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14歳で1型糖尿病「前向きに考えて生きなさい」-病とキャリア vol.9(前編)

2020年10月7日

14歳の夏、”小児糖尿病”の宣告を受けた南昌江先生。その数年後、両親や主治医、同じ病気の仲間たちに支えられ医学部受験、医師になるという夢を果たしました。前編では、病の発症、闘病生活について伺います。(取材日:2020年9月1日)

南昌江内科クリニック院長の南昌江先生

14歳で1型糖尿病を宣告

——発病、宣告の経緯を教えてください。

1977年、中学2年生の夏休みのことでした。私は所属していたバスケット部の夏季強化練習に励んでいたのですが、それまで経験したことのない身体のだるさ、喉の渇きを覚えるようになっていきました。日に日に体重は減り、わずか2週間で8㎏も痩せてしまいました。

「これはおかしい」と母に連れられて受診したのが、北九州市立医療センター(旧・市立小倉病院小児科)です。検査時の血糖値は600~700と高く、その場で小児糖尿病と宣告され、すぐに入院することになりました。

——ご家族の反応はいかがでしたか?

初めて耳にする病名を告げられ、一番驚いたのは付き添ってくれていた母でした。病気ひとつしたこともなかった娘が、突如、一万人にひとりという珍しい病気だと告げられたのですから。以降、「なぜ、昌江は糖尿病になったのだろう?」と母を苦しませてしまうことになりました。

電気店を営んでいた両親は、日々忙しくしていました。母は「食事を手抜きしたので昌江が糖尿病になったのではないか」と自分を責めたそうです。糖尿病になってからは、病院の栄養士さんの指導のもと、食事の献立作りやカロリー計算と、慣れないながらも必死に取り組み、私に寄り添ってくれました。

——南先生ご自身は、ご病気をどう受け止めましたか?

なにがなんだかわからぬまま入院させられたので、当時は自分が置かれている状況をよく理解できていなかったのが正直なところです。大変な病気になってしまったらしいと思いつつも、入院しておとなしく治療を受けていれば、すぐにもとの元気な自分に戻れると信じていました。

とはいえ、主治医の原口宏之先生から「きみは、すい臓で作られるインスリンの作用が不足する糖尿病という病気だから、これから一生インスリン注射を自分で打っていかねばならないんだよ」と宣告され、そう単純なことではなかったとすぐに知ることになります。そもそも、当時は「一生インスリン注射を打つ」という意味も理解できませんでした。

発症当時から現在に至るまでを綴った2冊のご著書。出版順に(右)『わたし糖尿病なの』(1998年出版)(左)『わたし糖尿病なの あらたなる旅立ち』(2018年出版) 共に医歯薬出版株式会社刊、税別1800円

——初めての入院生活はいかがでしたか?

入院生活は3週間に及びました。14歳でしたから、小児科病棟ではほぼ最年長。周りは小さな子も多く、難病で入院している子も少なくありませんでした。先日まで一緒に遊んでいた子が亡くなる……という現実も目にしました。

とにかくインスリン注射さえきちんとできれば、また学校に行ける、部活もできるし、みんなに会えると信じて、注射の練習を始めました。当時のインスリン注射器は、現在のペン型とは違い、針は採血用のように太く、注射器はガラス製のツベルクリン用のものを毎日鍋で煮沸消毒してから使用しなくてはならず、とても面倒でした。

退院後は、一カ月に一度の定期健診を受けつつ、学校に通っていました。インスリン注射は打っていたものの、血糖値は測っても測っても、驚くほど高い値しかでなくて──。昼食前にはよく低血糖を起こしていました。それでも学校に通えて、部活にも参加できていましたから、悲観的ではなかったですね。とはいえ、習っていたお稽古事などはやめてしまっていましたし、まだまだ閉鎖的な時代でしたから「どうせ、私には病気があるしね」と投げやりになっていたのは確かです。

1981年に日本でインスリン自己注射が公認されて保険適用となり、その頃から血糖自己測定器が普及し始めます。私が使っていたのは、お弁当箱のような大きさで、コンセントがないと測れない不便なものでした。小児慢性特定疾患に認定されていましたので、入院費や治療費はかからなかったものの、そうした機器は自費で、しかも16万円~20万円と高額で。しかし、両親は必要なものだからと購入してくれました。それなのに真面目に測ってなかったですね(笑)。面倒だし、痛いし、そもそも測る意味すらわかっていませんでした。

南先生が当時使っていた注射器、血糖自己測定器

医師からの助言が“生きる支え”に

——日常に戻られてからはいかがでしたか?

当時は、私よりも両親のショックの方が大きかったですが、根治を諦めていませんでした。そこで原口先生に相談して、糖尿病の大家でいらした東京女子医科大学糖尿病センターの平田幸正教授の新患予約をとりつけ、診察のため上京することになりました。小児糖尿病と診断されて1年後のことです。

——平田教授のお見立てはいかがだったのでしょうか?

先生の口から告げられた診断と治療法は、これまでとなんら変わりないものでした。しかし、その時に先生が私にかけてくれた思いやりに満ちた言葉は、一生忘れられないほど心に染み入りました。

「あなたと同じ糖尿病を持った若い女性で、インスリンを打ちながら元気に海外を飛び回って仕事をしている人もいますよ。どうしてこんな病気になったのかと考えるよりも、これから先のことを前向きに考えて生きなさい」

平田先生のこの言葉は、その後の私の生きる支えとなりました。そして、福岡赤十字病院の仲村吉弘先生をご紹介頂きました。この仲村先生との出会いも、大きな転機となりました。

——微かな期待を胸に受けた診察で得たのは希望。安心して病気と付き合えると知った南先生は、病をきっかけに更なる医師との出逢いを果たし、自らも医師となる道を選びます。中編では、南先生が闘病生活と併走して選んだ医学部受験や医師としての歩みをお伺いします。

南昌江
(みなみ・まさえ)

1963年、北九州生まれ。1988年、福岡大学医学部卒業。東京女子医科大学付属病院内科入局。同糖尿病センターにて研修。1991年、九州大学第二内科糖尿病研究室所属。1992年、九州厚生年金病院内科入局。1993年、福岡赤十字病院内科入局。1998年、南昌江内科クリニック開業。日本内科学会内科認定医、日本糖尿病学会専門医。日本糖尿病学会九州支部評議員、日本糖尿病学会「対糖尿病戦略5ヵ年計画」作成委員会、日本糖尿病協会Team Diabetes Japan代表。1998年、日本糖尿病学会ガリクソン賞受賞。2016年、日本糖尿病学会パラメデス賞受賞。2017年、Best Doctors賞(2018-2019)(2020-2021)受賞。著書には『わたし糖尿病なの』、『わたし糖尿病なの あらたなる旅立ち』各医歯薬出版株式会社刊がある。

写真・文:泉美 咲月

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