1. m3.comトップ
  2. キャリアデザインラボ
  3. キャリア事例
  4. 事例
  5. 医療現場で「鈍感力」が大切な理由―国境なき医師団に参加する医師たちvol.3(後編)
事例

医療現場で「鈍感力」が大切な理由―国境なき医師団に参加する医師たちvol.3(後編)

2019年4月17日

イェール大学病院での研修前に初めて国境なき医師団(MSF)に参加し、それ以降6回の海外派遣活動に参加している中嶋優子氏。2017年には日本人初の米国EMS(Emergency Medical Services 米国プレホスピタル・災害医療救急専門医)の資格を取得しています。これまでの活動を振り返り、思うことについてお話を伺いました。(取材日:2019年1月24日)

いつかこの経験が、どこかで役に立つ

――2010年からナイジェリア、パキスタン、シリア、南スーダン、イエメンなど計6回MSFの活動に参加されています。中嶋先生がMSFに参加し続ける理由を教えてください。

日常生活では出会えない患者さんや医療スタッフと接することができ、新しい経験、日本や米国にいると実感しにくい世界情勢も知ることができるからです。気づきや学びも多く、参加し続けることで自身の成長も得られます。そして何より、自分が学んできた知識や経験が還元できて、感謝してもらえることが素直に嬉しい。私にとってはいいことばかりです。普段は米国で救急医として働いていますが、11ヶ月で12ヶ月分のシフトのノルマをこなせば年に1ヶ月は海外派遣に行っていいというような、年間に決まった時間数を働けばいい契約内容なので、今後も継続的に海外派遣に参加したいと思っています。最近は理事としてこれまでとは違った観点からもMSFに関われるようになり、いろいろ学ばせてもらっています。今後とも、様々な立場からMSFへの参加を継続していきたいと思っています。

――参加し続けることで、派遣先での役割に変化は出てきましたか。

そうですね。年月とともに医師としての経験値も上がってきているので、目標設定も変わっていきます。最初は私がひたすら麻酔をかけていたのですが、今はそれだけではなく、現場監督として現地スタッフを教育したり、彼らに独り立ちしてもらいたいという思いが大きいです。最終的には現地スタッフだけに現場を任せられるようになれればベストだと思っています。
とはいえ、こればかりは情勢や国の状況が良くならないと難しいかもしれません。シリアでは、やたら医学知識に詳しい若いオペ室の助手さん達がいました。聞くと医学部の6年生で医学部のある大学が空爆でなくなり、医師になる道が中断されているとのことでした。学ぶ環境がなくなってしまった中、彼らはMSFのプロジェクトのオペの助手として手伝いをしながら現場で必死に学んでいました。イエメンでも似たような状況で、医学知識はほとんど先進国と変わらないものの、臨床が出来る環境、器材・薬剤などがないという状況下に置かれている勉強熱心な若い医師達とも働きました。日本の医学生と年齢も医学知識もそんなに変わらないはずなのに、たまたま戦時下の国で生まれたために、理不尽な環境に追いやられている――。これは医師だけに限らず一般市民もそうなのですがこのような状況が少しでも好転してほしいと思っています。

――参加を重ねたからこそ、感じることはありますか。

初めてMSFに参加したナイジェリアで、銃創の被害にあった赤ちゃんが亡くなったことがありました。当時の私は麻酔の知識しかなく、その後に米国で本格的に救急医の勉強をした現在、「あの時、今の救急医としての知識があったら、あの赤ちゃんは助かっていたかもしれない」と今でも思うことがあります。米国救急医は、専門知識の深さより、どんなことにでも対応できるような幅広い知識を身につけます。どんな病気やケガでも診られる救急医の強みは、MSFの活動で大いに役立つと思っています。だからこそ、もっと救急医としての知識と経験を積むことが大事だと思うようにもなりました。
逆にMSFでの活動で学んだことが、米国の救急現場で役立ったことがあります。例えば、ケタミンというユニークな鎮静・鎮痛効果その他諸々の効果のある薬は、MSFに参加するまで私は1度しか使ったことがありませんでした。でも、MSFの派遣先では鎮痛や鎮静をはじめ、いろんな使い方で頻繁に使われる薬なんです。最近になって米国でも注目され、米国の救急やプレホスピタル分野で、さまざまな用途で使用されるようになってきました。私はMSFで使い慣れているので、使い慣れていない米国の救急医よりは、役には立っているのかなと思います。
MSFの派遣先と米国では、診察する外傷の種類も違うし、器材や薬剤も異なります。でも、米国の現場でも、MSFの現場でも学ぶことは大いにあり、実はそういったことが繋がっていたりします。どんな経験も役立つと思いながら取り組んでいます。

