キャリア事例
自分らしく働く医師のキャリア事例をご紹介します。-
事例
「全てが中途半端」料理家ママDr.の悩み
麻酔科医の河埜玲子先生のもう一つの顔は料理家です。手軽に作れて栄養バランスのいい料理のレシピを掲載した自身のブログは6万PV/月と厚い支持を得ており、中には企業とのタイアップレシピも多数。現在は食育トレーナーとして、子どもの食育にも取り組んでいるといいます。こうした活動の背景には、子育て女医ならではの“罪悪感”があったそうです。医師として、また母として多忙な生活を送りながらも、二足のわらじを履く理由とは。多忙な医師のための時短レシピもご紹介します。
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事例
がん闘病の医師、死を覚悟し抱いた「後悔」
2006年に34歳で肺がんの手術を受けた川崎幸病院放射線治療センター長の加藤大基先生。闘病を通じて、「仕事だけで死んでしまうのはもったいない」と考えるようになったそうです。がんになってから10年以上経過した現在の仕事観や死生観についてお伺いしました。
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事例
「まさか自分が」肺がんになった医師の胸中
川崎幸病院放射線治療センター(神奈川県川崎市)のセンター長を務める加藤大基先生は2006年、34歳で肺がん患者となりました。放射線治療医として多くのがん患者に寄り添ってきた加藤先生に、がんが見つかる前後のお話、病を経験してからの患者さんとの向き合い方やご自身の働き方について伺いました。
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事例
医療現場で「鈍感力」が大切な理由
イェール大学病院での研修前に初めて国境なき医師団(MSF)に参加し、それ以降6回の海外派遣活動に参加している中嶋優子氏。2017年には日本人初の米国EMS(Emergency Medical Services 米国プレホスピタル・災害医療救急専門医)の資格を取得しています。これまでの活動を振り返り、思うことについてお話を伺いました。
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事例
3か月で退局した女性医師の今
高校時代から、「国境なき医師団(MSF)で働く医師になりたい」という思いを抱いていた中嶋優子氏。紆余曲折を経て卒後8年目でUSMLE(United States Medical Licensing Examination 米国医師国家試験)を取得。2017年には、日本人初のEMS(Emergency Medical Services 米国プレホスピタル・災害医療救急専門医)を取得しました。さまざまな分野でキャリアを積み、現在は米国で救急専門医として働きながらMSF理事を務める中嶋氏のキャリアの変遷に迫ります。
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事例
チーフレジデントが「医療を変える」―長崎一哉氏
医師5年目でチーフレジデントを務めたことで、その後のキャリアに大きな変化があった長崎一哉氏。現在は、日本チーフレジデント協会設立に向けて準備を進めています。この取り組みについて、「医師人生をかけてやる価値がある」と語る長崎氏に、キャリアチェンジの背景、今後の展望について取材しました。
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事例
「仕事も子育ても及第点」 2児のママが医長と育児を両立できる理由―本郷舞依氏
坂総合病院(宮城県塩釜市)で総合診療科の医長を務める本郷舞依氏は、2児の子育てをしながら働くことに「常に悩み、ワークライフバランスは不安定」と言います。それでも総合診療の最前線で働き続けているのは、困っている人からの求めに応え続けるため。そのために救急科とタッグを組むなどの職場環境を築いています。今回は本郷氏を支える原動力と、仕事と子育てとを両立する術について聞きました。
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事例
格闘技ドクターが思う、「真の強さ」とは
医学的なエビデンスをベースに、格闘技の真の強さを追求すべく「格闘技医学」というジャンルを立ち上げた、医師兼格闘家の二重作拓也氏。後編では、二重作氏を表すキーワードの中でも、特に重要となる格闘技医学について、誕生の経緯から今後の展望まで、幅広くお話を伺いました。
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事例
運動音痴の男子が、格闘技ドクターになるまで
医師にして格闘技実践者である、二重作拓也氏。医学的なエビデンスをベースに、格闘技の真の強さを追求すべく「格闘技医学」というジャンルを立ち上げました。異色の“格闘技ドクター”として、新たな道を切り開き続ける二重作氏。そんなアグレッシブな生き様の根底には、幼少期のつらい体験や空手に対するあまりにも熱く深い想いがありました。
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事例
医師不足地域でも複数医師体制を継続できる施策とは―坂戸慶一郎氏
健生黒石診療所(青森県黒石市)では、複数医師体制の継続に注力しています。その背景には、所長を務める坂戸慶一郎氏の「病院の負担を減らし、地域全体の医療をしっかり支えていきたい」という考えがありました。坂戸氏が思い描く理想の診療所像、今後の展望についてお話を伺いました。
