キャリア事例
自分らしく働く医師のキャリア事例をご紹介します。-
事例
不治の病を抱えながら、クリニックの院長へ
40代でパーキンソン病を発症し、50歳で医師として働くことを辞めた橋爪鈴男先生。後編では、再び医療の世界に戻った時のエピソードと、病を抱えるようになって変化したことを語っていただきました。(取材日:2020年2月20日 ※インタビューは、資料や文書による回答も交えた形式で実施しました)
-
事例
「もう死にたい」動けない医師が光を見出すまで
皮膚科医として、順調なキャリアを築いてきた橋爪鈴男先生。しかし、40代でパーキンソン病を発症した後、大学病院を辞すことを決意します。中編では、絶望を救った一つの言葉と仲間の支え、そして新たな治療を経て見つけた生き甲斐についてお話をうかがいました。
-
事例
40代でパーキンソン病「医師を続けられない」
順風満帆な生活から一転、晴天の霹靂のごとく襲いかかった難病──。橋爪鈴男先生は、40代でパーキンソン病を発症し、大学病院の助教授(当時)の職を辞すことを決意します。身体機能が衰えていく自分の姿に苦悩し、自殺を考えたこともあったそうです。しかし、生きる意味を見出し、再び医師として復帰するに至りました。前編では、突然の発症から大学病院の辞職を決意するまでのエピソードをお聞きしました。
-
事例
エンジニア、研究者を経て“ゴール志向じゃない自分“を肯定
医学部を卒業後、ゲノム研究者とエンジニアを両立する日々を送っていた鈴木晋氏。「臨床がわからないと研究も深まらない」と考え、スキップしていた初期臨床研修を受けようと決意しました。その後、大学院でのプログラミングを用いた医学研究を経て、「治療アプリ」を研究・開発する株式会社CureAppの創業メンバーに。現在は、臨床を続けながら、同社の最高開発責任者(CDO)として開発全般を指揮しています。実は少し前まで、“ゴール志向”でない自身のキャリア観を肯定できずにいたとか。CDOとして働く現在は、どのように捉えているのでしょうか。
-
事例
保険適用アプリ開発までに模索した、医師兼エンジニアの道
病気を治療するアプリ”の保険適用に向け、日本で治験が進められていることをご存知ですか?「治療アプリ」の研究開発を行う株式会社CureAppで、最高開発責任者(CDO)としてアプリ開発を牽引するのは、現在も臨床を続ける医師であり、エンジニアでもある鈴木晋氏です。独学でプログラミングを始めたのは、医学部在学中。その後、エンジニアとしての腕を磨きつつ、ゲノム研究者としての道を歩み始めました。鈴木氏はそのユニークなキャリアをどのように模索し、治療アプリの開発にたどり着いたのでしょうか?
-
事例
南海トラフ巨大地震に備えて、医師にできること ―森本真之助氏
森本氏は専門医取得を目指すことに加え、「災害に強いまちづくり」の活動をさらに広げています。診療にとどまらず、地域の大きな課題に取り組む森本氏に、これまでのキャリアと活動を伺いました。
-
事例
熊本で遠隔画像診断サービス立ち上げ いま人材育成に力を入れる理由とは―中山善晴氏
「起業のきっかけは言い訳でした」。そう語るのは、放射線診断医であり、熊本県で遠隔画像診断サービスを手がける中山善晴(なかやま・よしはる)氏。地元・熊本県で勤務する中、医師不足ゆえの地域課題に一石を投じたいという想いをサービス化し、今では約90施設に提供するまでに至っています。しかし、こうした大志とは裏腹に、起業に踏み出したきっかけ自体は個人的な事情からだったとか。中山氏に、これまでのキャリアと取り組みを伺いました。
-
事例
時短勤務を考える男性医師に伝えたいこと―パパ医師の時短勤務(2)
妻の後期研修を機に、2015年から3年間、短時間勤務を経験した亀田ファミリークリニック館山の岩間秀幸先生。育児や家事の責任を担ったことで、医師としての視野や想像力が広がったといいます。互いのキャリアを考え、交代で時短勤務をする選択をした岩間先生夫妻。「育児・家事のメインは女性」という意識がいまだ根強い日本で、時短勤務を検討したい男性医師へのアドバイスを聞きました。
-
事例
妻の専門医取得に向け主夫に―パパ医師の時短勤務(1)
亀田ファミリークリニック館山で家庭医診療科の医長を務める、岩間秀幸先生。2014年4月からの3年間、医師である妻が後期研修に専念できるように、時短勤務をしながら、家庭で育児や家事を担いました。男性医師が時短勤務をするのは職場では初めてだったそうですが、上司や同僚、患者の理解はどのように得たのでしょうか。また、時間に制約がある中で職場への貢献度を高めるために意識したことは何でしょうか。
-
事例
