キャリア事例
自分らしく働く医師のキャリア事例をご紹介します。-
事例
「医師でも写真家でもない」60代男性の思い
井上胃腸内科クリニック(神奈川県横浜市)の院長を務めながら、自然写真家として毎年欠かさずアフリカのサバンナに通い続けている井上冬彦先生。後編では、自分自身のことを「医者でも写真家でもない」と語る理由、二つの職業がそれぞれに与える影響などについて伺いました。
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事例
憧れのアフリカへ 医師が写真に目覚めるとき
井上胃腸内科クリニック(神奈川県横浜市)の院長を務めながら、自然写真家として毎年欠かさずアフリカのサバンナに通い続けている井上冬彦先生。前編では、動物や海洋生物学に興味を持ちながらも医師という道を選択した理由、写真を始めたきっかけについてお話を伺いました。
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事例
総合診療の学び舎を 岩手の窮状を見てきた医師の挑戦―山田哲也氏
大学卒業後から一貫して岩手県内の医療に携わり、県内の窮状を何度も目の当たりにしてきた山田哲也氏。そんな山田氏は、2018年5月から岩手医科大学救急・災害・総合医学講座 総合診療医学分野の助教に就任し、新たな挑戦を始めています。これまでどのような想いを持って、キャリアを歩んできたのかを取材しました。
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事例
ウクライナから来日した女医が“日本らしい”緩和ケアを目指す理由─バレンティナ・オスタペンコ氏・後編
25年前にウクライナより来日し、自分を必要としてくれる人々の気持ちに応えたいという思いで緩和ケアに取り組んでいるバレンティナ・オスタペンコ先生。2011年に日本の医師免許を取得し、現在は東大和病院の消化器内科・緩和医療科に勤務されています。最近では病院の中だけでなく、山梨のお寺とも連携しながら、より日本人の心に寄り添ったケアを追及しているそうです。そんなオスタペンコ先生に、緩和にかける情熱について伺いました。
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事例
異国での医師免許取得、子育て…ウクライナ人女医を日本につなぎとめたものとは―バレンティナ・オスタペンコ氏・前編
「息子は当時まだ5歳。正直、“日本に行きたい”と思っていたわけではありませんでした」 東大和病院消化器内科・緩和医療科で、がん患者の緩和ケアに注力するバレンティナ・オスタペンコ先生はこう振り返ります。日ソ共同がん研究のため、ウクライナに家族を残し25年前に日本へ。半年間だけの滞在のつもりが、「いつのまにか日本人らしくなっていました。もう日本でお墓も買いましたよ」と笑うバレンティナ先生。日本で働くという選択肢に先生を導いたものとは何だったのか、伺いました。
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事例
一般患者と何が違う?バレエ外来が目指すもの―私の専門外来Vol.2バレエ外来(後編)
1994年より国内初となるバレエダンサーを対象とした専門外来を開設した、東京・上野にある永寿総合病院・整形外科。その歩みを紹介した前編に続き、後編では、バレエダンサーを対象にした診療の特徴や今後の展望について、現在同外来を担当している平石英一医師に聞きました。
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事例
永寿総合病院に、世界からバレエダンサーが集まるわけ―私の専門外来Vol.2バレエ外来(前編)
東京・上野にある永寿総合病院・整形外科は1994年より国内初となるバレエダンサーを対象とした専門外来を開設し、足部や足関節などに起こるダンサー特有の傷害を約四半世紀にわたって診療し続けています。世界から日本人バレエダンサーが集まるようになった外来の軌跡について取材しました。
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事例
病院のブランドには頼らない! キャリア形成を3軸で試みる医師―中山祐次郎氏
中山祐次郎氏は卒後10年間、都内の有名病院にて外科医として研さんを積み、高度な手術も担ってきました。2017年、葛藤を感じながらも、福島県郡山市の総合南東北病院への赴任を決意。そんな中山氏の目指すこととは――?
