大学卒業後、内分泌代謝科の医師として働いていた竹田主子先生。子育てに重きを置き、複数の非常勤先で働いていた2012年、40代前半でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症。2014年には、24時間介護が必要な状態になりました。現在は、目や首の動きで意思疎通を図っています。前編では、ALSを発症するまでのキャリアや働き方、疾病受容するまでのお話をお聞きしました。(取材日:2019年6月3日)
「私、死ぬんだ…」と思った
――ALSを発症するまでのキャリアについて教えてください。
信州大学医学部を卒業後、医師3年目で同じ内科の医師と結婚しました。その後、東京大学の大学院に入学しましたが、夫のアメリカ留学が決まり休学。アメリカ滞在中に、臨床研修員として3年間働き、現地で第一子を出産しました。子どもが生まれてからは、仕事よりも子育てをメインにした働き方にシフトしましたね。それは帰国後も同じでした。子どもが幼稚園に行っている間に外来のアルバイトをして、仕事から自宅に戻ると家事をこなし、子どもが帰ってきてからは習い事の送迎という毎日。第一子が少し大きくなってからは常勤医として当直対応もしながら働いていましたが、第二子を妊娠・出産して少し経ってからは、非常勤医として複数の勤務先でアルバイトをする働き方に切り替えました。
子育てが一段落ついたら、ゆくゆくは開業しようと考えていましたが、当時の私は医師としてのキャリアよりも、家庭や育児を優先させていました。私が家庭を守り、夫が出世すればいいと考えていたのです。
――ALSの発症は、そのような日々を送っていた矢先の出来事だったのでしょうか。
そうですね。私がALSを発症したのは2012年でした。まず、歩行時に足が突っ張り、うまく歩けなくなりました。手が動かしにくくなったので、作業療法士の方にペンが持ちやすくなる補装具を手配してもらいましたが、それを着けてもカルテの入力が困難になっていって――。ALSと正式に診断される前は、主治医に症状を訴えても「ALSの典型的な症状ではない」と言われていました。けれども、身体は徐々に動かなくなっていく。今日動かせていたところが、明日動かなくなってしまったらという不安に苛まれながら、育児や仕事を頑張るしかありませんでした。身体に異変が起き始めてから9カ月、患者さんと話していると息苦しく感じるようになった頃に、針筋電図でALSと確定。既に身体は限界で、日々の診療に耐えられる状況ではありませんでした。そのため、臨床現場を離れることに、悔しさや未練はなかったですね。
――実際に、診断名を告げられたときの心境は。
覚悟はしていましたが、いざ告げられて真っ先に思ったのは「私、死ぬんだ…」ということ。当時、中1と小2だった子どもたちが心配で、そして、彼らと別れることを思うと悲しくてたまらず、診断してくださった教授に「私のALSのタイプは進行が早いですか?」と泣きながら尋ねました。正式な診断を受けてからは日本ALS協会の方にお話を聞いたり、ALSの患者会に参加したり、さまざまな情報を集める日々。一縷の望みをかけて、ALSの治験を受けるために東北大学病院と北里大学病院にも足を運びました。
家族に対しても、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。あっという間に言葉が不明瞭になり、食事も全介助になってしまって――。医師という職業柄、ただでさえ忙しい主人には介護や家事で負担をかけてしまい、子どもたちにとっては頼れる母親から心配をかけてしまう存在になってしまった。何よりも大切にしていた家族に迷惑をかけるくらいなら消えてしまいたい、元気だったら家族に対してもっといろんなことができるのにと思いながら涙に暮れていると、そのことを非難されることもありました。「好きでこんな病気になったわけじゃないのに!」と悔しさでさらに涙があふれていきました。
疾病受容に4年かかった
――先生ご自身が患者になり、医療従事者に対して感じたことはありますか。
医師は患者とその家族の人生に希望を与える存在であり、患者側をイキイキとさせることも、絶望に突き落とすこともできるということ。また、医師と患者の間には、病に対する知識や考え方など、医師が思っている以上に大きなギャップがあるということです。それを埋めるのがコメディカルスタッフであることを実感しました。結果的に、この経験が現在の業務内容にも活かされています。
私は一時期、精神的に追い詰められるあまり、カルテに「蘇生措置拒否」と書いてもらったこともありました。自分自身にもどかしさや不甲斐なさを感じるあまり、絶望の沼にはまって、そこから抜け出せない日々が長らく続きました。結果的に、疾病受容までに発症から4年かかってしまいましたね。
――疾病受容できたきっかけは、何だったのでしょうか。
重度訪問介護者として認定され、24時間介護サービスを受けられるようになったこと。それに付随して、視線入力装置を導入できたことです。それまでは家族に平日の夕方以降と土日に介護をしてもらっていましたが、サービスを受けられるようになってからは家族の負担を減らすことができたので、心的ストレスがかなり軽減されました。また、視線で文字入力できるパソコンを使えるようになったので、仕事や交友関係の幅も、世界もどんどん広がっていき、元来の前向きさを取り戻すことができました。実はALSになってから、それまでの交友関係を断ち切ってしまったんです。バレたくなかったし、話題が合わないと思って――。ただ、子どもの学校行事のついでにママ友に打ち明けたら、お互い意外と平気でいられました。そうしたら、「なんかもういいや」と開き直ってしまって。その後に大学時代の友達にも打ち明けることができました。その当時、ようやく疾病受容できそうなフェーズだったというのもあるかもしれません。
――疾病受容できたからこそ、人工呼吸器の使用を決意されたのですか。
呼吸を楽にすること、唾液を誤嚥しないために、あらかじめ気管切開だけはしていました。気管切開をした後も毎日忙しすぎて、人工呼吸器を付けることについて悩む暇はありませんでした。人工呼吸器を付けた方が楽だろうと思い始めたときに、「もう付けちゃおう」とノリで使用しはじめました。疾病受容できたからというよりも、苦しいなら楽な方をとるという考えです。ALSは最後に残るのが眼球運動で、それが止まるとtotally locked in stateと呼ばれる閉じ込め状態になります。もし私にその日が来たら、栄養剤の注入も止めてしまおうと割り切ってはいます。
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