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総合診療の学び舎を 岩手の窮状を見てきた医師の挑戦―山田哲也氏(岩手医科大学)

2018年12月12日

大学卒業後から一貫して岩手県内の医療に携わり、県内の窮状を何度も目の当たりにしてきた山田哲也氏。そんな山田氏は、2018年5月から岩手医科大学救急・災害・総合医学講座 総合診療医学分野の助教に就任し、新たな挑戦を始めています。これまでどのような想いを持って、キャリアを歩んできたのかを取材しました。(取材日:2018年7月15日)

岩手県の医療の現状を目の当たりにする

―これまでの経歴を教えてください。

わたしは、学生時代から、総合診療や家庭医療の必要性を考えていました。祖父はいわゆる「町医者」でしたし、父も脳神経外科医でしたが、徐々に「町医者」の役割に変化していったのを、子どもの頃から間近で見てきました。そのため、医師といったら「町医者」のイメージが強く、高度分化した医療にどうしても違和感を拭えずにいたのです。自分の中でしっくりする医師像を探し求めていたところ、家庭医療を知り、将来は総合診療や家庭医療ベースに、地域医療の現場で患者さんに応えられるような医師になりたいと願っていました。

2007年に山形大学医学部を卒業後、妻の出身地でもあり、岩手県の太平洋沿いにある岩手県立宮古病院で初期研修を受けることを決めました。宮古病院の先生たちは、患者さんに「人として」接していらっしゃり、場数を踏んだ「地力」のようなものがあると感じました。まずは、へき地の現場に飛び込んでみて、「地域医療」のありのままを体験したいと思っていました。

ところが、研修を始めてすぐに循環器内科が閉鎖し、それまで対応できていたカテーテル治療は、車で片道2時間かかる盛岡市内の病院まで行かなければ対応できない状況に見舞われました。宮古病院は実質、地域唯一の救急病院だったので、循環器内科が閉鎖されても、循環器疾患の患者さんは搬送されてきます。専門医がいないことを理由に入院を断れば、盛岡まで搬送しなければならず、わたしも含めて循環器内科ではない医師が心不全患者の入院をできる限り担当していました。
一方で、へき地の診療所の医師も大変な苦労をされていました。ある公的診療所の先生は、人口5000人規模の地域を入院や訪問診療も含めて一人でずっと担当していて、完全に休めるのは1カ月に36時間しかない――。そのような状況下で、10年間働き続けていました。

東北のへき地は、総合診療医/家庭医どころか、救命救急に必須な主要な専門医も足りず、中核病院でさえ医師不足のために主要な診療科の閉鎖を余儀なくされる状況でした。それにもかかわらず、他の地方の知人からは「三陸ってどこ?」と言われることが多く、全国からほとんど関心が寄せられていないと感じていました。「地域の医療を真摯に守っている先生方に、なぜ日の目が当たらないのだろうか」という悔しさ、憤りにも近い感情がありました。

もし総合診療をベースにした医師のネットワークがあれば、孤独に地域の医療を守っている先生方も、中核病院で疲弊している専門科の先生方も助けられるのではないか――。そう考え、宮古病院に総合診療科が開設されればとも思いましたが、それは叶いそうにありませんでした。さらに、4年目以降、宮古病院に在籍していても認定内科医の資格すら取れないことが分かり、どのようにキャリアを歩んでいけばいいのか途方に暮れていました。

―それもあって、岩手県立中部病院に移られたのですか。

岩手県外の医局や病院も視野に入れて、総合診療/家庭医療あるいは総合内科の研修ができる環境を探していたのですが、岩手県内陸部に高齢の祖父が一人でいたこともあり、やはり県内にいたいという思いがありました。そんな折、祖父の住居の近くに、2つの県立病院が統合して新たに岩手県立中部病院として開院しました。総合診療科が新設されていたので見学に行くと、まだ発展途上という状況でしたが、わたしの恩師とも言える当時の院長が「ようこそ。待っていたよ、一緒にやろう」と言って握手してくださったのです。そう言われた瞬間「行くしかない」と直感的に決意し、2010年4月に赴任しました。
しかし、その頃には、それまで感じていた憤りや悔しさも、「地域医療の窮状は自分にはどうしようもない」という諦めに近い感情に変わってしまっていました。

