1. m3.comトップ
  2. キャリアデザインラボ
  3. キャリア事例
  4. 事例
  5. 「医療的正しさ」を追求した女医が選択した道 ―国境なき医師団に参加する医師たちvol.6(後編)
事例

「医療的正しさ」を追求した女医が選択した道 ―国境なき医師団に参加する医師たちvol.6(後編)

2019年12月18日

これまで計7回、国境なき医師団(MSF)の活動に参加している團野桂先生。その度にぶち当たる課題を解決すべく、日本やロンドンで勉強されています。後編では、團野先生がMSFの現場で見てきた実情、帰国後の活動やキャリアの築き方に迫ります。(取材日:2019年10月4日)

迷いがありながらも、MSFにチャレンジ

──前編では、憧れていたWHOで働くことに違和感を覚え、MSFの活動に関心を持ったことを伺いました。MSFにはどのようなイメージを持たれていましたか。

爆撃を受けたり地雷があったりする戦地の病院に派遣されるのではないか、と最初は怖いイメージがありました。一方で、当時通っていたロンドン大学衛生熱帯医学大学院にはMSF経験者が多数いて、確固たる信念を持ったアクティブな方ばかりだったので良い刺激を受けていました。インターン勤務をしていたWHO本部の会議にもMSFの代表者が参加されていたので、国際保健を担うNGOの中でもMSFは突出して実績のある存在だと感じていました。そのような背景もあり、MSFへの信頼度は高かったです。
ただ、パワー溢れる人たちの中で自分はやっていけるのかと不安はありました。やはりWHOのように臨床よりも政策を作る側にいたい気持ちも多少残っており、臨床現場に戻ることへの迷いもありましたが、最終的にはMSFにチャレンジすることを決めました。

──実際に行ってみて、いかがでしたか?

最初の派遣先はパキスタンでした。セキュリティ面の制限もあって、立ち寄ってはいけないエリアが決められ、移動は全てMSFの車。常に守られるべき所にいないと危ない場所だと思いました。でも想像していたほどの怖さはなかったし、争いや爆発音を聞いたこともありませんでした。

パキスタンにて、スラム内の小学校を訪問 ⓒ MSF

──当時のミッションや1日の流れについて教えてください。

ミッションはC型肝炎のプログラムの立ち上げでした。プロトコールを作成し、スタッフのリクルートのための面接や試験も担当しました。研修医時代に肝臓疾患のトレーニングを積んだので、その時の知識を復習しました。また現地スタッフにC型肝炎疾患についての基本的な内容や今回のプロジェクトで使う新薬とその使用方法について講義もしました。1日の流れとしては、まず毎朝8時にオフィスで朝礼。その後、業務内容に応じてオフィス内で事務処理をしたり、診療所に移動して仕事をしたりしていました。勤務時間外は宿舎でリラックスしたり、勉強したりして過ごしました。日本で働いていた頃よりも、身体的にはしんどくなかったです。
最初は半年の派遣を要請されたのですが、現地でしっかり活動できるのか不安もあったので、滞在を3カ月にしてもらいました。初めて参加して「MSFで活動できる!」と思えたので、引き続き参加することに。2回目は2015年6月~翌年6月までの1年間の長丁場で、ウズベキスタンで結核プロジェクトに参加しました。3回目以降の2016年9月~2018年1月までの1年半ほどは、ロングタームエマージェンシーという派遣契約をMSFと結びました。

──ロングタームエマージェンシーとは?

緊急要請があった場合、準備をして48時間以内に現地に向かう契約です。MSFのスペイン本部にエマージェンシーグループを作ることになり、賛同してくれるスタッフのリクルーティングの要請が各国のMSFにありました。現地と人材をマッチングさせるマネージャーから勧められて、やってみようと思いました。アフリカに行きたい思いがずっとあったので、2016年9月からナイジェリアへの派遣が決まった時は嬉しかったです。

MSFの医療がニーズにマッチするとは限らない

シエラレオネでは、医療チームリーダーとして活動。その時の医療メンバー達と。ⓒ MSF

──今までに計7回派遣されていますが、MSFの活動を通じて、医師としての価値観が変わった出来事はありますか?

