1. m3.comトップ
  2. キャリアデザインラボ
  3. キャリア事例
  4. 事例
  5. “医師免許を持つ無職”になった緩和ケア医―病とキャリアvol.2(前編)
事例

“医師免許を持つ無職”になった緩和ケア医―病とキャリアvol.2(前編)

2019年4月25日

退職を申し出た2カ月後に、進行性の食道がんが発覚——。緩和ケア医として活躍していた行田泰明先生は、がんの発覚により、完全に職を離れた状態で治療を受けることになりました。闘病意欲と悲嘆・不安、その両方に気持ちが大きく揺れる中、数々の合併症や後遺症を乗り越え、再就職を果たします。前編では、がんが発覚する前のキャリア選択と、がん発覚時の経緯や心境をお聞きしました。(取材日:2019年3月29日)

痛みが取れても、患者さんは嬉しそうではなかった

——現在の専門は緩和ケアですが、もともとは麻酔科医としてキャリアをスタートさせているのですね。

もともと生理学、薬理学に興味がありました。中でも麻酔科は、数字に具体性があり、全身管理を学ぶ学問であること、そして私自身が“痛み”に関心があったのも選択の理由でした。その頃―1990年代初頭は、ちょうど緩和ケアの概念が日本に出始めたタイミング。日本大学板橋病院の後に勤めた癌研究会附属病院(現・がん研有明病院/東京都江東区)では、手術中の疼痛管理に加え、術後の疼痛コントロールにも携わるようになっていました。

——当時はまだ、医療者側も緩和ケアへの関心が乏しい状況だったのでしょうか。

外科でも、「手術をすれば、もれなく痛みはついてくるもの。我慢しなさい」という考え方でした。チーム医療という概念がない時代でしたから、麻酔科の担当医も手術室を出たら関知せず…という状況でした。その頃の私は、モルヒネで痛みが取れれば、患者さんは幸せになると思っていました。けれども、痛みが消失しても患者さんは全く幸せそうではなかった。そこで初めて、がんの痛みというのは身体だけではなく、精神面などを含めた「全人的苦痛(トータルペイン)」だと気づいたのです。
そこから次第に、緩和ケアへと興味が移っていきました。癌研究会附属病院で勤務する傍ら、近隣の要町病院(東京都豊島区)で、積極的治療から外れた患者さんの緩和ケアを担当する――というように、在宅医療にも関わるようになっていったのです。

——麻酔科から緩和医療、在宅医療へと専門を広げたのですね。

そうですね。癌研究会附属病院を退職後は、要町病院の緩和ケア部の部長を務めました。ほぼ“一人主治医”の状態で、多いときは20名以上の入院・在宅の患者さんを受け持っていました。オンコールで病院へ駆けつけたり、在宅の看取りを行ったりするなど、24時間365日、フル稼働の状態でしたね。その後、緩和ケア病棟(ホスピス)の立ち上げ計画に伴い、都内のクリニックに転職。しかし、理想的な環境を作るのが難しいことが判明し、退職を申し出ました。がんが発覚したのは、ちょうどその2カ月後。退職予定日の1カ月前のことでした。

正式ながん宣告は受けていない

——転職時期と重なってのがん発覚ですが、気になる症状はあったのでしょうか。

以前から逆流性食道炎にかかっていましたが、服薬しても状態が悪化する一方、ものを飲み込む時に喉に引っかかりを感じるようになりました。今思えばまさに教科書通りの食道がんの症状ですが、自分のこととなると、そうした考えに及ばず、逆流性食道炎が一部瘢痕化したのだろう、と考えていました。
当時は要町病院でも在宅診療を続けていたので、往診前に内視鏡検査をしてもらいました。モニターの映像をみた瞬間、進行性の食道がんだと悟りましたね。検査をしてくれた癌研究会附属病院時代の先輩医師も、そんな私の様子を見ていました。検査は淡々と進められ、一通り終わった後、私は予定通り往診へ。往診から戻り、医師からかけられた言葉が「どうする、ぎょうちゃん*」でした。
*行田先生のニックネーム

——お互い、暗黙の了解の上での会話だったのですね。

そうですね。なので、実は私はがん宣告を正式に受けていないんです。

——ご家族へはどのように伝えましたか。

妻には、内視鏡検査を終えた後にすぐ「進行性の食道がんだった」とメールで伝えました。兄には電話をして「両親には自分から告げるので黙っていてほしい」と伝えましたが、その後すぐに母親から連絡がありました。大学受験を控えていた長男には、受験に影響しないよう、病名は告げませんでした。

生きたい、死ぬのだろうか…揺れる気持ち

——医療機関として、最終的にがん研有明病院を選択した理由とは。

以前勤めていた職場ということもあり、顔見知りの医師や看護師、事務スタッフがたくさんいたこと、手術件数が多かったこと、麻酔科医の質の高さが信頼できることなど、安心感が決め手の理由でした。
要町病院で食道がんだとわかった後、がん研有明病院で血液検査、内視鏡検査、CT、PETによる検査が進められました。結果は、進行性食道がんのステージIII。縦隔・左鎖骨下リンパ節に転移があり、5年生存率は40%であることが判明しました。また、壁内転移の可能性もあり、その場合は5年生存率が限りなく0%に近くなるという話でした。