大切なのは「鈍感力」

――先生自身は、2017年に日本人初の米国EMSの資格を取得されていますが、そうした知識やキャリアは、MSFの活動にも役立っていますか。

そうですね。「EMS」は病院外の医療の専門分野ですが、救急隊などのシステムに関わるプレホスピタル分野と、災害医療の分野と大きく2つに分かれます。どちらかというと災害医療の方がMSFでの活動とリンクする部分が多いです。例えば、マスカジュアリティといった大事故や災害などの準備、一斉に多数の患者が出た状況の対応、手当ての緊急度に従って優先順をつけるトリアージシステムなどがそれにあたります。MSFの派遣先でも、近くで紛争が起こった時に準備と対応をする事態がありました。私は現在、プレホスピタルとしてアトランタで約600人の救急隊員を抱え、年間搬送12万件以上の大きな救急搬送組織のMedical Directorも務めていますが、そこでのリーダーシップ、ガイドラインやプロトコルの改定、教育、システム改善の知識も、MSFの現場を指揮する役割、また理事として機能するうえでとても重要で役に立っていると思っています。

――MSFの活動を通じて、ストレスに感じることはありますか。

私自身というより、グローバルな環境で働く中で、異国の医療スタッフとのやりとりにストレスを感じている日本人は少なくないかもしれません。日本人は、他国の医療スタッフと比べると、おとなしくて礼儀正しくて、みんなに気を使う気質の人が多いように思います。一方、グローバルな環境では、自分の主張を通そうとするようなタイプが多いです。そのなかで、自分が正しいと思ったことは譲らない姿勢でいることはなかなか大変かもしれません。

――ストレスが溜まらないように、中嶋先生が心がけていることがあれば教えてください。

MSFで活動するにあたり、一番大事なのは「鈍感力」だと思っています。初回の派遣で出会った日本人外科医の日並先生からアドバイスをいただいた言葉に、MSFで活動する上で「鈍感力が大事」というものがありました。現場では、普段と全然違う、限られた環境の中で異国のスタッフと一緒に仕事をしていかなければいけません。細かいことで落ち込んだり、心配しすぎたり、神経質になっていては、自分に疲弊してしまいます。私自身はもともと大雑把な性格でしたが、この言葉でますます鈍感力を身につけてしまいました。この鈍感力にだいぶ助けられた部分があると思っています。周りの状況は変えられないけど、自分の捉え方や考え方を変えれば気持ちも楽になる。育ちも働く環境も違う人々とは、価値観が違って当たり前。よっぽどひどくなければいいや、と思える鈍感力があれば、ストレスを溜めずにどこでも働くことができるのではないでしょうか。

私は、普段は適当ですが、ここだけは譲れない主張すべきことはしっかり主張するように心がけています。ただ、難しいところもあります。今もコミュニケーションテクニックについては海外派遣先でも、米国でも日本でも日々修業をしている最中と感じています。MSFの活動は大変なこともありますが、ほとんどの場合はストレスフルな状況ではありません。さまざまな活動を通じて、いろいろな国の異文化の人々と知り合ったり仲良くなったりするのは本当に楽しいです。

何歳からでも挑戦できる

――活動中の交流について、具体的に教えていただけますか。

スタッフと一緒に現地の家庭料理を食べられるのが嬉しかったです。時に自分たちで作ることもあって、フランス人のスタッフはクレープを焼いてくれたり、私は日本風のカレーライスを振舞って意外と好評でした。イエメンでは現地スタッフの宿舎で床の上に置かれたビニールシートにおかずがたくさん並ぶような食事に混ぜてもらったり、結婚式にも参加させてもらったりして日本ではできない体験ができて楽しかったです。