2017年3月~5月までのシエラレオネでの活動です。インターナショナルスタッフが十数人いる現場の医療チームをまとめるチームリーダーとして、母子保健やプライマリーヘルスケア施策の運営と臨床を担当しました。その時、MSFの医療が必ずしも現地の方たちのニーズにマッチしているわけではないと気付いたのです。

出産を例に挙げると、MSFやWHOは「公的な医療機関またはMSFの病院に来院して、きちんと教育を受けて免許を取得した助産師、看護師、医師のもとで産みましょう」という医療方針を打ち出しています。けれども、シエラレオネの地方に住む方々にとっては自宅出産が当たり前。「病院に来てください」と伝えても「どうして行かなければいけないのか」と思うでしょう。ひとつ問題なのが、村から病院まで、谷道や凹凸のある山道を経由して車で何時間もかかることです。例えばMSFがサポートしている村の診療所からMSFの病院までは車で約6時間もかかります。しかし、現地の人たちは車がないので、陣痛が起きている女性をバイクの後ろに乗せて、ヘルメットも被らない状態で病院に連れていかなければいけない時もあります。そして雨季は道が濁流でなくなるため、迂回して向かう必要があるのでさらに時間がかかります。そんな状態でも私たちは陣痛で苦しむ妊婦さんに「病院に来てください」と言わなければならないのでしょうか。現地の人の言い分と、私たちが「施設で産んだ方が安全面は高い」と命第一に考えて勧めるやり方は、必ずしも合致するわけではないと思いました。
毎回、夢ややりがいを持って現地へと挑むのですが、現地に行くと課題に必ずぶち当たる──。その繰り返しのような気がします。

バングラデッシュで勤めていた病院。ER、小児科、産科、ITFC、感染症病棟がある ⓒ MSF

──現地で見つけた課題について、帰国後に勉強されることもあるのでしょうか?

現地での疑問点を解決したり、足りない知識を強化したり、課題を整理するために日本でその道の専門家に相談させていただくことがあります。例えば、シエラレオネから帰ってきた時は、母子保健について再確認するために小児科や産婦人科医の友人が働く病院に訪問し、外来を見学させてもらったり、現地で抱いた疑問を投げかけたりして情報を整理し、自分の実体験を体系づけることが出来ました。結核プロジェクトを進めていたウズベキスタンから帰ってきた時は、ウズベキスタンの結核問題を整理するために以前の勤務先であった大阪市保健所感染症対策課の結核グループの先生方に日本の結核対策とウズベキスタンの現状を比較してディスカッションしました。現地でERに携わった時は、帰国後に救急医療や外傷などの勉強をしていましたね。毎回同じミッションが来るとは限りませんが、現地での経験と日本での復習を繰り返すうちに繋がってくるものもあり、経験値は上がっていると思います。

公衆衛生、医療人類学の学びを現場で活かす

──何回も現地に赴く原動力は何ですか。

MSFの憲章(※)を読むとしっくりくるので、そのような思いでしょうか。「なぜ山に登るのか。そこに山があるから」と似たような感覚です。苦しんでいる人がいるから、助ける。至ってシンプルなことです。

「同じ病気で苦しんでいる日本人がいるのに、あなたは日本人の患者さんはどうでもいいのですか?」と、よく聞かれます。例えば、同じ病気の日本人とスーダンの人がいたとします。日本は保険制度も整っていますし、医療機関も薬もある。インターネットで調べると薬の知識や副作用も調べられます。でも、スーダンには何もない。それならば私は、スーダンに行って患者さんを助けたい。日本人に生まれたのは偶然ですし、自分は日本人だから日本人しか助けないという考え方にはなれません。

