医師にして格闘技実践者である、二重作拓也氏。医学的なエビデンスをベースに、格闘技の真の強さを追求すべく「格闘技医学」というジャンルを立ち上げました。異色の“格闘技ドクター”として、新たな道を切り開き続ける二重作氏。そんなアグレッシブな生き様の根底には、幼少期のつらい体験や空手に対するあまりにも熱く深い想いがありました。(取材日:2019年2月6日)
もう、空手しかなかった
―現在、“格闘技ドクター”としてご活躍されている二重作先生。幼い頃から、格闘技に取り組んでいたのでしょうか。
私は病弱で、運動が全くダメな子どもでした。小学生のころは、いかに運動ができるかが人気のバロメーターだったので、運動ができないのは致命傷。そのことがものすごくコンプレックスでした。運動が得意な友人に教わったり、教室に通ったりもしましたが、全然上達しなかったですね。
空手を始めるきっかけとなったのは、小学2年生のときに開催された、クラス対抗の相撲大会です。いくら何でも負けないだろうと思っていた、自分よりも小柄な相手と組んだ瞬間に放り投げられ、顔から砂に突っ込んで――完敗でした。最後の砦が崩れ、どん底まで突き落とされましたね。小柄な彼が柔道をやっていたことをあとから知りました。
そんなことがあり、これまでにない気持ちで「何か始めなければ!」と父に相談したところ、勧められたのが空手だったんです。当時所属していた道場は、子どもだから危ないということもあって対人の自由な攻防は一切なく、6年生まで3年間、毎週基本や型を続けました。正直「これを続けて本当に強くなれるのか?」という疑問はありましたが、やめたいとは思わなかった。私にはもう空手しかなかったので、子ども心に信じるしかなかったんです。相撲大会での挫折があまりにも大きくて、「ここから逃げたらもう何もない」と思っていました。
初出場の全国大会で2位に
中学に上がる前に引っ越したのですが、それまでは伝統空手――オリンピックなどで採用されている空手だったのが、新しく通い始めた道場は実戦空手、いわゆるフルコンタクトという当てる空手で、防具をつけてバンバン蹴り合うようなところでした。そこで大人の方にスパーリングの相手をしてもらったり、大学生から技術的なお話を伺ったりと、空手でいろんなバックグラウンドの方と触れ合う経験をしました。それからは、練習が楽しくて仕方なかったのをよく覚えています。そんな環境で過ごしていた中2のときに、1つ目の転機となる所属流派の少年の全国大会が開催されました。
――実力がついてきたのが認められて、出場選手として選ばれたのでしょうか。
それが、違うんです(笑)とにかく大会に出たくて、「お前にはまだ早い」という師範の反対を押し切って、無理やり推薦をもらったんです。実力も、勝てる根拠もないのになぜか自信だけがあって…。そうしたら、初めて出場したトーナメントで2位になったんです。3年間、伝統空手の稽古で培われていたものが結実したのかも知れませんが、試合が面白くて仕方なかったですね。
このときを境に、それまで否定し続けた自分のさまざまなことを肯定できるようになりました。「サッカーでは球が回ってこない、野球もボールに遊ばれる、かけっこも遅くてビリから2番目――でも僕には空手がある」と。それからは、出場した全ての大会でトロフィーを持って帰れるようになりました。空手が自分のアイデンティティとなって、性格も変わりましたね。
医者は空手家にもなれるが、空手家は医者になれない
――空手に打ち込む一方で、医師という職業を志したのはいつごろからでしょうか。
幼いころから何となく意識はしていたと思います。というのも、父が理学療法士、母は看護師だったので、幼少時から医療を身近に感じられる環境にあったためです。父は当時の社会人リーグ(現Jリーグ)の新日本製鉄サッカー部のメディカルトレーナーとしての顔もあったので、よく試合を観に行きました。選手が倒れると、父がすごい速さで走っていき、手当てをすると、すぐに選手が復活してゲームが再開する――。そんなかっこいい父の姿を見て、素敵だなと思っていました。小中高と私立の進学校に通わせてもらっていたので、クラスメイトには近所の開業医や勤務医の息子がたくさんいたことも少なからず影響したと思います。両親から医者になれと一切言われなかったことも、医師を目指すことになった理由の1つです。子どもながらに、理学療法士だった父の思っていることを何となく感じてはいました。ある日、「お父さん、もし僕が医者になったら嬉しい?」と聞いたら、満面の笑顔で応えてくれて――。両親を喜ばせたいという思いから、医師を志したんです。
「医師になれたらいいな」から「絶対になる」と思ったのは、高3のときです。フロリダで開催されたUSAオープン大会の高校生日本代表に選ばれ、出場した試合で完敗してからです。相手は187cmのアフリカ系アメリカ人。それまで外国人もほとんど見たことなかったし、そんなデカい人と練習したこともありませんでした。それまでつくりあげてきた技術が一切通用せず、もう一度自分の空手を見直さなくてはと思いました。そして、今よりも強くなるためには体のこと、心のことをより深く知るべきだ、とも。人間についてしっかり学びたいという気持ちから、そのスペシャリストである医師になりたいと強く思うようになったのです。父も「医者は空手家にもなれるが、空手家は医者になれない」という言葉をくれて、より一層励みになりました。母も全力で応援してましたね。
空手は「仮面ライダーの変身ベルト」
――高校3年で日本代表選抜とのことでしたが、受験目前だったのではないでしょうか。
受験のあいだも、空手はずっと続けていました。僕の空手は部活ではないので、試験前に休みになることもない。どんなに勉強が忙しくなっても、道場には行く、練習も手を抜かない、試合にも出ると自分に「賭け」をしたんです。それがクリアできればこの先、医学部に行っても空手が続けられるだろうと。浪人中も稽古は続けていましたね。
――空手にそこまで情熱を傾けることができる理由とは。
子どものころに抱いていたコンプレックスから解放してくれたからでしょうか。ひ弱で体力がなかった自分でも、稽古を重ねることで痛みを我慢できるようになる、できなかった技ができる、など「やればできる」という自信を与えてくれました。空手は、弱い自分から強い自分に変われる、仮面ライダーの変身ベルトみたいなもの。一度つかみとったからには、絶対に手放したくなかった。握ったこぶしを二度と開きたくなかったんです。
勉強にしても、「やってやる、負けないぞ」という空手の心で取り組んでいました。そうでなかったら、医学部受験自体のモチベーションも保てなかったと思います。大学入学後の6年間も自分なりにトレーニングは継続しました。大学時代に観戦して、いつか出場したいと強く思っていた極真空手の全日本ウェイト制の大会には、研修医時代に参戦することができました。
――かなりハードなスケジュールだったのではないでしょうか。
振り返ってみると、そうですね(笑)。研修中は手術やカンファレンス、当直などあってもなんとか時間を見つける練習にもなりました。研修医の仕事が22時半に終わったら、タクシーで道場へ向かって終電までスパーリング。帰り際、大学生の後輩に「全日本大会の映像みて研究しましょう!」みたいなことはしょっちゅうで、結局後輩も家に泊まって、朝3時まで技術研究。3時間だけ寝てまた病院に、みたいな狂った生活でした(笑)。当直の日は道場に行けないので、自分でつくった練習メニューをこなしていましたね。深夜、病院の階段を使ってトレーニングしていたんですが、しばらくして「お化けの出る病棟がある」と噂が立ったこともありました(笑)。当時の患者さんやスタッフには、怖い思いをさせてしまったと反省しています。 (後編に続く)
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