シリアに派遣された時、7歳と3歳の兄弟が2人だけで病院にやってきたことがありました。付き添いの大人がいなくてびっくりしたのですが、弟の鼻の穴にはまったビー玉を取って欲しいとのことでした。お兄ちゃんに「どうしてここを知っているの?」と聞いたら、「みんな、ここに来れば治してくれるって知っているよ」と言われたのです。こんな小さな子供にまで、この病院の存在と、「ここに行けばなんとかしてもらえる」という認識が口コミで広がっていることに驚きましたし、嬉しかったです。ビー玉は無事に除去されて、仲良く2人で手をつないで帰って行く姿が微笑ましかったです。

――最後に、MSFへの参加を迷っている人にメッセージをお願いします。

日本人医師はMSFの現場で、より活躍しやすいと思います。日本の救急はさまざまな専門科を寄せ集めた科という歴史的な名残もあり、日本人救急医は他に専門科を持っている救急医が多いと思います。米国では専門がかなり細分化されていて、米国の救急医が他の専門科を持っていることは少ないです。例えば、救急医は常に放射線科医が読影してくれるので画像を全く読まなくてもいい状況になってきています。外傷なども外傷チームが常時待機しています。日本人のように他の専門がある救急医、麻酔もできる救急医、麻酔もできる外科医――という専門の境界がファジーで、マルチに活躍できる医師は海外には少ないと感じています。

「人生は短い」「社会貢献」「やりがい」「インターナショナル」というキーワードに1つでもピンときているなら、ぜひ挑戦してほしいです。迷っている方の中には、チャレンジする時期を悩んでいる方も多いです。私もやるなら若いうちと思っていましたが、南スーダンで一緒に働いたベテラン麻酔科医と産婦人科医のうち1人は73歳、1人は65歳でファーストミッションだと話していました。助産師の方も60代くらいでしたが、何回もMSFの海外派遣に参加しているとのことでした。若い時はもちろん、偉くなって病院の最前線で働かなくなってからでも、子育てが一段落した後でも、定年してからでもMSFの海外派遣に行けるんだなと再認識しました。いくつになってもチャレンジできるのが、MSFの魅力だとも考えています。最近、MSFや米国で医師として働くことに興味がある学生からも相談を受けますが、真面目で細かなことを気にしているがゆえに、なかなかその一歩が踏み出せないように見えます。失敗を恐れず、まずやってみる方が、後悔が少ない人生になると思うので、思い切って飛び込んでほしいですね。どういう結果になるにせよ、新しい経験、可能性がそこにあると思います。

中嶋優子
なかじま ゆうこ
医師団日本副会長(取材時)

東京都出身。麻酔科医・救急医。沖縄米国海軍病院、浦添総合病院麻酔科・救急総合診療部、都立墨東病院麻酔科などを経て、USMLE(米国医師国家試験)合格。米国Yale大学病院Emergency Medicine Residency、UCサンディエゴ プレホスピタル・災害医療フェロー、クリニカルリサーチフェローを経て2017年からEmory University Department of Emergency Medicine Assistant Professor。同年日本人初の米国EMS専門医を取得。Metro Atlanta Ambulance Service Medical Directorも兼任。MSFは2009年に登録、2010年より海外派遣活動に参加。ナイジェリア、パキスタン、シリア、南スーダン、イエメンなど現時点で6回参加。2017年に国境なき医師団日本理事に就任。2019年より国境なき医師団日本副会長。

【国境なき医師団について】
国境なき医師団(Médecins Sans Frontières 略称MSF)は、紛争や自然災害、貧困などによって命の危機に瀕している人びとに医療を提供する、非営利で民間の医療・人道援助団体。「独立・中立・公平」を原則とし、人種や政治、宗教にかかわらず援助を提供、医師や看護師をはじめとする海外派遣スタッフと現地スタッフの合計約4万5000人が、世界約70以上の国と地域で援助活動を行っています。1971年にフランスで医師とジャーナリストによって設立され、世界29ヵ国に事務局をもつ国際的な組織で、活動資金の95%以上は個人を中心とする民間からの寄付金に支えられています。
1999年にはノーベル平和賞を受賞。MSF日本は1992年に設立され、2017年には117人のスタッフを、のべ169回、29の国に派遣。現在も、活動に協力してくれる日本人医師を求めています。

