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「自分が理想とする糖尿病診療を追い求めて」開業へ-病とキャリア vol.9(後編)

2020年10月13日

小児糖尿病の宣告を受けるも、「糖尿病だってなんでもできる」という医師の言葉をお守りに自らも医師を志すことを決意した南昌江内科クリニック(福岡市)の院長、南昌江先生。前編中編を経て、現在の糖尿病専門科医院を経営するようになった軌跡を伺います。(取材日:2020年9月1日)

ホノルルマラソン、ゴルフ、旅行と「糖尿病だって、なんだってできる」を自ら実証する南先生(写真提供:南先生)

「インスリン注射を持ってお嫁にはいけない」という父の言葉と覚悟

——受験勉強時のご体調はいかがでしたか?

受験勉強もそうですが、高校時代の体調管理はお世辞にもよかったとはいえません。受験生はストレスで血糖コントロールが乱れるとよく言われますが、ストレスというより、運動不足やストレス食いが原因だと思います。私も例外ではありませんでした。その状態での受験は無茶も承知でしたが、どうしても医師になりたかったのです。

父から、あれほど厳しく「うちには私立に行かせる金はないぞ」と言われたというのに、国立を目指せるほど成績は上がらず、正直、もうやめてしまおうかと何度も思いましたし、看護師や栄養士、薬剤師の道も選択肢にあると考えることもありました。弱気になっていた時、当時名古屋で働いていた5つ年上の兄から電話があり、迷いを打ち明けてみました。

すると兄は怒ったような声で、「諦めたら一生後悔するぞ。父さんがダメだというなら、兄ちゃんが働いてローンを払ってやる。本当に医師になりたいなら、国立でも私立でも一緒だ。最後まであきらめずに頑張れ。もう一度、医者になりたいと思った頃の気持ちを思い出してみろ」──そう叱咤激励してくれたのです。

私立大学は2校受験しました。第一志望は不合格だったものの、福岡大学に合格することができました。実は面接時に「自分の身体をきちんと管理しなさい」と言われたので、私は人の命を預かる医師に向いてないという意味で受け取ってしまい、落ちたと思っていたので青天の霹靂でした。しかし、国立には合格できませんでしたので1年の浪人を覚悟して父に伝えたところ、「一年でも無駄にするな、お金は父さん母さんが一生懸命働けば、なんとかなるから」と初めてやさしい言葉をかけてくれました。

実は小児糖尿病になってから、私の顔を見るたびに「金がかかる」と言う父を恨んでいました。”私のこと、おらんかったらいいと思っているんやろ”と心の奥底で感じていたのです。でも、どれほど父が私を大切に思っていてくれているかにやっと気づき、両親のためにも医師になって、頑張って生きて行こうと決心したのです。

——大学時代はどのように過ごされましたか?

小倉の両親のもとを離れ、福岡市内でひとり暮らしを始めました。まずは、それまで母任せだった料理にもチャレンジし、食事療法に取り組みました。また「糖尿病だって、なんだってできる」という平田先生のお言葉を励みに、スキーにチャレンジするばかりかスキー場でアルバイトもしました。中学時代から英語が好きだったこともあり、一度はアメリカで生活してみたいと思っていたのですが、アルバイト代と母が内緒で工面してくれたお金を借りて、サンタバーバラでのホームステイも実現することができました。勉強も、それ以外も充実した大学生活を過ごせたと思います。

——まさに「糖尿病だって、なんだってできる」を実証されていますね。医師になってからはいかがでしたでしょうか?

大学卒業後は、平田先生がいらっしゃる東京女子医科大学付属病院内科に入局し、同糖尿病センターにて研修を受けました。研修医時代は、皆さんと同じように過酷な日々を送っていました。不規則な生活の中で自分のリズムが掴めず、低血糖や高血糖を繰り返し、不安を覚えながらも目先の忙しさに追われる毎日でした。

実際に医療の現場に立ってみると、糖尿病の子どもたちや、私と同世代の患者さんから悩みを相談されることも多かったです。自分の経験と重なって、同情したり、泣いてしまったりすることも多々あり、時に逃げ出したいと何度も思っていました。私が弱音を吐いてはいけないと、自分の心に鞭打ち、励ますだけで精一杯の毎日でした。

そんな日々を送る中、毎日気分がすぐれず、胃が重く、食欲の低下を感じるようになりました。不規則な生活とストレスによるものだろうと高を括っていましたが、1カ月経っても一向に改善が見られないので血液検査をしたところ、肝機能酵素(GOT、GPT)が800~900mU/mlもありました。急性肝炎と診断され、翌日から勤務していた糖尿病センターに入院しました。

実はその原因となったのが針刺し事故で……。約2週間の入院の中で、自分の将来が閉ざされてしまったような気持ちになって、眠れない日々が続きました。それは小児糖尿病を宣告された時とは比べ物にならない悲しみと絶望で、まるで出口のない真っ暗なトンネルの中に、取り残されてしまったような気持ちでした。

3か月の休養をとり仕事に復帰したものの、肝炎は完治せず、結局1991年5月で当時勤務していた東京女子医科大学糖尿病センターを退局しました。九州に戻り、仲村吉弘先生の同級生でいらした藤島正敏教授のご厚意で、九州大学第二内科の糖尿病研究室に入局させていただき、その後、北九州にある九州厚生年金病院勤務となりました。

——ある意味、無念で故郷に戻られたわけですが、その後の医療にどう影響したのでしょうか?

