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事例

小児糖尿病にならなければ、医師の私はいない-病とキャリア vol.9(中編)

2020年10月9日

福岡市にある糖尿病専門科医院、南昌江内科クリニックの院長・南昌江先生は、ご自身が中学2年生の際に小児糖尿病を宣告された身の上です。病気を発症した前編に続き、今回は医療への水差し案内人となった医師との出逢いや転機となった出来事について伺います。(取材日:2020年9月1日)

糖尿病になって43年、開業して22年となる南昌江先生

人生を変えたサマーキャンプ

——仲村吉弘先生との出会いは、具体的にどのような転機となったのでしょうか。

仲村先生は「糖尿病であっても、できないことは何ひとつないのだから、学校でも友達に負けないよう、なんでもしなさい」と励ましてくださっていたので、それを実践し勉学や部活に励み、皆と修学旅行にも出かけました。

大きな転機となったのは、仲村先生に勧められて参加するようになったサマーキャンプです。それは半ば強制的で「サマーキャンプに参加しなさい」と促され、高校1年生の夏休みに体験しました。正式な参加資格は中学生まででしたから、私は特別に許可をいただいてのことでした。

——サマーキャンプとは、どのようなイベントなのでしょうか?

現在も全国47か所で開催されていて、ほとんどの地域は、医療キャンプとレクリエーションが中心になるイベントです。糖尿病に対する勉強、インスリン注射の指導、山登りにハイキングといった運動を取り入れています。私が参加した「ヤングホークス」と呼ばれる福岡のサマーキャンプは、それまで私が感じたことのない明るさがあって、心細さもない充実したものでした。

特徴的なのはTG(Talking Group)です。秘密厳守で行われる患者同士のTGでは、学校でのいじめが話の中心でした。わざと目の前でジュースを飲んで、「おまえはジュース、飲めんやろ」とからかわれたり、保健の先生にクラスメイトの前で「糖尿病の子どもは30歳までしか生きられん」といわれた子がいたり、「将来目が見えなくなる」など今後に不安を感じている子もたくさんいて、皆で一緒に泣いたり、励まし合ったりしました。

同じ病気の仲間たちの姿や、抱えている様々な悩みを話す中で、真剣にこの病気と一生付き合っていくという覚悟が芽生えましたし、これまで自分が病気を理由にして、どれほど甘えてきたかを思い知ることになりました。同時に、自分が強くなければ、病気と一緒に歩いて行けないことを知りました。

サマーキャンプ中に、”ヘルパー”と呼ばれるボランティアでお手伝いをしていた大学生から言われた、忘れられないひとことがあります。

「きみたちはこれから社会に出ていく。社会に出たら、まわりは糖尿病でない人ばかりなんだ。そんな中で、糖尿病をもって生きていくには、いろんな壁にぶつかるだろう。そのときに、その壁を乗り越えられるだけでの強さを持たなくてはいけない」、と。この言葉とサマーキャンプでの体験により、自分の生きる姿勢が養われたと思っています。

南昌江内科クリニック2階に設けられている運動教室。南先生の闘病経験を踏まえて病気との付き合い方を患者さんに提案している(写真提供:南先生)

医学部受験への決意

——「医師になる」という思いは、どのようにして生まれたのでしょうか?

糖尿病にならなければ、考えることがなかったであろう医師を志すようになったのは、サマーキャンプから帰ってからのことです。同じ病気を持つ仲間と過ごす時間を経て、病気と向き合う覚悟ができました。同時に、これまで私を温かく見守り、支え、励ましてくださった多くの人の姿が思い返されました。

「糖尿病だって、なんだってできる」ことを教えてくださった平田先生、最初の主治医の原口宏之先生、仲村先生はもちろん、いつもやさしく声をかけてくれた看護師さんたち。そうした医療従事者の皆さんの姿を通して、「病気で悩む子どもたちのために、私もなにかできないだろうか」と自問自答し、出た答えが医師を目指すということだったのです。

ご自身の持前の明るさや好奇心旺盛な性格も闘病を支えた

————「医師を目指す」という南先生の決意に、周囲はどのような反応でしたか?

両親には、糖尿病になってから北九州市立医療センター(旧・市立小倉病院小児科)の原口宏之先生、東京女子医科大学糖尿病センターの平田幸正教授、福岡赤十字病院内科の仲村先生と接する中で「私も、先生たちのようなドクターになりたい」と思ったこと、サマーキャンプに参加して、自分と同じ病気の子どもたちの役に立てる人間になりたいと強く思ったことなどを説明しました。

すると父は、「病気になった苦しさを乗り越えて人の役に立ちたいと思うようになったのは立派だと思う。できるならその夢を実現してほしいと願っている。でも、本音としては、私はインスリン注射を持ってお嫁に行けないと思う。一生ひとりで生きていける道を選ぶという意味で医者になるのなら、頑張って医者になって、なにより自分の身体を管理できるようになりなさい」と励まし、認めてくれました。

とはいえ、電気店を営む自営業の我が家では私立に行くのは経済的に厳しく、必ず国立に進むように厳しく言われました。

——こうして、進路を決めた南先生。後編では、周囲の理解を得て医学部受験、医師の道を歩み始めた南先生のお話しを伺います。

南昌江
(みなみ・まさえ)

1963年、北九州生まれ。1988年、福岡大学医学部卒業。東京女子医科大学付属病院内科入局。同糖尿病センターにて研修。1991年、九州大学第二内科糖尿病研究室所属。1992年、九州厚生年金病院内科入局。1993年、福岡赤十字病院内科入局。1998年、南昌江内科クリニック開業。日本内科学会内科認定医、日本糖尿病学会専門医。日本糖尿病学会九州支部評議員、日本糖尿病学会「対糖尿病戦略5ヵ年計画」作成委員会、日本糖尿病協会Team Diabetes Japan代表。1998年、日本糖尿病学会ガリクソン賞受賞。2016年、日本糖尿病学会パラメデス賞受賞。2017年、Best Doctors賞(2018-2019)(2020-2021)受賞。著書には『わたし糖尿病なの』、『わたし糖尿病なの あらたなる旅立ち』各医歯薬出版株式会社刊がある。

写真・文:泉美 咲月

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