──今後、どのような活動をしていきたいですか。

自己目標の実現に向けて、自分なりの方法でチャレンジしていこうと思っています。

まずは、シエラレオネで感じたギャップを少しでも埋められるようになるために、現在、再びロンドンの大学に在籍して医療人類学を勉強しています。病原体や臓器だけを診るのではなく、背景となる文化、伝統、宗教、生活習慣、思考といった患者を取り巻くものが彼らの病気のとらえ方と治療にどう影響を与えているのか──などを学んでいます。シエラレオネでの経験から、相手の目線に立つ医療とは何か、相手の目線に立った時にMSFの医療が彼らにどういう風に映るかといったことを考えなければいけないと思っています。というのも、「MSFのような外国人の病院に来ることは怖い」と言う現地の人は多いそうです。肌の色が違う人たちが知らない言葉で話していて、注射器や点滴など見たことのない器具を使っている──これは何の実験なんだろうかと恐怖感をも抱くそうです。

現地の方は、家族が病気になった時はまずはトラディショナルヒーラーといった伝統的医師、呪術師のところに向かいます。妊娠時や出産時には、伝統的産婆のところに相談に行きます。なぜなら、その人たちが病気を治してくれたり、妊娠中のケアや分娩の介助をしてくれる医師だと思っているからです。しかしそこで治療を施されても治らない病気もあり、異常分娩の時は出産が困難になります。だから最後の頼みの綱としてMSFの病院に恐る恐る来られます。でもMSF側としては、「こんな重症になるまで治療を受けさせず、なぜもっと早く来なかったのですか。もっと早く来ていたら助かっていたのに」と責めてしまいがちです。家族が重症化して亡くなりそうだったり、妊婦や胎児が瀕死の状態になっていたりしていて、ただでさえ悲しいのに、MSFの病院に行くと責められる──このような状況を何とかしたい。そのためにも、公衆衛生や医療人類学など今まで勉強してきたことを深め、いつかその2つをリンクさせたいと思っています。その学びをMSFの活動で還元していきたいですね。

※MSFの憲章 https://www.msf.or.jp/about/charter.html

團野 桂
東京女子医科大医学部国際環境・熱帯医学講座研究生(取材当時)

1973年兵庫県生まれ。99年奈良県立医科大学医学部卒業後に大阪大学医学部附属病院で研修を行い、2009年大阪市保健所感染症対策課結核グループに勤務。並行して大阪大学大学院医学系研究科公衆衛生学講座にて博士号取得。12年よりロンドン大学衛生熱帯医学大学院で修士号取得。13年WHO本部(ジュネーブ)でインターンとして勤務。14年よりMSFの医療援助活動に参加。18年ロンドン大学修士課程で医療人類学を学びながら、19年より東京女子医科大医学部国際環境・熱帯医学講座研究生に。専門は一般内科、結核内科、公衆衛生。

【国境なき医師団について】
国境なき医師団(Médecins Sans Frontières 略称MSF)は、紛争や自然災害、貧困などによって命の危機に瀕している人びとに医療を提供する、非営利で民間の医療・人道援助団体。「独立・中立・公平」を原則とし、人種や政治、宗教にかかわらず援助を提供、医師や看護師をはじめとする海外派遣スタッフと現地スタッフの合計約4万5000人が、世界約70以上の国と地域で援助活動を行っています。1971年にフランスで医師とジャーナリストによって設立され、世界29ヵ国に事務局をもつ国際的な組織で、活動資金の95%以上は個人を中心とする民間からの寄付金に支えられています。
1999年にはノーベル平和賞を受賞。MSF日本は1992年に設立され、2017年には117人のスタッフを、のべ169回、29の国に派遣。現在も、活動に協力してくれる日本人医師を求めています。
【提供:m3.com Doctors LIFESTYLE

今後のキャリア形成に向けて情報収集したい先生へ

医師の転職支援サービスを提供しているエムスリーキャリアでは、直近すぐの転職をお考えの先生はもちろん、「数年後のキャリアチェンジを視野に入れて情報収集をしたい」という先生からのご相談も承っています。

以下のような疑問に対し、キャリア形成の一助となる情報をお伝えします。

「どのような医師が評価されやすいか知りたい」
「数年後の年齢で、どのような選択肢があるかを知りたい」
「数年後に転居する予定で、転居先にどのような求人があるか知りたい」

