キャリア事例
自分らしく働く医師のキャリア事例をご紹介します。-
事例
「健康な自分には戻れない」緩和ケア医の苦悩
緩和ケア医の田所園子先生は、周囲が持つ“明るい田所先生”のキャラクターイメージを崩したくないとの思いから、子宮頸がんの患者であることを周囲に隠し、再発への恐怖や不安に蓋をしていた時期がありました。前編では、当時の苦しみと複雑な心境に迫ります。
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事例
「ルーティンではダメになる」医師が重んじる習慣
2008年に初めて国境なき医師団(MSF)の活動に参加し、ナイジェリアへと渡った小杉郁子先生。以降、定期的に活動に身を投じ続けているのは、日本の医療機関にいるときとは違う刺激を、現地で得られるからなのだそうです。小杉先生が国境なき医師団に参加するようになった経緯を紹介した前編に続き、後編では、現地でのエピソードを中心にうかがいました。
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事例
「医師の子は医師に」?固定観念への違和感も
医学部卒業後、ドイツ留学を経て現在は国境なき医師団(MSF)の活動に精力的に取り組んでいる小杉郁子先生(福井県済生会病院外科医長)。医師の家庭に生まれ、女性外科医としてキャリアを歩む過程で、さまざまな固定観念に疑問も覚えながら、今日のライフスタイルに至ったと語ります。国境なき医師団に参加する医師たちをインタビューする本連載。前編では、小杉先生が途上国に渡るまでのお話を中心にご紹介します。
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事例
一人の町医者が、感染症予備校を14年間主催し続けるわけ―永田理希氏
毎回、全国から多くの方が参加者する感染症の勉強会「感染症倶楽部」。この発起人であるのが、北陸の石川県加賀市で開業している、頭頸部外科・耳鼻咽喉科医の永田理希氏です。なぜ一人の町医者が感染症勉強会を主催するのか――? その背景には、永田氏の立場だからこそ伝えたい想いがありました。
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事例
「安定より旅がしたい」ノマド医師の人生観
母親の寄付活動がきっかけで幼い頃に国境なき医師団(MSF)の存在を知り、2011年の東日本大震災で救急医を目指すことを決意した真山剛先生。MSFで活躍するためのキャリアと経験を積んで、今もミッションに参加する傍ら、バックパッカーとして世界中を旅しています。活動中のある経験から、一時は参加を辞めることも考えたという真山先生。それでも活動を続ける理由とは、いったい何だったのでしょうか。
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事例
東日本大震災や僻地医療で知った「医師の無力さ」
母親が募金をしていたことをきっかけに、国境なき医師団(MSF)で活動する医師に興味を抱くようになった真山剛先生。2011年の東日本大震災をきっかけに救急専門医を志し、同時にMSFで活動するためのキャリアを選択します。真山先生が選んだ道筋とは?前編では、真山先生がMSF に参加するまでのお話を中心にご紹介します。
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事例
医療的ケア児とその家族のために 医師10年目の挑戦―押谷知明氏
小児循環器内科の専門研修を修了後、NPO法人ジャパンハート長期ボランティアに参加した押谷知明氏。帰国後は同科のスペシャリストとしてさらなる研鑽を積むのかと思いきや、プライマリケア医へと方向転換しました。約半年間悩んで出したキャリア転換という答えの背景には、ある思いがありました。
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事例
「アニサキス」も曲に メタル女医の徹底ぶり
形成外科医と医療系メタルバンドのボーカルという二足の草鞋を履くババロア先生によると、医学部とメタルには、意外な親和性があるそうです。医師とバンドマン、双方のプロとして多忙な毎日を送る先生に、今後の展望を伺いました。
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事例
メタルバンド女医「人一倍頑張ってきた」
形成外科医であるババロア先生のもう一つの顔は、医療系メタルバンド「Anatomy」のボーカリスト。3月にリリースしたミニアルバムが、発売週にディスクユニオンヘヴィメタルチャートで1位を獲得するなど、バンドの注目度も上がっています。医師兼バンドマンというユニークなキャリアを歩み始めたババロア先生に、医師を志したきっかけやバンド活動への思いを伺いました。
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事例
視点の“ズレ”はむしろアドバンテージ
産業医・スポーツドクターとして活動する傍ら、テニスプレーヤーとしてもトップを目指し研鑽を重ねている岩井勇策先生。先生が自分自身に実践している“整形外科的集学的治療”とは、一体どのようなものなのでしょうか。医療とテニス、どちらにも全力で向き合う原動力を教えてくれました。
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事例