震災で正気に戻された

―そこでも諦めずに、東北地方の医療に関わり続けられたのはなぜですか。

東日本大震災によって「このままではいけない!」と、もう一度奮い立たされたからだと感じています。

震災直後、何とか力になりたいと宮古病院に駆けつけました。宮古病院のスタッフの中にはご自宅が全壊して避難所から通われている方、家族と連絡が取れない方など大勢いらっしゃいましたが、皆さん自分の事は横に置いて献身的に働かれ、本当に頭が下がる思いでした。また先ほどお話しした診療所の先生は、紙のカルテが流されても、ご自身の記憶で診療を行い、津波に飲み込まれた診療所の泥の中から使用可能な薬剤を掘り起し、洗い、その薬剤を使用して、内服薬を処方しておりました。最悪な状況でも笑顔で患者さんやスタッフを励まし、できる限りの最善の対応を取り続ける姿勢にただただ頭が下がる思いでした。
私自身は、本当に無力で、何もできませんでした。条件が整った病院のハードの力、周りで支えてくださっているメディカルスタッフの助力を、自分自身の力と過信してしまっていたことに愕然としました。一人の人間として、人の心に寄り添いながらも、困難な状況を解決する力が全く足りていないことを痛感しました。
誰かのせいにするのではなく、自分から問題を解決する側に立たなければならない。そしていつかこの地域医療の現状に一矢報い、地域を守っている医療者が誰一人孤独な思いをすることなく、希望をもって働けるような総合診療のネットワークをつくりたい――。震災によって、正気に戻されたように、そう願うようになりました。

―その思いが、東北の若手医師ネットワークにつながっていったのでしょうか。

東北若手医師ネットワークは、自分がつくったものとは全く思っていません。願って動き始めたら、そのために必要な出会いを与えていただいて、押し上げられるように始まったと感じております。とても不思議な体験でした。

今後の総合診療のあり方について悩んでいたところ、若手医師が組織や立場を越えてつながる場「関西若手医師フェデレーション(関フェデ)」に関わっている先生方と出会う機会をいただき、それと同時に、東北地方でわたしと同じような志を持った先生とも巡り合うことができたのです。わたし自身が先頭に立ってネットワークをつくる自信は正直ありませんでしたが、関フェデの先生方にサポートしていただきながら、東北の先生方と協力して、東北若手医師ネットワークを構築していくことになりました。

現在は、企画・運営の継続性を考え、10年目までの医師・医学生だけのセミナー/交流会「UML(United Medical Leaders)」に引き継ぎつつあります。UMLは「同世代の医師と出会える場所、つくります」を合言葉に、2017年1月に始まった団体です。2018年11月には岩手で第7回のUMLの開催が予定されています(11月10日に開催)。今後、東北という地域や専門科の枠も超えて、若手の医師が繋がっていくと期待しています。

“岩手県にいること”を土台にしたつながり

―2018年からは、岩手医科大学の救急・災害・総合医学講座総合診療医学分野に在籍されています。なぜ大学に移られたのですか。

岩手県の総合診療部門は、県立病院を中心に少しずつ立ち上がってきたものの、大学には総合診療科がない状態でした。しかし、2017年に岩手医科大学に総合医学教室が開設され、教授から「岩手医科大学で一緒に総合診療をつくっていかないか」と声を掛けていただいたのです。

大学の教員というキャリアは、これまで全く考えていなかったので非常に悩みました。しかし、岩手に残るか、県外へ出て総合診療を勉強するか迷っていた医師3年目の時、自分自身が「岩手県に総合診療科の医局があったら迷わずに入るのに」と嘆いていたことを突然思い出しました。当時の自分に応えたいと直感したのが、一番大きな理由ですね。

―赴任されてまだ間もないですが、今後の展望を教えていただけますか。

縁あって、これまで臨床のみならず、医学教育を軸に、地域を超えて人をつなぐ活動に多く携わってきました。その経験を活かしながら、さまざまな診療の場面に柔軟に対応し、地域の患者さんを大切にして寄り添うマインドを持ち、専門領域や職種を超えたネットワークを大事にできる人財を育成していきたいと考えています。そして、ここで学んだ学生や医師たちが、総合診療科に進んでも、違う科に進んでも、それぞれがつながりを持って協力し合い、さらには診療所の先生たちとも交流を持ちながら、診療科や組織、立場の区別なく、岩手県の医療を支えていく――。つまり、“岩手にいること”を土台にこの地での医療に喜びを持って従事できる。そんな医療現場にしていくために、関わる一人一人を励まし、サポートしていきたいですね。

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