高校時代から、「国境なき医師団(MSF)で働く医師になりたい」という思いを抱いていた中嶋優子氏。紆余曲折を経て卒後8年目でUSMLE(United States Medical Licensing Examination 米国医師国家試験)を取得。2017年には、日本人初のEMS(Emergency Medical Services 米国プレホスピタル・災害医療救急専門医)を取得しました。さまざまな分野でキャリアを積み、現在は米国で救急専門医として働きながらMSF理事を務める中嶋氏のキャリアの変遷に迫ります。(取材日:2019年1月24日)
MSFで働く医師になりたい
――国境なき医師団(MSF)に参加しようと思ったきっかけを教えてください。
私は11歳まで米国で育った帰国子女なので、小学生の頃から漠然と英語を生かした仕事に就きたいと思っていました。高校2年生で進路を決めるとき、生物が好きだった私はなんとなく「生物学部かな」と思いながら大学案内を眺めていました。生物の中でも人間の病態生理が面白いと思っていたので、『医学部』という文字を見て、これだ!と思ったんです。同時期に、テレビCMでMSFの活動を目にして、ますます医学部に行ってMSFの医師になりたいと思うようになりました。高校時代は、放課後は遊んだりバイトしたり、部活も掛け持ちしたりで成績は決して良くなく、数学も5段階中2でした。担任にも「医学部なんて絶っ対無理」と言われましたが、1浪して何とか医学部に入学できました。
――そこからはMSFの医師になることを目標に、キャリアを考えられたのでしょうか。
大学の入学式でテレビインタビューされた時は「国境なき医師団で働きたいです!」と公言した私ですが、医学部時代は医師として他の選択肢もたくさんあることを知りました。また、自分は虫が大の苦手ということも再認識し、実はMSFの医師になるという夢からは少し遠のいていたんです。しかし、英語を活かした分野に進んで、米国で進んでいるものを学んで日本に帰って来るという軸は変わりませんでした。そこで初期研修先は、アメリカ留学の登竜門である沖縄米国海軍病院を選び、まず1年間そこで米国の臨床を経験することを決意。しかし、ここでアイスホッケーや遊びに没頭してしまいUSMLEの勉強もせずになんとなく1年が過ぎてしまいました。2年目はアイスホッケーと検診医を中心に取り組み、3年目には「米国で何か学んで、日本に知識と経験を持って帰れるのは移植医療かな?」と思い、東大病院の胸部外科に入局しました。しかし、いろいろと合わずに入局1ヶ月後に教授に退職を申し出ると、「史上最短だよ、君!…3ヶ月はやりなさいよ」と言われ、その2ヶ月後に退局。もちろん次の就職先は決まっておらず、しばらくはアイスホッケーをしながらアルバイトをする生活を送っていました。そんな時、アルバイト斡旋会社から、「浦添総合病院が救急総合診療部を開設するために若手医師を募集している」と声をかけられ、特に予定もなかったので浦添総合病院に入職。救急総合診療部が設立されるまで1年間あったので、それまでは同院の麻酔科で研修させていただきました。救急総合診療部開設後は、救急総合診療部と麻酔科を掛け持ちしていました。
――米国行きを決めた理由とは。
浦添総合病院の救急総合診療部は仲間にも恵まれ、初代ドクターヘリメンバーにもなることができ、とても楽しかったのですが、いまいち自分の救急の診療能力に自信がありませんでした。救急のトレーニングを積むにはどこが良いのだろうと考えた時に、これこそ米国で修行して日本に持って帰れるのでは、と閃いたのです。当時、沖縄米国海軍病院の卒業生が臨床留学をし始めていたりしたし、私も頑張れば行けるのではないか、と思いました。そこでまずはUSMLEという米国の医師国家試験合格を目指しました。浦添総合病院を経て都立墨東病院でも麻酔科医として働きながら勉強しようとしたのですが、なかなか両立が難しくて――。常勤医を辞めてアルバイトとして働くようになり、米国で勉強をしながらアイスホッケーやウエイトレス、弁当屋のアルバイトをしたり、日本に出稼ぎに帰ったり、ふらふらした浪人生のような生活を楽しみながら、数年かけてUSMLEを取得しました。
イェール大学病院での研修前にMSF初参加
――渡米の前に、MSFに初めて参加した背景を教えてください。