当然ながら、当社サービスは転職を強制するものではありません。どうぞお気軽にご相談いただけますと幸いです。

エムスリーキャリアは全国10,000以上の医療機関と提携して、多数の求人をお預かりしているほか、コンサルタントの条件交渉によって求人を作り出すことが可能です。

この記事の関連記事

  • 事例

    不公平?2児の女性医師が抱える家庭事情

    最近では当たり前になりつつある、夫婦共働き。千葉大学病院脳神経内科准教授の三澤園子先生は出産のタイミングに悩み、34歳、40歳で2児を出産。今も仕事と家庭の両立方法を探り続けています。後編では出産・育児にまつわるエピソードと、共働き夫婦でキャリアアップするための秘訣を聞きました。

  • 事例

    准教授のママ医が、常勤にこだわる理由

    最近では当たり前になりつつある、夫婦共働き。特に医師は、仕事の頑張り時と出産・育児の時期が重なりがちです。医師23年目の三澤園子先生は、仕事と家庭の両立に悩みながらもフルタイム勤務を続け、現在は千葉大学病院脳神経内科の准教授と2児の母、2つの顔を持ちます。前編では、三澤先生のキャリアについて伺いました。

  • 事例

    院長のラブコール「帰ってこい」Uターン医師の新たな挑戦―光田栄子氏

    お看取りのあり方に課題を感じ、介護士から医師に転身した光田栄子先生。諏訪中央病院を経て、現在、岡山市内のベッドタウンにある有床診療所「かとう内科並木通り診療所」に勤めています。地元にUターンした光田先生がこれから取り組んでいきたいことについて、お話を伺いました。

  • 事例

    「診療科の隙間を埋める」院長の挑戦とは―中山明子氏

    大津ファミリークリニック(滋賀県大津市)院長の中山明子先生。外来、訪問診療をしながら、家庭医として、相談先を見つけにくい思春期の子どもや女性のケアに力を入れています。

  • 事例

    日本の当たり前を再考する渡航医学の視点

    さまざまな診療領域の中でも、コロナ禍で大きな影響を受けている「渡航医学」。中野貴司氏は日本渡航医学会の理事長を務めつつ、川崎医科大学の小児科教授、病院の小児科部長としても働いています。改めてこれまでのキャリアを振り返りながら、「渡航医学」の視点がキャリアにもたらすプラスの要素を聞きました。

  • 事例

    コロナで大打撃「渡航医学」の今

    新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって、大きな影響を受けているのが「渡航外来」や「トラベルクリニック」です。各国への出入国が従来よりも難しくなっている今、渡航医学(トラベルメディスン)の現状と未来を、日本渡航医学会理事長の中野貴司氏に聞きました。

  • 事例

    「自分が理想とする糖尿病診療を追い求めて」開業へ

    小児糖尿病の宣告を受けるも、「糖尿病だってなんでもできる」という医師の言葉をお守りに自らも医師を志すことを決意した南昌江内科クリニック(福岡市)の院長、南昌江先生。現在の糖尿病専門科医院を経営するようになった軌跡を伺います。

  • 事例

    小児糖尿病にならなければ、医師の私はいない

    福岡市にある糖尿病専門科医院、南昌江内科クリニックの院長・南昌江先生は、ご自身が中学2年生の際に小児糖尿病を宣告された身の上です。病気を発症した前編に続き、今回は医療への水差し案内人となった医師との出逢いや転機となった出来事について伺います。

  • 事例

    14歳で1型糖尿病「前向きに考えて生きなさい」

    14歳の夏、”小児糖尿病”の宣告を受けた南昌江先生。その数年後、両親や主治医、同じ病気の仲間たちに支えられ医学部受験、医師になるという夢を果たしました。前編では、病の発症、闘病生活について伺います。

  • 事例

    医学生から育児を両立して約10年… 支えとなった言葉

    二人のお子さんが就学し、育児から少し手が離れてきた林安奈先生。現在は、クリニックや大学病院での診療のほか、産業医業務にも注力されています。今日に至るまで、さまざまな壁を乗り越えてきた林先生の支えとなったのは家族の存在、そして、ある医師に言われた言葉でした。

  • 人気記事ランキング