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救急医療改革とラリーに全力疾走―医師と2足のわらじvol.10(前編)

2019年2月4日

2010年、全国でも珍しい救急専門の個人医院として、埼玉県川越市に開業した川越救急クリニック。院長である上原淳先生は、救急医療の改革を目指す医師として多方面から注目を集めていますが、その一方で、全日本ラリー選手権に参戦するラリードライバーとしても活躍しています。前編では救急医療の改革に取り組む医師としての姿に、後編では全日本ラリー選手権へアグレッシブに挑戦を続けるラリードライバーとしての一面に迫ります。(取材日:2018年12月21日)

麻酔科医から救急医療の世界へ

──まず、医師になられた経緯について教えてください。

中学生の頃、他人の人生に影響を与える仕事がしたいと考えていました。思いついた職業は、政治家と教師、そして医師。私は文系の勉強が苦手だったので、得意な理数系を活かして医師を目指そうと思ったのです。実家が本屋だったので、よく店番を手伝いながらマンガを読んでいたのですが、当時は手塚治虫先生の「ブラックジャック」に夢中でした。主人公のように、弱者を助けられるような医師に憧れたのも大きな理由ですね。

福岡県の産業医科大学に進学し、学生時代は心臓外科を目指していました。5年生の時の臨床実習でいろいろな病院をまわったのですが、思うような心臓外科が見つからず、とりあえず同じ外科系である麻酔科に進むことに。3年ほど働いて学費を返済したら、心臓外科医の道に進むべく、東京の病院へ行くつもりでした。ところが実際に働き始めてみると、麻酔科医の仕事が面白くてたまらない。自分が立てた戦略に沿って麻酔をコントロールし患者の全身管理を担う麻酔科医は、手術中、一番働いているのではないかと思えるほどでした。仕事に夢中になって、6年目には指導医の資格も取得しました。

──そんな上原先生が、救急に関わるようになったきっかけとは。

福岡時代、産業医として働いていた時期がありました。仕事が5時で終わるので、その後は市内の救急病院で当直医をしていたのです。ある時、その救急病院で術後に回復した患者さんが「先生、退院できることになりました」と家族揃ってお礼に来られたのです。患者さんとの関わりが薄い麻酔科医では、このような経験がなかったため、お礼を言われたことがすごく嬉しくて――。「救急っていいな」と思うようになり、これを契機に患者さんの予後に関わるべく、麻酔科医が術後の全身管理に携わる集中治療の仕事として、子ども病院のNICUも体験しました。

そんな時、かつて麻酔科医として働いていた病院から「救急を始めるので戻ってこないか」と声がかかり、自分が中心となって新しく救急部を起ち上げることになったのです。はじめに、救急部を起ち上げたことを知らせるため消防署へ挨拶に行ったのですが、過去5年分のデータを出され「おたくは今までこれだけ救急を断ってきた。今さら始めるといわれても信じられると思えますか」と、相手にされませんでした。そんなこともあり、最初のひと月にやってきた救急車は3台だけ。3年後には月に300台来るようになりましたが、そこに至るまではいろいろな事がありました。

──3年の間に、地域との信頼関係を築くことができたのですね。

そうですね。そこは555床ある大きな病院でしたが救急の専門医は1人もいなくて、私が患者を初療して各科にまわし、専門医と話し合いながら対応をすすめていました。当時医師11年目でしたが、救急は初めてなので一から学びなおしです。病院にいた研修医と一緒に、わからないところを教科書で調べながらよく勉強しました。そのうち研修医が専門分野ごとに勉強会を開くようになり、救急隊にも声をかけると、参加してくれるようになりました。救急隊や地域の人と信頼関係を築き上げる作業は大変でしたが、楽しくもありましたね。救急に関わるようになって、「自分がやりたかった医療はこれだったんだ」と思いました。

