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視力を失った精神科医だからできること-病とキャリア vol.8(後編)

2020年7月2日

網膜色素変性症を抱えながら、精神科医となった福場将太先生。容赦なく病状が進行する中で、一度は医師を辞めようと考えた福場先生でしたが、様々な人々との出会いで医師を続けていこうと決意します。後編では、病との向き合い方や患者さんとの関係性についてお聞きしました。(取材日:2020年5月23日)

「私が心を支えるから、視力は支えてください」

——視覚障害をもつ医療従事者の会「ゆいまーる」での交流は、先生にとって大きな影響があったのではないでしょうか。

近年、精神科では、患者さん同士が机を囲んで話す集団療法が行われています。特に、一生治らないような依存症の患者さんは、依存対象のやめ方や、やめた上でどうやって人生を楽しむかを話します。私にとって「ゆいまーる」はまさに“集団療法”でした。仲間と出会ったことで再び前向きな気持ちが生まれ、精神科医の仕事を続けようと思えたんです。私は脳波や画像を見たり、注射をしたり、当直をしたりすることはできません。その分、私にしかできない仕事を増やして存在価値を高めていこう──。そんな風に気持ちを切り替えました。 現在は、美唄にある系列のクリニックで週4日間、外来や依存症、就労支援のミーティングを担当し、2日間は江別の本院で病棟勤務をしています。加えて、夜間の緊急電話対応も受け持っています。電話は声だけですので、ある意味、私の得意分野です。休みの日はギターを弾いたり、曲を作ったりして、好きなことをして過ごしています。

——患者さんには、ご自身の目のことは話していますか。

全ての患者さんに積極的に伝えるわけではありませんが、気付いた方には「そうですよ」と認めています。 私ならではの診療テクニックといえるかもしれませんが、目のことを話したほうが治療に効果的だと判断した時には伝えています。精神科の患者さんの多くは、「自分の苦しみを誰も分かってくれない」と嘆きます。そんな時は「実は私、目が見えてないのですが、気付いていましたか」と明かし、「周囲は意外と気付かないものであること」、「自ら周囲に分かってもらう・気付いてもらう努力をすることの大切さ」を伝えています。

——患者さんの反応はいかがですか。

今のところは、目のことを知って診察を拒んだり、外来を受診しなくなったりする患者さんはいません。逆に、私のことを噂で知って、わざわざ来院してくださる方もいます。自分のような医師を求めている人もいるんだな、と自分の存在意義を強く感じています。 時々、私が病棟で迷子になっていると、患者さんが手を引いて案内してくれることがあるんです。勉強会やミーティングでも、患者さんが「先生、席はここです。お茶はこちらです」と誘導してくれることも。今までの私は、それは医師としてあってはならない姿だと思っていました。医師は患者さんを支える側であり、お世話になってはいけない、と。しかし、ある学会で「弱点を持つスタッフのほうが、患者さんが回復するケースがある」との発言を耳にし、こういう形もあってもいいのだと思えたのです。人を気遣う行為を通して、患者さん自身が元気になれるんですね。もちろん甘え過ぎはいけませんが、「私が心を支えるから、視力は支えてください」というスタンスでいられるようになりました。

病のことをオープンにして、世界が広がった

——最近、個人のホームページを開設し、情報発信もされているそうですね。

ホームページは、2019年に開設しました。最近になってようやく、周囲に目のことを隠さなくてもいいと思えるようになったんです。患者さんには少しずつ伝えていましたが、それでも、誰にでも堂々と言えるほどではなかったんです。 情報発信のきっかけは、「ゆいまーる」の2018年の会員向け勉強会でした。精神科医として講演をした時に、学生時代の先輩である眼科医の先生が聴講に来てくれたんです。いろいろ話をする中で、視力を失った患者さんのメンタルケアが適切になされていない現状を知りました。眼科でも精神科でも対応が難しいため、家に引きこもっている人が多いというのです。後日、先輩の依頼を受け、初めて視力を失った“当事者”の立場で講演をしたところ、医師や市民の方から大きな反響がありました。驚きと同時に、自分のような人がいることを世の中に向けて広く発信してもいいのかもしれない、と思えたんです。 不思議なもので、目のことをオープンにしてからは、さらにつながりが生まれるようになり、これまで以上に講演会や発信の機会をいただくようになりました。自分の言葉が誰かの役に立つのであれば、今後もぜひ続けていきたいですね。

——先生と同じように、病とともに生きる方に伝えたいメッセージはありますか。

「道はある」ということです。医学部ではある種、足並みを揃えるための教育がなされるので、医師は特に「人と違うことはnotである」「〜でなくてはならない」と考える癖がつくのかもしれません。すると、ちょっとした挫折を味わった時に、医師の道を諦めたり、人生を投げ出したりする人も出てきてしまう。 精神科ではよく、三つの種類の回復について語られます。病気の症状がなくなる「臨床的回復」、社会の中で生活できる「社会的回復」、そして自分の人生に希望や喜びを感じられる「心理的回復」です。世の中には治らない病気はたくさんあります。不治の病を抱える人が臨床的回復だけを求めてしまうと「一生無理」という話になりますが、社会的回復や心理的回復は、考え方や生き方を変えることで実現できます。 完璧でなくてもいいんです。自分を赦すといいますか、「これでいいんだ」と思うことで、きっとまた新しい道が拓けてくるに違いありません。

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