「息子は当時まだ5歳。正直、“日本に行きたい”と思っていたわけではありませんでした」
東大和病院消化器内科・緩和医療科で、がん患者の緩和ケアに注力するバレンティナ・オスタペンコ先生はこう振り返ります。日ソ共同がん研究のため、ウクライナに家族を残し25年前に日本へ。半年間だけの滞在のつもりが、「いつのまにか日本人らしくなっていました。もう日本でお墓も買いましたよ」と笑うバレンティナ先生。日本で働くという選択肢に先生を導いたものとは何だったのか、伺いました。(取材日:2018年10月23日)
海外でキャリアを築きたいわけじゃなかった
──来日のきっかけについてお聞かせください。
最初から海外でキャリアを積みたいと思っていたわけではないんです。“運命”と言うと大げさですが、私が自分から何かをしようとしたというよりは、その時その時で必要としてくださる方がいて、いつのまにか今ここに辿りついているという感覚ですね。
当時、私は旧ソ連の国立がんセンター大学院で学んでいました。シングルマザーだったので、息子はウクライナにいる両親に預けて単身赴任です。ウクライナとロシアは政治的に緊張状態が続いていますが、医療の世界に国境はありませんでした。
そこで出席したハイパーサーミア(※)の国際学会で、関西医科大学の田中敬正教授から「正常組織の防御に関する放射線治療の研究を一緒にやりませんか」と誘われたんです。放射線医学博士号を取得した翌年、1993年に訪日しました。息子はウクライナに残していくしかないし、日本語もわからないけれど、「半年だけだから」と当時は思っていました。
(※がん温熱療法。電磁波でがん細胞だけを選択的に加熱し破壊する、身体に負担の少ない治療法)
──来日してから、特に苦労したことはありますか。
生活面でいうと、あまりの物価の違いに最初は衝撃を受けました。日本はバブル期でしたから、よりギャップが大きかったのかもしれません。当時ウクライナでの月収は日本円に換算すると約1000円。来日して、スリッパを買いに行ったら600円もするんです。あのスリッパのことは、今でもよく覚えています。
あと、やはり言葉のハードルは高かったですね。当時は、母国語はもちろん英語もなかなか通じず、疎外感を感じました。日本語がわからなくて失敗するのは日常茶飯事。洋服屋さんで服を選んでいたら、実はそこはクリーニング店だったなんてこともありました(笑)。携帯やスマホもなかったから、英和辞典を持ち歩く生活です。まだ28歳で、研究室でも常に緊張していた。寂しい気持ちを、ウクライナの母や息子と電話で話して紛らわせていました。節約生活でしたが、電話代だけは気にならなかったですね。
──孤独感をどうやって乗り越えたのですか。
英語を話せる友達をつくればよかったのかもしれないけれど、私は何かを練習したいから友達になるのではなくて、心の感覚や価値観が似ているかどうか、“その人自身”を知って友達になりたい。だから、私にとって日本語を学ぶことはマストでした。大変なこともありましたが、大阪の商店街を歩きながらいろんな人に話しかけたりして、結構楽しかったですね。幸い、友達は沢山できました。おかげで関西弁も習得しましたよ(笑)。
それに、診療の面では、苦労よりやりがいが上回っていました。日本は、誰でも化学療法などを受けることができる保険制度が整っています。ウクライナは、化学療法も抗がん剤もすべて患者さんの自費負担でした。親戚が家を売って医療費を工面することもあり、医師としてつらいものがありました。
渡米が決まっていながら、日本に残った理由
──当初半年の予定が、いまや来日25年目に突入したわけですが、日本に留まった理由を教えてください。
周りに自分を必要としてくれる人がいて、それに応えたかったというのが一番の理由ですね。そもそも滞在が延びた理由は、単純に半年では研究の成果を論文にまとめられなかったからです。しかし、息子をいつまでも母に任せきりというわけにもいきません。日本にきて1年が経った頃、こちらに呼んで一緒に暮らし始めたので、もう期限を気にする必要もなくなりました。
