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「アフガンで兵士になるか、日本で医師になるか」極限の選択──私が日本で医師をする理由vol.4・前編

2019年10月30日

静岡県島田市でレシャード医院を開業されているレシャード・カレッド先生。留学生としてアフガニスタンから来日し、今年でちょうど50年になります。レシャード先生が日本を留学先に選んだ理由から、医師国家試験取得時の苦労、そしてこれまでの医師としての活動についてお話を伺いました。(取材日:2019年8月26日)

文部省の国費留学生として来日

──レシャード先生が日本にいらっしゃった理由を教えてください。

当時、私はカブール大学医学部の学生でした。医学部に入ると海外留学など、いろいろな話が巡ってきます。フランスの大学へ留学を勧められましたが、私は日本で学びたいという気持ちがあったので、日本の文部省(当時)が募集していた国費留学生に応募したのです。試験に合格し、1969年に来日しました。
 日本を選んだ理由は2つあります。1つは、日本が戦後、急速に復興を成し遂げたこと。私は中学生の頃から日本に興味を持っており、当時、いろいろな書物を読んで日本のことを勉強していました。その中で第二次世界大戦後の復興について知り、とても驚き感動したんです。1945年に日本は敗戦国となりましたが、その後、高度成長期を迎え、1964年の東京オリンピック開催も大成功させた。「こんなに短期間で復興を遂げた日本人はすごい」と思い、日本のことをもっと知りたい気持ちが強くなったのです。

もう1つは、日本の結核治療です。当時、日本の医療や医学はそこまで先進的というわけではありませんでした。しかし、かつて日本人の死亡原因1位だった結核が、終戦後1940年代末~1950年代にかけて急激に減少したことに興味を持ったのです。私は呼吸器科の医師を目指していたので、ぜひ日本の結核治療・予防について学んでみたいと考えました。

──実際に来日されて、いかがでしたか?

日本に来たのはまだ10代のときでしたし、いろいろな不安がありました。言葉もわからない、初めて訪れる国でちゃんとやって行けるのか? 医師になれるのか? と……。アフガニスタンは山岳地帯が大部分を占めており、乾燥していて海がありません。一方、日本は多湿な島国で海に囲まれています。環境が大きく異なるため、食べもののことなど、生活面でも不安だらけでした。また、当時の日本人は外国人に慣れていなかったのでしょう。知識や情報が乏しかったので仕方ないと思いますが、珍しがられることが多かったですね。

日本語を覚えるのはとても大変でした。当初、留学生用の寮に住んでいたのですが、周囲に留学生しかいない状況では日本語をしゃべる機会がほとんどありません。日本語をしっかり身に着け、日本の文化・習慣を理解したいのにこれではムリだと思い、なるべくたくさん日本語が使えるよう日本人の家庭に下宿させてもらおうと考えました。ところがあちこち探してみたものの、外国人を下宿させてくれる家は全く見つかりませんでした。

そこで、アルバイトをして貯めたお金で、「下宿先を探している」という内容の新聞広告を出してみたら、やっと1件、下宿させてくれる家が見つかりました。とても親切なお年寄り2人が住む家で日本語を教えてもらいながら、日本での生活習慣も覚えました。

医師になるきっかけは幼少期のある出来事

──そもそも、レシャード先生が医師になろうと思った理由は何だったのでしょうか?

子どもの頃の経験がきっかけです。私が小学校3年生の時、可愛がってくれていた近所のおじさんが結核になり、せき込んだり、血を吐いたりして寝込んでしまいました。その時、伏せっていたおじさんに寄り添いながらずっと励まし、家族に対してもいろいろな話をしてくれた医師の姿に感銘を受けたんです。そのおじさんは結局亡くなってしまったのですが、弱りながらも、その医師がきて励まされると元気を取り戻していた。子どもながらに、医師は医療の技術とか薬の効果だけでなく、信頼関係・心のつながりで人に安らぎや元気を与えることのできる仕事なんだと感じました。私もいつか、患者さんに寄り添える医師になりたい。そう思い、呼吸器の医師になろうと決めたのです。

