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線維筋痛症の女医が、救急医の道を選んだ理由 ―病とキャリアvol.6(中編)

2019年12月19日

線維筋痛症を抱えながらも、厚生連高岡病院(富山県高岡市)で働く原田樹先生。中編では、臨床研修後のキャリアをどのように選び、切り開いていったのかをお聞きしました。(取材日:2019年11月25日)※前編はこちら

麻酔科から、救急科を志望にした理由

──線維筋痛症を抱え、勉強も満足にできない状況で見事に卒業試験と医師国家試験をクリアされました。さぞ嬉しかったと思います。

「医学部を卒業し、国家試験に合格する」という目標を掲げ、そのゴールに向かって突き進み、達成できたこと自体はとても嬉しかったです。
しかし、その先には「社会人として働く」という現実が待っていることに、はたと気づきました。今までは、痛みで眠れなくても、朝の支度が遅れても、大きな問題はありませんでした。体調に合わせた生活を送ることが許されていたからです。でもこれからは、それが難しい。臨床研修中は、医師としての基礎を学ぶだけでなく、社会人として働くための基礎作りをする時間です。当たり前のことかもしれませんが、体調に波がある私にとってはある種の覚悟を持って臨まなければならないと感じましたね。

──仕事に行き、業務をすること自体が、先生にとっては大きな挑戦だったのですね。

働く前はそう思っていましたが、いざ働き始めてみると、体調も安定していたことや緊張感もあってか意外と大丈夫でした。薬も痛みが出た時に飲むくらいで済み、研修医当直もみんなと同じ頻度で、だいたい月4回、日直も月3回こなしました。周囲から見れば、少し体力がない子という印象だったと思います。
そうして2年間の研修を終え、診療科を選択する時期を迎えました。以前から希望していたペインに進みたい気持ちはありましたが、体調面を考えると新たな職場で一から始めるのは、その時の私にはハードルが高いと感じてしまいました。


──最終的に、救急科を選んだのはなぜですか。

臨床研修中に一度、発作が出て足腰が立たなくなり、なぜか今の上司のところへ助けを求めに駆け込んだことがありました。その時に親身に支えてくれたことが印象に残っていて、「体調が悪いのを我慢して隠して働く必要はないんだ」と思えたのです。仕事をするにあたって、何をするかも大事ですが、“誰と働くか”も重要ですよね。
救急は麻酔科出身の先生も多かったですし、救急の研修の一環で麻酔の研修もできるので救急科専門医のみならず麻酔標榜医の資格が取得できるのも魅力でした。診察もチームで行うので、何かあった時にもサポートしていただける環境も私にとっては安心材料となりました。

──救急は過酷な現場というイメージがありますが、いかがですか。

救急はオン・オフがしっかり分かれているので、生活のペースを作りやすいと感じています。毎日必ず当直の担当がいて、適宜対応する体制なので、内科のように、急変によるオンコールや、発熱の電話連絡などが一切ありません。また、当直の翌日は平日空けとなるので、自分の通院日にも充てられます。今も、平日の当直明けに通院する生活を送っています。

体調の変化に合わせて、働き方を調整

ただ、昨年秋に大きく体調を崩してしまい、働き方を見つめ直しました。2週間ほど休暇をいただいたのですが、その後も急に、特に明け方に体が痛くなって動けなくなるようなことがあって──。当院は三次救急施設で、救急科は輪番当直です。当番日は2名、非番日は1名の医師が当直を担っています。基本的に非番日には何も起こらないのですが、私1人が当直につき三次対応をするのはリスクが高い。患者さんに不利益を与える恐れがあると考え、非番日の当直を外させてもらいました。
平日午前の麻酔科外来を担当するようになったことも変化の一つです。当院では、救急科から麻酔科にヘルプを1名出しているのですが、そのほとんどを私が担うようになりました。発作は朝に出ることが多く、時に出勤時間が間に合わないことがあります。特に麻酔科で手術を担当するとなると、当日朝に交代を依頼していては、周りの先生に迷惑をかけてしまいます。ですが、外来であれば2枠あるので、万が一、出勤が遅れたとしても外来が止まることはありません。
ありがたいことに、同僚やスタッフは病気に対して理解を示してくれています。しかし、周囲に迷惑をかけることは私にとって何よりのストレスでした。非番日の当直を外れることも、麻酔科外来を毎日担当することも、身体的にはハードです。それでも、周囲へ迷惑をかけるレベルは大きく軽減されたので、精神的にはよい選択だったと思っています。


──これらの働き方の提案は、原田先生ご自身が考えたのですか。

上司や麻酔科の先生にも相談の上、私が考えました。線維筋痛症は、体調に波がある病気です。病気とうまく付き合うためには、自ら工夫し、最善策を考え、周りに提案をすることが重要だと思っています。元気な時は頑張ればいいし、元気じゃない時は甘えればいい。そう思えるようになったのもありますね。

医師4年目と6年目に、子どもを出産

──プライベートでは、出産も経験されていますね。

医師4年目と6年目の時に出産しました。私の場合、ホルモンバランスが変化したこと、骨盤が緩んだことが好影響だったようで、線維筋痛症の痛みはむしろ改善されました。元気な妊婦だったので、2人目の時は妊娠8ヶ月まで当直をしていたほどです。
仕事と家庭の両立は大変ですが、私の両親と同居しているのでかなり助けられています。特に育児は、全面的に母に協力してもらっています。本当にありがたいです。

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