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全身を襲う激痛……「私、医師になれるの?」 ―病とキャリアvol.6(前編)

2019年12月19日

全身を襲う、耐えがたいほどの痛み──。原田樹先生は医学部在学中に線維筋痛症を発症しました。以来約10年に渡り痛みと付き合いながら、医師として、母として、多忙な日々を送っています。前編では、突然の発症から卒業試験・医師国家試験に挑むまでのお話を伺いました。(取材日:2019年11月25日)

突然の発症。杖、そして車椅子の生活へ

──線維筋痛症を発症したのは、いつですか。

大学5年生の夏に発症しました。突然、足に原因不明の痛みが走ったのです。関節の周りに痛みやこわばりが現れ、肉がそがれるような激痛でした。特に足の痛みが強く、歩こうと足を地面につけるたびに、針を刺すような痛みが走って──。そのため、歩行には杖を使うようにしていたのですが、そのうちに掌にも痛みが走るようになり、車椅子に頼らざるを得ない状態になりました。
さまざまな病院で痛みを訴えても、納得がいく診断がつかない。ときには、筋肉痛ではないのかと言われたこともありました。病院を転々とした結果、線維筋痛症と診断されたのです。

──線維筋痛症は治療法が確立していないそうですが、治療はどのように進められたのですか。

基本的には痛みを抑える治療です。週に1~2回、隣県のクリニックまで全身の300箇所以上に局所麻酔を打つトリガーポイント注射を受けに行っていました。薬剤は、鎮痛薬や抗てんかん薬、抗うつ薬など1日40錠以上を極量まで服用。副作用による強い眠気もあり、車の運転は危険だったため、大学までの送迎は母にお願いしていました。迎えを待つ間に昏倒し、2時間ほど待たせたこともありましたね。
しかし、トリガーポイントブロック療法も、続けるうちに効果が薄れていって──。鎮痛効果が1時間しかもたず、帰りの車の中では痛みが再発するようになってしまったのです。その後、トリガーポイント注射をやめ、近隣の鍼灸院で鍼治療を行いながら、騙し騙し痛みを抑える状況が続きました。発作が波のように訪れ、全身を激しい痛みが襲う日々に「西洋医になろうとしているのに、西洋医学に匙を投げられる状態になるなんて、どうしたんだろうか」「卒業できるのだろうか」という漠然とした不安でいっぱいでした。
そんなある時、難病と闘う女子医学生として取材を受けた地元テレビ局のドキュメンタリー番組がきっかけで、ある方から代替療法(徒手療法)を行っているクリニックを紹介していただきました。寝たきりの状態だった線維筋痛症の患者さんが、車を運転できるまでに回復している姿を目の当たりにし、「私も治るに違いない」と思えたのです。治療方針を失った私にとって、そのような患者さんがいることは大きな希望となりました。

──それはいつのタイミングですか。

大学5年生が終わる頃です。当時は激しい痛みのため、勉強も全くできない状態でした。そのクリニックの先生は、「この子の人生を潰してはいけない。絶対に医師にさせてみせる」と思ってくれたそうです。私と先生は、卒業して医師になるという大きな目標を掲げ、6年生の4月から治療に取り組みました。
急激に減薬した反動と治療に対する反応で当初は強い痛みに襲われました。体重も著しく減少し、寝たきりとなった期間もありましたが、治療を始めて1ヶ月半が経った頃再び歩けるようになり、杖なしでも歩けるようになりました。痛みの症状は和らいできたものの、その後寝汗がひどくなり、朝起きるとバケツで水をかぶったような状態が3カ月間続くなど治療の反動と思える症状がありました。でも、できることも増えてきて、確実に良くなっていると治療の効果を実感することができたので治療を続けました。
そうこうするうちに、臨床研修のマッチング時期である7月を迎えました。周囲からは、大学医局に籍を置いた方が体調面での配慮も受けられるのでは……とアドバイスされましたが、私としては、病気になる前に掲げていた目標をクリアしたかったのです。

病気になっても、諦めたくなかったこと


──病気になる前に掲げていた目標とは。

先輩から勧められていた、厚生連高岡病院(富山県高岡市)で研修を受けることです。
私は、病気になってから多くのことを諦めました。歩くこと、教科書を持つこと、ペンを持つこと、友達と出かけたりショッピングへ行ったりする普通の20代の女の子の生活──。好きだったハイヒールも、擦れた時の痛みからスカートやパンツも履けなくなりました。そうやって出来ないことがどんどん増えていき、数々の喪失体験を重ねる中で、せめて、病気になる前に決めていたことを果たしたかったのです。

──厚生連高岡病院で研修を受けることが、生きるための原動力だったのですね。

そうですね。1日見学では、痛みの発作をひたすら我慢して隠し通しました。多分先生は気付いておられたと思いますが、ここで痛いと言ったら採用してもらえない、とにかく立っていようと。その後、面接を受けて病気のことを伝えましたが、それでも採用すると言ってくださった先生方には、今でも感謝しています。

崖っぷちの状況で、奇跡の卒試・国試クリア


──卒後のキャリアが決まった後の大きな壁は、卒業試験と国家試験ですね。

卒業試験は9〜11月に実施されます。しかし、8月上旬の時点で、私の体調はまだ低迷していました。勉強できるのは、せいぜい週2日、1日あたり2時間。8月末に実施された内科のプレテストも合格点ギリギリで、呼び出しの対象になりました。教官には、「今ようやく勉強が始められるようになったので、もうちょっと待ってください」と伝えました。
その後、少しずつ体調が良くなり、勉強時間も週3日、1日3時間へ。さらに毎日勉強ができる状態にまで回復し、1日4〜5時間へと増えていきました。当時は記憶力が大幅に低下していて活字が頭に入らず、音や画像で情報を入れたほうがまだマシという状態だったので、友人に頼み、お互いに覚えたことを説明しあうスタイルで一緒に勉強しました。3カ月間、死に物狂いで勉強した結果、奇跡的に卒業試験をクリアできたのです。

──まさに奇跡ですね。

ただ、卒業試験が終わった後は倒れてしまい、2週間ほど勉強ができませんでした。医師国家試験の勉強をスタートしたのは12月に入ってからです。その頃には体調もかなり回復していましたが、それでも時間は足りませんでした。
受験後も確かな手応えはありませんでしたが、おかげさまで何とか合格することができました。この数カ月間、辛い時期に一緒に寄り添い、力になってくれた友人には本当に感謝しています。

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