2010年3月にマッチし、6月から米国のイェール大学病院で救急レジデント(救急専修医)として働くことが決まったのですが、渡米前に少し時間もあり、麻酔科医として独り立ちしていたので、2009年から登録していたMSFの海外派遣に挑戦しようと思いました。
初めての海外派遣は、2010年4月から1カ月間派遣されたナイジェリアでした。事前準備としては日本でMSFの派遣前研修を受け、前任者にメールのやり取りで現地の様子を聞いて情報共有をしてもらいました。特に大きな不安はなく、ワクワクする気持ちが大きかったです。
――現地に飛んで印象と違ったことはありますか。
テントで寝泊まりするような過酷な状況を想像していましたが、実際は一軒家を各国の派遣医師たちとシェアする生活を送っていました。きちんと自分の部屋があり、何よりも食事や洗濯はすべて現地のスタッフがお世話してくださったことに驚いたものです。仕事に集中出来るようにとのことらしいのですが、確かに日本や米国にいるより医療現場に集中できる状態でしたし、ご飯は現地の料理も食べられたので、特に大きな不満はありませんでした。
もちろん、派遣先によって住環境は変わります。2013年や2018年に行ったシリアでの住居は、MSFが借りた一軒家で2〜3人の相部屋で、トイレやシャワーは共同でした。南スーダンに派遣された時は、トゥクルという小屋を1人一部屋ずつあてられて、共同シャワーは水だけ、トイレはぼっとん便所でした。きちんと掃除されていたので汚くはなかったですが、虫が怖くてトイレに行くのを極力我慢していました。
病院に麻酔器がない そんな時に……
――1日のスケジュールについて教えてください。
これも派遣先によって異なりますが、外科系のミッションは1カ月と短期間なので、比較的ハードなスケジュールになっています。例えばシリアに派遣された時は、24時間年中無休のオンコールで、オペは1日平均6~7件ぐらい。その間に入ってくる緊急手術が1~3件程でした。重症熱傷の処置や、虫垂炎、開放骨折などの治療が多く、緊急帝王切開が入ってくることもありました。朝8時ぐらいから勤務を開始し、回診の後、17時ぐらいまでオペします。ナイジェリアでは毎日22時過ぎまで予定手術と随時緊急オペをやっていました。体力的には、1カ月前後だったらなんとか乗り切れるといったスケジュールだと思います。
――現場では、日本や米国で治療している時に使う道具も異なると思います。日常と違う状況で自分なりに創意工夫、対応されたこととは?
シリアへの派遣時は、新規の緊急医療活動のプロジェクトで、セキュリティ上の理由で派遣地の詳細が事前に知らされなかったため、麻酔内容や器材、薬品の情報を得ないまま向かいました。案の定というか、病院には麻酔器がなく、用意されていたのは吹き流しのガス麻酔気化器とポータブルの簡易型人工呼吸器のみ。そこで、静脈麻酔、吹き流しのガス麻酔器の手動換気で全身麻酔のオペを乗り切ったりしました。機材も麻酔薬も限られている中で自分の経験や知識を生かし、頭をフル回転させながら工夫したことが上手くいくと、大きなやりがいを感じるとともに、自信にもなります。また、創傷処置のたびに理学療法士がオペ室に入り、麻酔のかかった患者の瘢痕拘縮を防ぐために一生懸命関節を動かしていたことが素晴らしいアイデアだと感心しました。MSFでは、他のスタッフから学ぶことがとても多いと感じています。(後編に続く)
国境なき医師団(Médecins Sans Frontières 略称MSF)は、紛争や自然災害、貧困などによって命の危機に瀕している人びとに医療を提供する、非営利で民間の医療・人道援助団体。「独立・中立・公平」を原則とし、人種や政治、宗教にかかわらず援助を提供、医師や看護師をはじめとする海外派遣スタッフと現地スタッフの合計約4万5000人が、世界約70以上の国と地域で援助活動を行っています。1971年にフランスで医師とジャーナリストによって設立され、世界29ヵ国に事務局をもつ国際的な組織で、活動資金の95%以上は個人を中心とする民間からの寄付金に支えられています。
1999年にはノーベル平和賞を受賞。MSF日本は1992年に設立され、2017年には117人のスタッフを、のべ169回、29の国に派遣。現在も、活動に協力してくれる日本人医師を求めています。
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