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事例
40代後半で落語家に転身 落語を諦めきれなかった医師の思い
学生時代から持っていた「落語をやりたい」という思いを諦めきれず、44歳にして落語家・立川志らく氏の客分の弟子として入門した、立川らく朝(福澤恒利)先生。46歳にてプロの落語家として前座修行を開始し、医師と落語家という2足のわらじを履くキャリアをスタート。その後落語家に専念され、61歳で真打に昇進します。医師から落語家へ転身した経緯、今後の展望について伺いました。
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事例
専門医でも総合力が必要 3年目の医師が回り道でも身につけたいこと―山本竜也氏・後編
医師3年目でありながら、若手のための勉強会「関東若手医師フェデレーション!!」の運営に関わり、いかなる疾患にも応じられる総合力を身につけようと奔走する山本竜也先生。現在も後期研修中でありながら、いったんは専門医取得を考えず、総合病院の救急科で研さんを積んでいます。後編では患者さんに寄り添う力を身につけたいと決意するまでのご自身のキャリアについて伺いました。
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事例
実践する勉強会「関東若手医師フェデレーション!!」の舞台裏―山本竜也氏・前編
医師3年目でありながら、若手のための勉強会「関東若手医師フェデレーション!!」の運営に関わり、いかなる疾患にも応じられる総合力を自他ともに身につけようと奔走する山本竜也先生。後期研修中でありながら、いったんは専門医を取得せず、患者さんに寄り添う知識とスキルを身につけるという選択をしています。前編では「関東若手医師フェデレーション!!」の概要や活動の思いについて、後編では山本先生のキャリアについて伺いました。
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事例
約3時間かけて、宮城県松島町へ遠距離通勤する理由―小松亮氏
2015年、家庭医の小松亮氏は一念発起して自宅は東京のまま、宮城県松島町にある松島海岸診療所で勤務することを決意しました。このようなワークスタイルを選んだその背景には、どのような想いがあったのでしょうか。
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事例
「緩和ケアはコンビニであるべき」常勤医7名体制の緩和ケア科の挑戦―柏木秀行氏
医師5年目に、総合診療科から緩和ケア科に転籍した柏木秀行氏。現在は緩和ケア科部長として若手を中心とした6名の医師を束ね、緩和ケアの新たな価値を提供しようとしています。若手医師が集まる理由、そして緩和ケアの新たな価値とは――。
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事例
医師として、ランナーとして。「マラソン」を追求する理由―福田六花氏
趣味のランニングが高じて、マラソン大会のランニングドクター、レースプロデューサーを務めている福田六花先生。消化器外科医としてキャリアをスタートさせ、現在は、山梨県にある介護老人保健施設はまなす施設長、山梨県老人保健施設協議会・会長として活躍しています。ランニングが医師業に与えた影響、キャリアの変化や拡がりについて取材をしました。
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事例
地元の医療を支えるために。家庭医が追求したもう1つの専門性―遠井敬大氏
埼玉県出身の遠井敬大氏は、父の姿に憧れ家庭医という道を選択しました。医師5年目から診療所の所長を務め、家庭医としての研さんを積んできましたが、10年目には救急科での勤務を始めました。このようなキャリアを選択した遠井氏の考えとは――。
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事例
シングルマザー女医が我が子に伝えたいこと
女手一つでの2人の子育てに一段落ついたタイミングで、国境なき医師団(MSF)に参加し国際医療活動を始めるようになった橋本裕美子氏。初めてのミッションで見た現地の光景、現在の心境について聞きました。
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事例
バツイチ子持ちの麻酔科医が、中東へ行った理由
「国境なき医師団に応募しようと思う」。息子の受験が一段落し、娘が大学を卒業するタイミングで子供達にこう告げて、国境なき医師団に応募し、国際医療活動を開始したのが、橋本裕美子氏です。離婚を経験し、幼い子供二人を抱え八年間のブランクを経て復職。シングルマザーと医師の両立に苦労してきたという橋本氏。50代で国際医療活動に踏み出した理由と、現地での活動を経験したあとの今の心境について伺いました。
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事例
「アラブ人が日本で医師になれるわけない」そんな先入観をこわしたい─オサマ・イブラヒム氏
ほぼ前例のない、アラブ人による日本での医師免許取得──。そんな難題に、あえてチャレンジしたエジプト人医師がいます。東京歯科大学市川総合病院で眼科医として後期研修中のオサマ・イブラヒム先生。ソフトな語り口に穏やかな笑顔が印象的なイブラヒム先生ですが、医師免許取得に至るまでは苦難の連続だったそうです。慣れない文化環境での生活、日本語の習得、本業とアルバイトで激務の日々…。しかし、そんな様々なチャレンジが「自分を成長させてくれた」と語ります。その原動力や、日本とエジプトの医療の違いなどを伺いました。
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事例
「慢性期病院」像が崩れつつある?昨今のトレンド―坂上祐樹氏・vol.3
「伝統的にイメージされてきたような“慢性期病院”像は、徐々に崩れつつあるかもしれない」。そう語るのは、30代にして厚生労働省の医系技官を辞し、平成医療福祉グループに転職した坂上祐樹氏。医師にとっては、第一線を退いた後の活躍の場ともとられることがある慢性期医療。急性期の医療機関からは見えづらい面白さや、現場の様子について伺いました。
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事例
慢性期の現場に30代で飛びこんで思うこと―坂上祐樹氏・vol.2
10年間務めた厚生労働省を辞め、民間病院へと移ってきた坂上祐樹氏。現在は、慢性期の担い手として急性期経過後のケアに注力している平成医療福祉グループにて、30代という若さで複数病院の運営に携わっています。厚労省での経験を経、10年ぶりの臨床現場で感じることについて伺いました。