テニスと医師、2軸で選んだキャリアとは
産業医・スポーツドクターとして活動する傍ら、テニスプレーヤーとしてトップを目指し研鑽を重ねている岩井勇策先生。初期研修中の経験から、予防医学・スポーツ医学への興味を深め、産業医やYouTube、セミナー主催といった活動へ展開させていったと言います。その理由とは?固定観念にとらわれず、自分らしくキャリアを切り拓いている岩井先生のバックグランドに迫りました。
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事例
業務は多様 ALS医師のセカンドキャリアとは
2012年にALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、現在は、目や首の動きで意思疎通を図っている竹田主子先生。臨床現場を離れてからは、医師と患者双方の経験を活かし、医療コンサルティングや講演活動などに注力されています。後編では、その取り組みについてお話を伺いました。
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事例
「私、死ぬんだ…」ALSの医師が再び輝くまで
大学卒業後、内分泌代謝科の医師として働いていた竹田主子先生。子育てに重きを置き、複数の非常勤先で働いていた2012年、40代前半でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症。2014年には、24時間介護が必要な状態になりました。現在は、目や首の動きで意思疎通を図っています。前編では、ALSを発症するまでのキャリアや働き方、疾病受容するまでのお話をお聞きしました。
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事例
“専門医”では表現しきれない「田舎のホスピタリスト」を目指して―海透優太氏
「田舎のホスピタリスト」という耳慣れないキャリアパスの確立を目指し、現在は若狭高浜病院にて研修医教育に力を注いでいます。高浜町の医師になるという夢を叶えた海透氏に、キャリア形成時の悩みと、これからのさらなる目標について取材しました。
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事例
医師12年目で独立 住民とともに住民主体のケアを―奥知久氏
家庭医療の後期研修プログラムを受けながらも「家庭医と呼ばれたくなかった」と語る奥知久氏。ある時を境に、自らの役割を見出し、家庭医の道を歩むことを決意します。そして2019年4月、9年勤めた病院を退職。フリーランスの医師として、コミュニティケアの活動に取り組もうと考えた理由とは――。
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事例
「小児総合診療科」を根付かせるために―利根川尚也氏
志していた外科から一転、小児総合診療科への道を選んだ利根川尚也氏。広い視野を持ち、体系的に医療を提供したいという思いを胸に後期研修を迎えたものの、現場で感じたのは「日本での小児総合診療科の立ち位置の曖昧さ」でした。そして今、その曖昧さをなくすために、さまざまな取り組みを実践しています。
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事例
生涯安心できない がんサバイバー医師の胸中
ステージIIIの進行性食道がんを経て、医療現場に復帰した行田泰明先生。闘病を経験したことで、緩和ケア医として持つべき視点を改めて認識できたと語ります。後編では、闘病を通じて得た新たな思いと、治療から5年経過した胸中について伺いました。
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事例
5年生存率40%の医師が医療現場に戻るまで
退職間際に、ステージIIIの進行性食道がんが発覚した行田泰明先生。5年生存率40%という厳しい現実に向き合い、数々の合併症や後遺症を乗り越え、現在は、わたクリニック(東京都葛飾区)の診療部長を務めています。中編では、治療当時の状況や再就職までの経緯を伺いました。
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事例
“医師免許を持つ無職”になった緩和ケア医
退職を申し出た2カ月後に、進行性の食道がんが発覚————。緩和ケア医として活躍していた行田泰明先生は、がんの発覚により、完全に職を離れた状態で治療を受けることになりました。闘病意欲と悲嘆・不安、その両方に気持ちが大きく揺れる中、数々の合併症や後遺症を乗り越え、再就職を果たします。前編では、がんが発覚する前のキャリア選択と、がん発覚時の経緯や心境をお聞きしました。
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事例
あの患者に「食生活改善を」が響かないわけ
麻酔科医として働き育児をこなす一方で、料理家としてレシピ開発にも取り組んでいる河埜玲子先生。手軽で体にいいレシピを追求する河埜先生が思う、料理への苦手意識を払しょくするコツとは?また、河埜先生は現在、子どもへの食育にも注力しているそう。きっかけは、臨床の現場で患者さんの言葉にびっくりした経験だったといいます。医師と料理家、2つの職業をつないだ思いについて聞きました。多忙な医師のための時短レシピもご紹介します。