九州厚生年金病院を経て、結果、念願だった福岡赤十字病院に勤務することになります。15歳から24歳まで通院した病院に今度は医師として勤務する。かつての主治医であった仲村先生と一緒にお仕事をさせて頂くことは、長い間の目標でしたから、嬉しいやら照れくさいやらという心境でした。

「数時間待ちの3分診療」を何とかしたい

——開業に至った経緯を教えてください。

昔から福岡赤十字病院の糖尿内科は、九州では一番患者さんを集める病院です。当時、外来担当医師は2名でしたが、毎朝受診の順番を取るために列ができるほど。いわゆる「数時間待ちの3分診療」と呼ばれた時代でしたが、私たちにはどうすることもできず、心苦しいばかりでした。

治療を中断する患者さんも、少なくなくありませんでした。とくに2型糖尿病の若い患者さんが多かったですね。皆さん、お仕事など暮らしの事情で通院することが難しくなりがちです。この病気は、一生治療が必要です。患者さんたちは「いつまでここに来ないといけないのですか?」、「病院に来ると頭が痛くなる」など、ストレスをたくさん抱えていました。そういった話を伺っているうちに、”そういえば、私も同じ気持ちだったな。来るのが嫌だったな”と思い返すようになりました。

治療を自分の意志と事情で中断した患者さんは、結局、かなり悪くなって入院していました。それを目の当たりにして、私が目指した医療とはかけ離れている気がして──。患者さんがなるべく苦なく通院できて、糖尿病と上手に付き合っていける環境を作って差し上げたい、医師と病院が変わらなくてはいけないと考えるようになりました。

開業したら患者さんとの距離が今よりも縮まるのではないか? 自分なりの治療ができるのではないか?と思い、1998年に開業しました。以前は自分の病院を持つなど考えたこともなかったのですが、私なりの自問自答の結果でもありました。

————とはいえ、開業のご苦労もあったかと思います。

はい、確かに簡単ではありませんでした(笑)。一方で、ゼロから始める楽しさもありました。土地探しや経営について、いろんな方にご指導、お支えをいただいて2020年現在、開業23年目を迎えました。

患者さんには、ここにきて元気になり、明日から頑張ろうという気持ちになってもらいたい。当院のコンセプトは”元気を発信するクリニック”です。「病院に来ると気分が落ち込む」、「病気になっちゃう気がする」などと思わせてはいけない。一生病気とうまく付き合っていただくために、私たちが人生に寄り添って差し上げたいと考えています。

20年にわたり続けているフルマラソン。ホノルルマラソンは22回完走し、その情熱と達成感はご自身のクリニックを持つ立てる事にも繋がった

————“元気を発信する”ということですが、具体的な取り組みを教えてください。

患者さんを支える立場として、けっして糖尿病になったことを悲観しないような治療をして差し上げたいと思い、まず取り組んだことは、”お母さんの会”作り。糖尿病のお子さんを持つお母さんたちのお話を聞いて、不安を取り除けるようなアドバイスをして差し上げたいと考えました。

私が小児糖尿病を宣告された際、母は誰にも相談できる人がいなかったんです。そうした母の苦悩も見てきましたから、今度は私が患者さんのお母さん方の励みと支えになると決意しました。また、通いやすいように予約制をとり入れ、土曜日も午前中は毎週診療をおこない、日曜日も月に1回診療を受け付けています。

闘病と臨床経験を活かして患者さんの向けに栄養指導や調理実習をするスペースを設け、交流の場としている(写真提供:南先生)

————同じように病気と闘いつつ、医療に取り組む先生へのメッセージをお願いします。

「今の自分にできること、やらなければいけないこと」を常に考えて、無理をせずに一歩一歩進むこと。それに尽きると思います。例えるなら、歩を進めた分、しっかり前進できるマラソンみたいですね。

——ご両親、主治医や治療を支える医療従事者の姿、同じ病気の仲間たちとの出会いの中で医師になった南先生。「糖尿病だって、なんだってできる」という言葉は、今も先生の中で薄れることなく開業してより強くなり、治療方針にも反映されています。その言葉は、患者さんとご家族の中にも受け継がれています。

南昌江
(みなみ・まさえ)

1963年、北九州生まれ。1988年、福岡大学医学部卒業。東京女子医科大学付属病院内科入局。同糖尿病センターにて研修。1991年、九州大学第二内科糖尿病研究室所属。1992年、九州厚生年金病院内科入局。1993年、福岡赤十字病院内科入局。1998年、南昌江内科クリニック開業。日本内科学会内科認定医、日本糖尿病学会専門医。日本糖尿病学会九州支部評議員、日本糖尿病学会「対糖尿病戦略5ヵ年計画」作成委員会、日本糖尿病協会Team Diabetes Japan代表。1998年、日本糖尿病学会ガリクソン賞受賞。2016年、日本糖尿病学会パラメデス賞受賞。2017年、Best Doctors賞(2018-2019)(2020-2021)受賞。著書には『わたし糖尿病なの』、『わたし糖尿病なの あらたなる旅立ち』各医歯薬出版株式会社刊がある。

写真・文:泉美 咲月

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