当時、私は関西医科大学に在籍し、がん治療の増感方法についての研究を続ける一方で、医療機器の会社でも通訳やハイパーサーミアの研究などに携わっていました。その仕事を通じて、たまたまアメリカのワシントンがんセンターの先生と知り合い、渡米して共同研究する話が決まりかけたのです。来日して6年目のことでした。
──日本を離れる予定だったのですね。その後何があったのでしょうか。
ハイパーサーミアの説明に訪れた大阪のある病院で、一人の乳がん患者と出会いました。
私のことをとても信頼してくださったその患者さんの、「先生、私の治療をしてください」という言葉にはっとしました。その病院の院長先生からも「私たちと一緒に働きませんか」と誘っていただき、私の居場所はやっぱり日本なんだ、と気がついたんです。
それから12年間、40床の民間病院でハイパーサーミアの臨床と緩和ケアに携わりました。多くの患者さんと接することのできる臨床中心の生活に充実感を覚える一方、日本の医師免許がないことへのもどかしさが募っていきました。医師国家試験の受験を決意してからは、仕事の後に毎日必死で勉強しました。今思い出しても本当に苦しい日々でした。でも、なんとか乗り越えて2011年、45歳の時に無事合格しました。
諦めたこともあるけれど、心の火はまだ消えない
──お話を聞いて、相当なご苦労があったのではと感じました。逆境をはねのけ、様々な挑戦を続ける原動力はなんでしょうか。
大切なのは“自分の限界を知ること”だと思います。私自身、決して何もかも乗り越えてきたわけではありません。もちろん、目的のために戦ってきたつもりですが、「戦えない」と自分に諦めをつけることだってありました。
たとえば、専門医取得もそのひとつです。専門医試験はテキストが多くて、私の日本語を読むスピードではとても追いつけません。チャレンジしたいという思いはありましたが、大切な仕事があって、自分の家族や生活もある中で、若いころのように勉強だけに集中して取り組むというのは物理的にも精神的にも難しかったのです。医師免許取得時も大変でしたが、今同じように勉強しようとすれば、あの時の6倍くらいの力が必要です。6倍という数字に根拠はないですけど(笑)。
それに、母親としても100点満点だったとは言えません。息子は当時6歳で、日本語もわからないまま来日したので、とても大変だったと思います。私は仕事が忙しかったのもあって、子育てを後回しにしがちでしたし…。でもそんな息子も大人になって、今年結婚しました。本当に素敵なお嫁さんがきてくれて。それに、母もそばで暮らしたいと3年前に来日しました。今まで親孝行らしいことができなかったので、これからの生活はなるべく一緒に過ごしたいと思います。母は緩和を語る会にも参加して、手作りのウクライナの伝統菓子を振舞ったりしているんですよ。家族も増えましたし、もうお墓も買いました。日本が私の終の棲家になるでしょう。
──チャレンジの陰で、諦めたこともあったんですね。それでも、先生は大変いきいきと医師の仕事に取り組まれているように感じます。
自分はそんなに才能豊かな人間でないと思っています。だから、できる人と同じようにするためには、それだけ努力が必要です。自分の限界が把握できていれば、努力したらここまでやれる、というのが見えてきます。日本の医師免許取得は、まさに限界へのチャレンジでした。人間、頑張ればすごい力を発揮するんだなと実感しましたね。
一方で、最近では努力を続ける困難さも感じます。「継続は力なり」とよく言いますが、継続するって本当に大変なことなんですよね。医師になると決めて、努力して実現できた。でも、パソコンは新しいソフトが出たらまた学びなおさないといけないように、医療も常に学び続け、アップデートする必要がある。年齢を重ねる中で、やっぱり大変だなと感じることはあります。
でも、体力や集中力は衰えても、心は衰えない。必要としてくれる患者さんがいる限り、私の“心の火”は絶えません。この情熱を糧に、これからもライフワークとして緩和ケアに取り組んでいきたいと思っています。
(後編はこちら)
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