救える命を救うために

救急車のカラーリングもラリーカー仕立て

──2010年には、全国初の救急専門クリニックを開院されます。そこに至る経緯を教えてください。

福岡で救急を3年間経験し、やはり専門医をとりたいと思いました。大きな病院だったので重症患者も多かったのですが、専門医がいなかったため超重症患者が来たときに対応しきれなかったのです。3次救急の経験を積むべく、救急救命センターでの働き口を探していたところ、縁あって埼玉医科大学総合医療センター 高度救命救急センターに勤めることになりました。

埼玉医大3年目に医局長になると、地元の医師会や行政などとも関わりができて、埼玉県の救急医療が危機的な状況にあることがわかりました。当時の埼玉医大には、時間外で救急にかかる人が年間4万5千人いました。1日120人が来たとすると、そのうち100人は風邪などの軽症患者だったのです。高度救命救急センターでは3次救急しかとらないので、1 次、2 次の患者は各科にまわします。ところがその数が多くて対応しきれず、どこも悲鳴をあげているような状態でした。本来1次、2 次を担うべき病院に軽症患者を診てもらわないと3次救急も機能しなくなり、救える命も救えなくなってしまいます。埼玉医大の救命救急センターがつぶれると、埼玉県の救急医療全体が崩壊しかねない状態でした。埼玉に来た当初は専門医をとったら福岡に戻るつもりでしたが、「埼玉の1次、2次をどうにかしないといけない」という思いが募っていって――。大学病院の近くで救急専門のクリニックを開業して、1次、2次の患者を自分が受け入れようと考え、今に至ります。

開業して8年になりますが、多い時は年間約1万5千人、現在は約1万2千人の患者が来ています。そのうち救急車で来る患者は1400から1500人で、たいていは歩いて来院できる1次、2次の患者です。夕方頃は近所のおじいちゃんやおばあちゃん、その後20時頃までは小児科、21時以降は仕事帰りの会社員の患者さんが多いですね。外来の受付時間は22時までですが、それ以降、翌朝までは時間外加算で受け付けていて、ほぼ年中無休で開院しています。

救急専門クリニックを全国へ広めたい

──2014年に設立された、『日本救急クリニック協会』の活動について教えていただけますか。

「救急専門クリニックをうちの地域にもつくって欲しい」と全国から手紙が届くようになり、当院のノウハウを全国に広めるべく起ち上げたNPO法人が『日本救急クリニック協会』です。活動に賛同してくれる人に出資を募り、救急クリニックを開業したいと考える医師に、資金とノウハウを提供する取り組みです。当院には多くの医師が見学に訪れていて、ほとんどの人が興味を持ってくれます。ただ、ネックとなるのが採算性です。

救急の場合、原因がわからずに来る人が大半なので、ありとあらゆることを疑ってかかるわけです。たとえば胸が痛い場合も、心臓なのか肺なのか、どこが悪いのか調べるために様々な検査を行います。しかし、最終的に肋間神経痛だった場合は、心電図もCTも要らないはず、と保険適用から外されていく。無駄とされた検査費用は、全てクリニックの持ち出しとなるのです。救急救命センターの場合は、診療報酬に加算があるため黒字になるのですが、中小の病院で救急をやると赤字になってしまう。救急クリニックが必要なことはわかっているのに、制度が追いついていないのです。

──そのような状況下で、クリニックをどのように運営されているのでしょうか

医師は院長である私と副院長の2人、看護師は常勤とパートがそれぞれ5人、救急救命士が常勤、非常勤で3人ずつの体制です。その他に事務の常勤が4人、パートは4、5人います。いまは職員の給料をまかなえる程度の黒字ですが、院長である私の給料まで出すと赤字です(笑)。そんなわけで、自分の給料を稼ぐために、埼玉と茨城の病院で麻酔科医のアルバイトもしています。2つの病院でアルバイトをしているのは、家計に入れる用とラリーの参戦費用とでわけているためです。

後編では、ラリードライバーとしてのお話についてうかがいます。

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