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「見えなくなっていく」卒試、国試前に病を発症―病とキャリア vol.8(前編)

2020年7月2日

網膜の機能が低下し、人によっては視力を失うこともある網膜色素変性症。次第に視力が衰えていくこの病気は、福場将太先生に、医師として、一人の人間としてどう生きるかを、常に問いかける存在でした。前編では、正式な診断がくだり、症状の進行を実感しはじめた学生時代のエピソードをご紹介します。(取材日:2020年5月23日)

ポリクリの眼底検査で病が発覚

——まず、先生が罹患された網膜色素変性症という病気について教えていただけますか。

網膜の機能が徐々に低下する、進行性で遺伝することも多い病気です。幼少期に夜盲症が発現するケースが多いですね。症状の進行は人によって異なり、少し目が悪い程度で留まる人もいれば、視力を失う人もいます。 私の場合、母方の祖父が夜盲症でした。50代まで外科医をしていて、進行は遅い方だったそうです。病気の症状として視野が狭くなるのですが、中心部は見えるので、外科医の仕事を続けられたのだと思います。母も同じ病気ですが、日常生活はほぼ問題なく過ごしていました。私だけ進行が早かったようですね。

——子どもの頃から、自覚症状はあったのですか。

思い返せば、不思議だと思うことはありました。例えば、野球をしても、ボールにバットが当たらない。当時は運動神経が悪いのだと思っていましたが、視野の狭さが影響していたのかもしれません。学校行事でキャンプへ行った時、キャンプファイヤーが終わるとみんなはスタスタと歩けるのに、私だけがスムーズに歩けないこともありました。ただ、日常生活は眼鏡が必要な程度で、本は読めましたし、自転車も普通に乗っていたので、それほど不便には感じていませんでした。

——網膜色素変性症の症状が出始めたのは、いつ頃ですか。

東京医科大学に進学した後です。入学後は順調でしたが、大学5年生の時に、白内障の症状が現れはじめました。視界が白く曇り、白い紙に書かれた黒い文字が見えにくくなったのです。本も集中しないと読めなくなりました。その後、ポリクリ(臨床実習)で眼科を回った際、眼底検査の実習で私の目を見た指導医の先生が異変に気付いたのです。 そうして『網膜色素変性症』と正式に診断を受けた時、私自身は、「あ、そうなんだ」と感じる程度でした。もともと楽観的な性格であり、同じ病を持つ家族が普通に暮らす様子を小さい頃から見ていたので、大きな絶望感を抱いたり、ショックを受けたりすることはありませんでした。疾患自体、急な処置を要するものではなく、効果的な薬がないことも分かっていたので、このまま身を任せるしかない、と思いました。

国試に落ちて、ホッとした

——しかし、大学5年生というと卒業試験や医師国家試験を意識する時期です。悩みや焦りはありませんでしたか。

悩みなどに加えて、葛藤がありました。6年生になる頃には視力低下がさらに進み、10年後、20年後はどうなっているのだろう、この先どうしよう、と思いました。「医師として一生懸命頑張っても、途中で挫折して諦めることになるなら、今、別の道を選んだ方がいいのではないか」、「医師をやるなら興味がある精神科だけど、書類が読めない状態になったら、仕事は続けられないだろうな」など、いろんな思いが頭を巡りました。当然、試験に対するモチベーションは低く、周りに合わせて勉強をしているような状態でした。

卒業試験は運よくギリギリで合格できましたが、医師国家試験は不合格でした。国試が不合格だったことは残念でしたが、実はホッとした面もあったんです。これまで私は医学部に現役合格し、進級の厳しさで有名な大学でも留年することなく、卒業まで進むことができました。それが国試に落ちたことで、初めて足を止めて考える時間ができたのです。群れから離れることに安堵した、とでもいうのでしょうか──。思えば、この国試浪人生活の1年間が、人生で最も意義深く、充実した時間となりました。

——国試に落ちてからの1年間は、どのようにして過ごしましたか。

前から会いたいと思っていた法医学者の伯父を尋ねたり、日本網膜色素変性症協会の患者向け講演会へ行ったり、趣味の音楽や小説に打ち込んだりしていました。アマチュア音楽イベントに出演した時は、これまでの会ったことのないタイプの人たちと交流することができました。世の中にはいろんな人がいて、いろんな生き方がある──そのことに気付き、視野が広がるのを感じました。実際のところは、身体的な視野は狭まっていたんですけどね(笑)。

その一方で、勉強には相変わらず身が入らない状態でした。そんなある日、先輩から「考えていても目がよくなるわけじゃない。むしろ目がどんどん悪くなるんだったら、今やれることをやりなさい」と言われたのです。その言葉に、ハッとさせられました。症状の進行状態を考えても、通常形式で国試を受けられるのは次が最後。だったら全力で試験に臨み、先のことは結果が出た後に考えればいいと思えるようになったのです。 受験勉強では、マークシートを短時間で綺麗に塗る練習にも注力しました。目が悪いと、塗り間違いや記入のズレが多くなるのです。また、視野が狭いと問題文の見落としが多くなるため、ページの端を意識して読む訓練も行いました。 その結果、国試に合格することができました。その時は、医学部に入れてくれた親に恩返しができた、いい報告ができてよかったと思いましたね。(中編へ続く)

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