運営休止した銚子市立病院で、60代医師が働きたいと思った理由―蓮尾公篤氏
大学病院、神奈川県の公的病院にて長年、外科医として勤務してきた蓮尾公篤先生。医師になったときから思い描いていたキャリアを実現させるべく、60歳を過ぎてから転職活動をスタートします。さまざまな選択肢の中から転職先に選んだのは、かつて運営休止に追い込まれてしまった銚子市立病院でした。蓮尾先生が銚子市立病院に入職を決めた経緯、今後の展望についてお話を伺いました。
-
事例
地元・山口に還元する家庭医が描く夢―玉野井徹彦氏
現在、山口大学総合診療部にて臨床・教育・診療体制の改善に取り組むのは、家庭医の玉野井徹彦(たまのい・てつひこ)氏。もともと同氏が医師を志した理由は、地元・山口県の環境保護に取り組むためというユニークなものでした。そんな玉野井氏が思う、山口県の抱える課題と将来実現したい夢とは――。
-
事例
町医者に憧れ、被災地で学び、家庭医として地元へ還元する―遠藤貴士氏
現在、モミの木クリニック(福島県郡山市)で家庭医として勤務している遠藤貴士(えんどう・たかし)氏。初期研修時、「良い意味で“ごちゃまぜ”」な家庭医に魅力を感じ、家庭医療の道を志します。その後、被災した石巻市での活動を経て、東北地方に当時はなかったGIMカンファレンス(全国各地の有志が開く総合内科の勉強会)を立ち上げます。遠藤氏のこれまでの活動や今後の展望を取材しました。
-
事例
ウガンダ勤務を経て医師になり、ベンチャー企業に入社したわけ―谷川朋幸氏・後編
アフリカでの難民支援NGO、東証一部上場企業勤務を経て、医師になった谷川朋幸氏。公衆衛生、国際保健への関心から、聖路加国際病院公衆衛生大学院に進みました。現在は、自宅で治療ガイダンスを受けられる「治療アプリ」を研究・開発する株式会社CureApp の最高医療責任者(CMO)として、治験や薬事申請などを進めています。多彩なキャリアを築く谷川氏が、自身の道を選択する上で重視してきたことは何でしょうか。
-
事例
日本初の“治療アプリ”を目指す最高医療責任者の異色キャリア―谷川朋幸氏・前編
日本初となる“治療するアプリ”の薬事承認・保険適用を目指している株式会社CureApp。最高医療責任者(CMO)として、治験や薬事申請などを進めるのは、医師である谷川朋幸氏です。東京大学法学部を卒業後、アフリカでの難民支援NGO、東証一部上場企業経営企画スタッフを経て、呼吸器内科医になった異色の経歴を持っています。どのようなキャリアを描き、医師になったのでしょうか。
-
事例
検疫所長が教える、検疫所で働く医師の働き方やキャリアパスとは?(後編)
国内に常在しない感染症の病原体が海外から持ち込まれることを阻止するために、検疫所で働いている医師がいます。那覇検疫所で所長を務める垣本和宏氏に、検疫所の医師のキャリアパスや働き方、検疫所から見た日本の医療の課題について聞きました。
-
事例
医師が選んだ職場は、エキサイティングな“検疫所”(前編)
東京オリンピック・パラリンピック競技大会が開催される2020年。国は訪日外国人数の目標に、2015年の倍に値する4000万人を掲げています。訪日客の急増に伴い、高まっているのは、国内に常在しない感染症の病原体が海外から持ち込まれるリスクです。重大な感染症の流入を水際で阻止するために、全国の空港や港にある検疫所で、医師が働いていることをご存じですか。
-
事例
「患者さんを否定しない」傷ついた経験を糧に
医師であり、線維筋痛症の患者でもある原田樹先生。自分や周囲にとって最善の働き方を模索しながら、3次救急病院の救急科で働き続けています。後編では、病に対する考え方の変化と、新たなキャリアについてお聞きしました。
-
事例
線維筋痛症の女医が、救急医の道を選んだ理由
線維筋痛症を抱えながらも、厚生連高岡病院(富山県高岡市)で働く原田樹先生。中編では、臨床研修後のキャリアをどのように選び、切り開いていったのかをお聞きしました。
-
事例
全身を襲う激痛……「私、医師になれるの?」
全身を襲う、耐えがたいほどの痛み──。原田樹先生は医学部在学中に線維筋痛症を発症しました。以来約10年に渡り痛みと付き合いながら、医師として、母として、多忙な日々を送っています。前編では、突然の発症から卒業試験・医師国家試験に挑むまでのお話を伺いました。
-
事例
「医療的正しさ」を追求した女医が選択した道
これまで計7回、国境なき医師団(MSF)の活動に参加している團野桂先生。その度にぶち当たる課題を解決すべく、日本やロンドンで勉強されています。後編では、團野先生がMSFの現場で見てきた実情、帰国後の活動やキャリアの築き方に迫ります。