学を学ぼうと思ったのです。そこで勉強と実地経験を積むために、大阪大学大学院医学系研究科公衆衛生学講座博士課程に社会人枠として所属し、併せて大阪市保健所感染症対策課結核グループに入って働くことにしました。そして大阪市保健所長の許可を得て大阪市の結核のデータを使わせていただきながら、大阪大学の教授の指導のもとで研究もしました。
「コネ」は自分で作るもの
──2012年にはロンドンに渡り、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院に留学されていますね。
実務や学びを通じて、公衆衛生学をもっと勉強したいと思いました。国際保健やグローバルヘルスを担う医師や看護師と出会ってお話しすると、英米の大学院で公衆衛生の修士号を取得している方々が非常に多く、それは持っていて当然なのかと思いました。また、特にアメリカやイギリスで世界の公衆衛生を学んで途上国での医療に役立てられるネットワークを広げたい考えもありました。その国々の方々の価値観をより深く学ぶ中で、グローバルヘルスの勉強もできるだろう、そしてこの経験がキャリアにも必ずプラスに働くと思っていたのです。
──MSFに参加する際にプラスに働く、という意味ですか?
当時はまだMSFのことは考えておらず、学生時代から興味を持っていたWHOで働くうえでプラスになりそうだと思っていました。
WHOと最初に出会ったのは、学生時代にバングラデシュの医療機関やUN、NGO、WHOを訪問して話を聞くスタディーツアーに参加したことがきっかけです。途上国を訪問するのは、そのバングラデシュツアーが初めてでした。小学校の頃からアルベルト・シュヴァイツァーやマザー・テレサに対する憧れはありました。でも実際に発展途上国で医療支援の仕事をするのは想像以上に大変だと思っていたので、一度自分の目で確かめたかったのです。バングラデシュでは、生活のために15~16歳の女の子が売春する現状を目の当たりにして大きなショックを受けてしまいました。さらにはNGOの活動は彼女たちをサポートしつつ売春を止めることかと思いきや、コンドームを配って妊娠や病気を予防し教育するという活動だったのです。驚く一方で、「売春はいけないよ」と綺麗ごとだけでは通らない世界があり、そうでもしないと生きていけない彼女達の現状を受けとめた上で何ができるのか、そうした考えでないと発展途上国での支援活動はできないのだとも感じました。
医師になった後は、大阪市保健所感染症対策課で結核対策指針を作る仕事に関わっていた時期がありました。そのような健康政策に携わる仕事に面白みとやりがいを感じて、「WHOで働きたい」と思うようになりました。留学で海外に出たチャンスを活かして、大学の夏休みを利用してWHO本部の結核部門でインターンをすることができました。
──どのようにして、WHOのインターン生になったのですか?
ロンドンへの留学を計画している時点で、東京におられる厚生労働省の知人の先生に「今ジュネーブのWHO本部に厚労省から派遣されている先生の同僚を紹介してください」とお願いしました。そして、紹介してもらった方に会うためにジュネーブまで行き、WHOで働きたい旨を伝えました。
WHOは、言語の面もありますが、欧米の有名大学からインターン生を取ることが多いようです。私もロンドン大学衛生熱帯医学大学院に所属していたからインターンとして受け入れてもらうのに有利に働いたのだと思います。世界中からインターンの応募が来るので、応募書類を送るだけでは選ばれなかったでしょうし、根回しが大事だと実感しました。
──すごい行動力ですね。
目標が定まれば、それに突き進んで実現する方法を考えます。そのために必要な根回しや人脈作りは自分で作るものだと研修医の時から思っていました。人脈を作ろうと思ってチャレンジした結果邪険に扱われ、けんもほろろで終わったこともありました。人脈を作るために幾度となくチャレンジした中で、WHOで働けたことは本当にラッキーで、今までの人生ではどちらかというと失敗の方が多かったと思います。
WHOにいたら、感覚が麻痺すると思った
──夢のWHOで働いてみて、いかがでしたか。
再び、夢破れることになりました(笑)。業務内容としては、発展途上国の結核に関するデータの集積と解析をして、それをもとに議論をしていくための資料と年表の編集作業を行っていました。とても勉強になったし面白かったのですが、立派なオフィス環境と実際の発展途上国との差がありすぎて、結核の指標である結核死亡人数がただの数字に見えてきてしまったんです。
実際に臨床医をしていた時は、当然ですが、保健所で働いていた時も引き続き臨床医と交流がありましたし、「この結核患者の表にある1という数字はあの患者さんかな」などと、数字を見ながら患者さんを思い浮かべることができました。でもWHO本部で働いていると患者さんの顔は全く見えず、現場からとても遠い気がしました。
そう決定的に思わせたのが、各国のWHOカントリーオフィスからWHO本部に集められてきた結核の罹患率や死亡率のデータをまとめて統計表を作成する業務を進めていた時の事です。報告の締め切りを過ぎても中央アフリカのデータがあがってこない。「あなたの国のデータがWHO本部に報告されていないので早急に送ってほしい」とメールをしました。すると、中央アフリカのカントリーオフィスから、「データが上げられない地域は内戦のため収集が不可能です」と回答があって──。その時、ハッとしました。世界にはデータを集めるどころではない国がたくさんある。その国では、きっともっと優先させることがあるのに、ここにいたら私の中の感覚が麻痺してしまうと思ったのです。
結核病院で働いていた時は、呼吸困難で苦しんだり、吐血されたりする患者さんを見ながら一緒に苦しみを感じていました。でもWHO本部にいるとその苦しみを感じなくなり、医師として結核に苦しんでいる人を減らしたいという気持ちが失せてしまうのではないかと思いました。同僚にあまり結核の臨床現場を見たことがない人がたくさん働いていることにも違和感を覚えたし、私は現場にいた方がいいと気付いたとき、MSFに向けて大きく一歩前進しました。(後半に続く)
国境なき医師団(Médecins Sans Frontières 略称MSF)は、紛争や自然災害、貧困などによって命の危機に瀕している人びとに医療を提供する、非営利で民間の医療・人道援助団体。「独立・中立・公平」を原則とし、人種や政治、宗教にかかわらず援助を提供、医師や看護師をはじめとする海外派遣スタッフと現地スタッフの合計約4万5000人が、世界約70以上の国と地域で援助活動を行っています。1971年にフランスで医師とジャーナリストによって設立され、世界29ヵ国に事務局をもつ国際的な組織で、活動資金の95%以上は個人を中心とする民間からの寄付金に支えられています。
1999年にはノーベル平和賞を受賞。MSF日本は1992年に設立され、2017年には117人のスタッフを、のべ169回、29の国に派遣。現在も、活動に協力してくれる日本人医師を求めています。
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