——検査結果を聞いた時の心境は、いかがでしたか。

まさに、藁にもすがる思いでした。何かにすがりたい気持ちで、国内外の神社仏閣や宗教施設をまわって願掛けをし、お守りもたくさん集めました。どうにもならないとは分かっていたのですが…。涙もたくさん流しました。
治療中は、闘病への意欲と悲嘆・不安の気持ちが、振り子の様に揺れました。生きたい、死ぬわけにはいかない、患者さんのそばにまた立ちたい、と思う一方で、仕事に復帰できるのか、やはり死ぬのだろうか、もしもの時に家族の生活はどうなるのか――と考えてしまう。両極端な気持ちの揺れは、時間の経過と共に収まり落ち着くのですが、新たな治療が始まれば、その揺れ幅がまた大きくなる。心が安定するまでに要する時間も、状況によって日、週、月と様々でした。

今後のキャリア形成に向けて情報収集したい先生へ

医師の転職支援サービスを提供しているエムスリーキャリアでは、直近すぐの転職をお考えの先生はもちろん、「数年後のキャリアチェンジを視野に入れて情報収集をしたい」という先生からのご相談も承っています。

以下のような疑問に対し、キャリア形成の一助となる情報をお伝えします。

「どのような医師が評価されやすいか知りたい」
「数年後の年齢で、どのような選択肢があるかを知りたい」
「数年後に転居する予定で、転居先にどのような求人があるか知りたい」

当然ながら、当社サービスは転職を強制するものではありません。どうぞお気軽にご相談いただけますと幸いです。

エムスリーキャリアは全国10,000以上の医療機関と提携して、多数の求人をお預かりしているほか、コンサルタントの条件交渉によって求人を作り出すことが可能です。

この記事の関連キーワード

  1. キャリア事例
  2. 事例

この記事の関連記事

  • 事例

    「自分が理想とする糖尿病診療を追い求めて」開業へ

    小児糖尿病の宣告を受けるも、「糖尿病だってなんでもできる」という医師の言葉をお守りに自らも医師を志すことを決意した南昌江内科クリニック(福岡市)の院長、南昌江先生。現在の糖尿病専門科医院を経営するようになった軌跡を伺います。

  • 事例

    小児糖尿病にならなければ、医師の私はいない

    福岡市にある糖尿病専門科医院、南昌江内科クリニックの院長・南昌江先生は、ご自身が中学2年生の際に小児糖尿病を宣告された身の上です。病気を発症した前編に続き、今回は医療への水差し案内人となった医師との出逢いや転機となった出来事について伺います。

  • 事例

    14歳で1型糖尿病「前向きに考えて生きなさい」

    14歳の夏、”小児糖尿病”の宣告を受けた南昌江先生。その数年後、両親や主治医、同じ病気の仲間たちに支えられ医学部受験、医師になるという夢を果たしました。前編では、病の発症、闘病生活について伺います。

  • 事例

    視力を失った精神科医だからできること

    網膜色素変性症を抱えながら、精神科医となった福場将太先生。容赦なく病状が進行する中で、一度は医師を辞めようと考えた福場先生でしたが、様々な人々との出会いで医師を続けていこうと決意します。

  • 事例

    辞職か、継続か…視力を失った精神科医の葛藤

    医学部5年生の時に、網膜色素変性症を発症した福場将太先生。次第に視力が衰えていく現実に、迷い、葛藤を覚えながらも、医師の資格を取得されます。

  • 事例

    「見えなくなっていく」卒試、国試前に病を発症

    網膜の機能が低下し、人によっては視力を失うこともある網膜色素変性症。次第に視力が衰えていくこの病気は、福場将太先生に、医師として、一人の人間としてどう生きるかを、常に問いかける存在でした。

  • 事例

    不治の病を抱えながら、クリニックの院長へ

    40代でパーキンソン病を発症し、50歳で医師として働くことを辞めた橋爪鈴男先生。後編では、再び医療の世界に戻った時のエピソードと、病を抱えるようになって変化したことを語っていただきました。(取材日:2020年2月20日 ※インタビューは、資料や文書による回答も交えた形式で実施しました)

  • 事例

    「もう死にたい」動けない医師が光を見出すまで

    皮膚科医として、順調なキャリアを築いてきた橋爪鈴男先生。しかし、40代でパーキンソン病を発症した後、大学病院を辞すことを決意します。中編では、絶望を救った一つの言葉と仲間の支え、そして新たな治療を経て見つけた生き甲斐についてお話をうかがいました。

  • 事例

    40代でパーキンソン病「医師を続けられない」

    順風満帆な生活から一転、晴天の霹靂のごとく襲いかかった難病──。橋爪鈴男先生は、40代でパーキンソン病を発症し、大学病院の助教授(当時)の職を辞すことを決意します。身体機能が衰えていく自分の姿に苦悩し、自殺を考えたこともあったそうです。しかし、生きる意味を見出し、再び医師として復帰するに至りました。前編では、突然の発症から大学病院の辞職を決意するまでのエピソードをお聞きしました。

  • 事例

    「患者さんを否定しない」傷ついた経験を糧に

    医師であり、線維筋痛症の患者でもある原田樹先生。自分や周囲にとって最善の働き方を模索しながら、3次救急病院の救急科で働き続けています。後編では、病に対する考え方の変化と、新たなキャリアについてお聞きしました。

  • 人気記事ランキング

    この記事を見た方におすすめの求人

    常勤求人をもっと見る