従来の価値観に とらわれない働き方をしたい先生へ

先生の「やりたい」を叶えるためには、従来の働き方のままでは難しいとお悩みではありませんか。

  • 医師業と、自分のやりたいことを兼業したい
  • 病院・クリニック以外で医師免許を生かして働きたい

もし上記のようなお考えをお持ちでしたら、エムスリーキャリアのコンサルタントにご相談ください。

エムスリーキャリアは全国10,000以上の医療機関と提携して、多数の求人をお預かりしているほか、コンサルタントの条件交渉によって求人を作り出すことが可能です。

この記事の関連記事

  • 事例

    不公平?2児の女性医師が抱える家庭事情

    最近では当たり前になりつつある、夫婦共働き。千葉大学病院脳神経内科准教授の三澤園子先生は出産のタイミングに悩み、34歳、40歳で2児を出産。今も仕事と家庭の両立方法を探り続けています。後編では出産・育児にまつわるエピソードと、共働き夫婦でキャリアアップするための秘訣を聞きました。

  • 事例

    准教授のママ医が、常勤にこだわる理由

    最近では当たり前になりつつある、夫婦共働き。特に医師は、仕事の頑張り時と出産・育児の時期が重なりがちです。医師23年目の三澤園子先生は、仕事と家庭の両立に悩みながらもフルタイム勤務を続け、現在は千葉大学病院脳神経内科の准教授と2児の母、2つの顔を持ちます。前編では、三澤先生のキャリアについて伺いました。

  • 事例

    院長のラブコール「帰ってこい」Uターン医師の新たな挑戦―光田栄子氏

    お看取りのあり方に課題を感じ、介護士から医師に転身した光田栄子先生。諏訪中央病院を経て、現在、岡山市内のベッドタウンにある有床診療所「かとう内科並木通り診療所」に勤めています。地元にUターンした光田先生がこれから取り組んでいきたいことについて、お話を伺いました。

  • 事例

    「診療科の隙間を埋める」院長の挑戦とは―中山明子氏

    大津ファミリークリニック(滋賀県大津市)院長の中山明子先生。外来、訪問診療をしながら、家庭医として、相談先を見つけにくい思春期の子どもや女性のケアに力を入れています。

  • 事例

    日本の当たり前を再考する渡航医学の視点

    さまざまな診療領域の中でも、コロナ禍で大きな影響を受けている「渡航医学」。中野貴司氏は日本渡航医学会の理事長を務めつつ、川崎医科大学の小児科教授、病院の小児科部長としても働いています。改めてこれまでのキャリアを振り返りながら、「渡航医学」の視点がキャリアにもたらすプラスの要素を聞きました。

  • 事例

    コロナで大打撃「渡航医学」の今

    新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって、大きな影響を受けているのが「渡航外来」や「トラベルクリニック」です。各国への出入国が従来よりも難しくなっている今、渡航医学(トラベルメディスン)の現状と未来を、日本渡航医学会理事長の中野貴司氏に聞きました。

  • 事例

    「自分が理想とする糖尿病診療を追い求めて」開業へ

    小児糖尿病の宣告を受けるも、「糖尿病だってなんでもできる」という医師の言葉をお守りに自らも医師を志すことを決意した南昌江内科クリニック(福岡市)の院長、南昌江先生。現在の糖尿病専門科医院を経営するようになった軌跡を伺います。

  • 事例

    小児糖尿病にならなければ、医師の私はいない

    福岡市にある糖尿病専門科医院、南昌江内科クリニックの院長・南昌江先生は、ご自身が中学2年生の際に小児糖尿病を宣告された身の上です。病気を発症した前編に続き、今回は医療への水差し案内人となった医師との出逢いや転機となった出来事について伺います。

  • 事例

    14歳で1型糖尿病「前向きに考えて生きなさい」

    14歳の夏、”小児糖尿病”の宣告を受けた南昌江先生。その数年後、両親や主治医、同じ病気の仲間たちに支えられ医学部受験、医師になるという夢を果たしました。前編では、病の発症、闘病生活について伺います。

  • 事例

    医学生から育児を両立して約10年… 支えとなった言葉

    二人のお子さんが就学し、育児から少し手が離れてきた林安奈先生。現在は、クリニックや大学病院での診療のほか、産業医業務にも注力されています。今日に至るまで、さまざまな壁を乗り越えてきた林先生の支えとなったのは家族の存在、そして、ある医師に言われた言葉でした。

  • 人気記事ランキング

    この記事を見た方におすすめの求人

    常勤求人をもっと見る