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事例
医師で果物農家!「半農半医」で得た発想
耳鼻咽喉科の開業医として忙しい日々を過ごされていた豊田先生。心身ともに体調を崩した時にたどり着いたのは、医師として栄養の大切さについて伝えること、農家として口に入れても安心な食材を提供することでした。先生が考える「病気を未然に防ぐ生き方」からは新たな試みも生まれているようです。
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事例
「このままでは死ぬ」鬱の開業医が選んだ道
大学病院勤務などを経て、29歳の若さで耳鼻咽喉科のクリニックを開業された豊田孝行先生。9年間開業医として激務をこなされた後、現在は農家と医師という二足のわらじを履いています。先生はどういったいきさつで、半農半医という働き方を確立されたのでしょうか。先生が苦難の末にたどり着いた、理想のワークスタイルに迫ってみました。
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事例
フリーランス医師が、県知事を志すまで―川島実氏
京都大学医学部在学中にボクシングのプロライセンスを取得し、29歳まで約5年間プロボクサーとして活躍してきた川島実氏。その間に医師免許を取得し、ボクサー引退後は、医師として全国各地の医療機関に勤務してきました。東日本大震災後は、被災し院長不在となった気仙沼市立本吉病院(宮城県)の院長に就任。2014年に院長を辞任した後は、地元・奈良県に戻ってきました。型にはまらないキャリアの持ち主である川島氏のその後を追いました。
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事例
病院内から日本全国へ広まった、医師の思い
臨床医として働きながら音楽活動を行うToshi先生とJyun先生の2人組ユニット『Insheart(インスハート)』。医療の力が届かないところで患者さんを癒したいという思いから始めた小さな活動が広がり、いまではコンサートのチケットがなかなか取れない人気ユニットに成長しました。世間からの注目を集めるお二人に、医師として音楽活動を行う思いを伺いました。
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事例
診療科の方針転換 若手医師の思惑とは―森川暢氏
医師7年目に東京城東病院総合内科(現・総合診療科)のチーフとして、診療現場の責任者となった森川暢氏。診療科の方針転換をはかり、総合内科と家庭医療を融合させた総合診療科を目指す意図や今後の展望を伺いました。
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事例
ラリー競技で学んだ、医師業のスキル
ご自身のクリニックでは救急医として、他の病院では麻酔科医として多忙を極める上原淳先生。後編では、ラリードライバーとしての一面に迫ります。
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事例
救急医療改革とラリーに全力疾走
2010年、全国でも珍しい救急専門の個人医院として、埼玉県川越市に開業した川越救急クリニック。院長である上原淳先生は、救急医療の改革を目指す医師として多方面から注目を集めていますが、その一方で、全日本ラリー選手権に参戦するラリードライバーとしても活躍しています。前編では救急医療の改革に取り組む医師としての姿に、後編では全日本ラリー選手権へアグレッシブに挑戦を続けるラリードライバーとしての一面に迫ります。
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事例
地元・福島県で家庭医育成に力を注ぐ理由―菅家智史氏
医師4年目で母校・福島県立医科大学に戻り、家庭医として福島県山間部で研鑽を積み、現在は教育に携わっている菅家智史氏。菅家氏が教育に注力する理由とは――。
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事例
「王道にはもう戻れない」小説家医師の覚悟
累計100万部を誇るミステリー小説『天久鷹央』(新潮社)シリーズをはじめ、医療などをテーマにヒット作を発表し続けている、医師兼作家の知念実希人氏。小説を書きたい。でも、医師としての王道は外れても、本分を外してはいけない。そうした思いからも日本内科学会認定医を取得後、小説家としての道を歩み始めたそうです。デビューを果たすまでの軌跡や、医師という仕事が作品に与えた影響を伺いました。
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事例
医師家系4代目、小説家の夢捨てきれず…
累計100万部を誇るミステリー小説『天久鷹央』(新潮社)シリーズをはじめ、医療などをテーマにヒット作を発表し続けている、医師兼作家の知念実希人氏。医師の家系に生まれ、ごく自然な流れで「将来は医師になる」ことを目標にしていたと語ります。しかし、臨床研修制度の一期生として臨んだ初期研修中に、同氏が選んだのは幼い頃からの夢であった小説家という道でした。その背景にはどのような思いがあったのでしょうか。また、小説家になる覚悟を決めたうえで認定医資格を取得した理由とは──。