 10代で日本に来てから、まずは千葉大留学生部で日本のことや日本語を学びました。それから京都大学医学部に編入・卒業し、医師国家試験を受験。難しい医学用語がたくさん出てくるので、勉強はとても大変で3回目の国家試験でようやく合格しました。

学生時代に日本人の妻と結婚し子どももいたので、当初は日本で医師国家試験に合格したら、家族と共に祖国に戻るつもりでした。ところが、1979年に旧ソ連軍がアフガニスタンへ侵攻し、政情は混乱に陥りました。撤退までの10年間に、国民の10分の1にあたる150万人が死亡、約600万人が難民となりました。私も家族と音信不通になり、やっと消息がつかめた妹は難民キャンプにいた。私自身、帰国すれば軍に入らなければならなない、という状況でした。それで祖国には戻らず、日本で医師となることを決意したんです。もちろん歯がゆさはありましたが、日本で経験を積み、いずれ祖国に医療で貢献をしようとその時誓いました。

──これまでの医師としての活動について教えてください。

京都大学を卒業後に関西の病院で研修し、それから医局の派遣で静岡県島田市の島田市民病院に赴任することになりました。7年間を島田市で過ごす間に、日本に帰化しました。

その後、1989年にJICA(国際協力機構)の依頼によって「イエメン結核対策プロジェクト」のチームリーダーとして約2年間、家族と共にイエメンに赴任しました。予防や治療のための資金集めから実際の診療に至るまで、たくさんのことを自分で行いました。結果、イエメンの結核治療成績は中東でトップとなり現在もキープしています。

イエメンから帰国後は島根県松江赤十字病院にできたばかりの呼吸器科に勤務していたのですが、その後、ある出来事から再び島田市に戻って開業する運びとなりました。1993年のことです。

島田市の人々が、バスで松江までやって来た!

──再び島田市に戻ろうと決意された経緯を教えてください

松江赤十字病院に赴任して約2年が経ち、呼吸器科が軌道に乗り始めた頃、島田市の人々がバスを連ねて松江にやってきたんですよ。バスといっても温泉旅行ではなく、「レシャード先生、島田に戻ってきてください」というお願いのためにわざわざ静岡から島根まで会いに来てくれたんですから、びっくりしましたね。

私自身、島田という場所がとても気に入っています。住みやすいということもありますが、島田の人々から信頼してもらっている、慕ってもらっているという実感が何よりありがたいです。熱い要望を受け、島田で開業することにしたのです。あえて開業を選択したのは、私に「戻ってきてほしい」というのは、きっと身近に相談できる医師としていてほしい、ということだと思ったからです。開業資金を集めるのは大変でしたが、地元の信用金庫が協力をしてくれて何とか開業にこぎつけ、今に至ります。開業して、かれこれ26年がたちました。

1993年に島田市内で開業。現在のレシャード医院がこちら

留学生として来日した当時は右も左もわかりませんでしたし、外国人医師というと驚かれることが多かった。しかし、日本で医師として活動を続け、長い間生活をしてなじんでくると、周囲の日本人ともとても良い関係が築けるようになりました。今は日本での生活が当たり前になっています。これからもこの土地の人々の生活を支えられるよう、注力していきたいです。

後編ではレシャード先生の日本と海外での現在の医療活動についてお話を伺います。

レシャード・カレッド

1950年 アフガニスタン・カンダハールに生まれる
1969年 国費留学生として来日 
1976年 京都大学医学部卒業
1982年 島田市民病院 呼吸器科医長
1984年 京都大学医学博士号取得
1991年 松江赤十字病院 呼吸器科部長
1993年 「レシャード医院」開設 医院長
1999年 老人保健施設「アポロン」設立 理事長
2002年 アフガニスタン復興支援NGO「カレーズの会」設立 理事長
2003年 社会福祉法人「島田福祉の杜」設立 理事長
2004年 京都大学医学部臨床教授就任
2008年 島田市医師会長
2011年 老人保健施設「アポロン伊太」設立 理事長
2012年 医師会長任期満了につき退任

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