病とキャリア
病とキャリアについて紹介します-
事例
「自分が理想とする糖尿病診療を追い求めて」開業へ NEW
小児糖尿病の宣告を受けるも、「糖尿病だってなんでもできる」という医師の言葉をお守りに自らも医師を志すことを決意した南昌江内科クリニック(福岡市)の院長、南昌江先生。現在の糖尿病専門科医院を経営するようになった軌跡を伺います。 -
事例
小児糖尿病にならなければ、医師の私はいない NEW
福岡市にある糖尿病専門科医院、南昌江内科クリニックの院長・南昌江先生は、ご自身が中学2年生の際に小児糖尿病を宣告された身の上です。病気を発症した前編に続き、今回は医療への水差し案内人となった医師との出逢いや転機となった出来事について伺います。 -
事例
14歳で1型糖尿病「前向きに考えて生きなさい」 NEW
14歳の夏、”小児糖尿病”の宣告を受けた南昌江先生。その数年後、両親や主治医、同じ病気の仲間たちに支えられ医学部受験、医師になるという夢を果たしました。前編では、病の発症、闘病生活について伺います。 -
事例
視力を失った精神科医だからできること NEW
網膜色素変性症を抱えながら、精神科医となった福場将太先生。容赦なく病状が進行する中で、一度は医師を辞めようと考えた福場先生でしたが、様々な人々との出会いで医師を続けていこうと決意します。
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事例
辞職か、継続か…視力を失った精神科医の葛藤
医学部5年生の時に、網膜色素変性症を発症した福場将太先生。次第に視力が衰えていく現実に、迷い、葛藤を覚えながらも、医師の資格を取得されます。
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事例
「見えなくなっていく」卒試、国試前に病を発症
網膜の機能が低下し、人によっては視力を失うこともある網膜色素変性症。次第に視力が衰えていくこの病気は、福場将太先生に、医師として、一人の人間としてどう生きるかを、常に問いかける存在でした。
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事例
不治の病を抱えながら、クリニックの院長へ
40代でパーキンソン病を発症し、50歳で医師として働くことを辞めた橋爪鈴男先生。後編では、再び医療の世界に戻った時のエピソードと、病を抱えるようになって変化したことを語っていただきました。(取材日:2020年2月20日 ※インタビューは、資料や文書による回答も交えた形式で実施しました)
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事例
「もう死にたい」動けない医師が光を見出すまで
皮膚科医として、順調なキャリアを築いてきた橋爪鈴男先生。しかし、40代でパーキンソン病を発症した後、大学病院を辞すことを決意します。中編では、絶望を救った一つの言葉と仲間の支え、そして新たな治療を経て見つけた生き甲斐についてお話をうかがいました。
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事例
40代でパーキンソン病「医師を続けられない」
順風満帆な生活から一転、晴天の霹靂のごとく襲いかかった難病──。橋爪鈴男先生は、40代でパーキンソン病を発症し、大学病院の助教授(当時)の職を辞すことを決意します。身体機能が衰えていく自分の姿に苦悩し、自殺を考えたこともあったそうです。しかし、生きる意味を見出し、再び医師として復帰するに至りました。前編では、突然の発症から大学病院の辞職を決意するまでのエピソードをお聞きしました。
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事例
「患者さんを否定しない」傷ついた経験を糧に
医師であり、線維筋痛症の患者でもある原田樹先生。自分や周囲にとって最善の働き方を模索しながら、3次救急病院の救急科で働き続けています。後編では、病に対する考え方の変化と、新たなキャリアについてお聞きしました。
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事例
線維筋痛症の女医が、救急医の道を選んだ理由
線維筋痛症を抱えながらも、厚生連高岡病院(富山県高岡市)で働く原田樹先生。中編では、臨床研修後のキャリアをどのように選び、切り開いていったのかをお聞きしました。
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事例
全身を襲う激痛……「私、医師になれるの?」
全身を襲う、耐えがたいほどの痛み──。原田樹先生は医学部在学中に線維筋痛症を発症しました。以来約10年に渡り痛みと付き合いながら、医師として、母として、多忙な日々を送っています。前編では、突然の発症から卒業試験・医師国家試験に挑むまでのお話を伺いました。
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事例
がん経験した今も「患者の気持ち分からない」
縦隔原発混合性胚細胞腫瘍という、数万人に1人が発症する稀ながんに罹患した清水秀文先生。後編では、医師という仕事に対する思いや、がん患者さんとの向き合い方、今後の展望についてお聞きしました。
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事例
がんを自ら発見…その時医師が考えたこと
がんの第一発見者は自分──。JCHO東京新宿メディカルセンター(東京都新宿区)呼吸器内科医の清水秀文先生は、自分の健診のレントゲン画像をチェックしたときに、がんであることを悟りました。縦隔原発混合性胚細胞腫瘍という、自身も症例経験のない稀ながんに罹患した清水先生。前編では、がん発覚時の経緯と周囲の反応、治療の様子をお聞きしました。
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事例
「がん」は私らしさ 強みを活かして働き続ける
がん患者であることを周囲にひた隠しにしていた田所先生は、発症から6年後にカミングアウトしたことで、一歩前に進めるようになったといいます。後編では、現在の職場のスタッフに対する思いと、これから始める新たな取り組みについて伺いました。
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事例
「私は、がん患者」発症から6年後のカミングアウト
がん患者であることの現実や不安と向き合う一方で、その事実を周囲にひた隠しにしていた田所先生。あることを機に、カミングアウトすることを決意します。中編では、カミングアウト当時の気付きと疾病受容に対する考え、そして緩和ケアへの真摯な思いを話していただきました。
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事例
「健康な自分には戻れない」緩和ケア医の苦悩
緩和ケア医の田所園子先生は、周囲が持つ“明るい田所先生”のキャラクターイメージを崩したくないとの思いから、子宮頸がんの患者であることを周囲に隠し、再発への恐怖や不安に蓋をしていた時期がありました。前編では、当時の苦しみと複雑な心境に迫ります。
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事例
業務は多様 ALS医師のセカンドキャリアとは
2012年にALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、現在は、目や首の動きで意思疎通を図っている竹田主子先生。臨床現場を離れてからは、医師と患者双方の経験を活かし、医療コンサルティングや講演活動などに注力されています。後編では、その取り組みについてお話を伺いました。
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事例
「私、死ぬんだ…」ALSの医師が再び輝くまで
大学卒業後、内分泌代謝科の医師として働いていた竹田主子先生。子育てに重きを置き、複数の非常勤先で働いていた2012年、40代前半でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症。2014年には、24時間介護が必要な状態になりました。現在は、目や首の動きで意思疎通を図っています。前編では、ALSを発症するまでのキャリアや働き方、疾病受容するまでのお話をお聞きしました。
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事例
生涯安心できない がんサバイバー医師の胸中
ステージIIIの進行性食道がんを経て、医療現場に復帰した行田泰明先生。闘病を経験したことで、緩和ケア医として持つべき視点を改めて認識できたと語ります。後編では、闘病を通じて得た新たな思いと、治療から5年経過した胸中について伺いました。