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憧れのアフリカへ 医師が写真に目覚めるとき―医師と2足のわらじvol.3(前編)

2018年12月14日

井上胃腸内科クリニック(神奈川県横浜市)の院長を務めながら、自然写真家として毎年欠かさずアフリカのサバンナに通い続けている井上冬彦先生。前編では、動物や海洋生物学に興味を持ちながらも医師という道を選択した理由、写真を始めたきっかけについてお話を伺いました。(取材日:2018年11月6日)

医師になるのが怖かった

―ライフワークとして、アフリカのサバンナに30年以上通い続けている井上先生。やはり少年時代から、自然や動物が好きだったのですか。

そうですね。子どものころは、人と接するのがとても苦手だったんです。家の近くに多摩川や雑木林があったので、ひとりでよく魚釣りや昆虫採集に行っていました。自然をテーマにしたテレビ番組も好きでしたね。父が蝶の採集を趣味にしていたので、その影響も少なからずあったと思います。父の本棚にあった、クシーメック博士の『セレンゲティは滅びず――地上最後の野生王国』を繰り返し読み、まだ見ぬ野生動物たちに思いを馳せているような子どもでした。小学生のころは「動物学者になってライオンやチーターのいるアフリカに行ってみたい」とぼんやり憧れていました。高校生になると海洋生物学に興味が出てきて、大人になったらダイビングをして水中写真を撮りたいとも思っていました。写真部をちょっとのぞいたりもしましたが、写真そのものにはあまり興味がわきませんでした。

―生物に強い興味を抱きながらも、医学の道へ進んだのはなぜですか。

わたしは両親ともに開業医で、小さいころから「医者になれ」と言われて育ちました。しかし、人と接することが苦手だったため、人と関わる仕事は向いてないと思っていたんです。そのため、医師になるのが怖かった。親に反発して、自分の進路は自分で決めたいという気持ちがある一方で、医師という職業に憧れを抱いていたのも事実。本当に動物学者や海洋生物学者になりたかったら、なっていたでしょう。人から見たら恵まれた立場にいることもわかっていました。それなのに、挑戦もしないで逃げるなんて情けないと思って――。

いろいろと迷いや葛藤はありましたが、大学受験では医学部しか受けませんでした。向いていないと思いながらも医師になりたい気持ちはあったわけですから、逃げずに「いったん医者になってみよう」と決心したのです。

―内科医を選んだ経緯について教えてください。

どこか一部に特化するのではなく、人間の肉体をトータルで診られるようになりたかったからです。しかし、例によって人と接するのが苦手なため、怖い気持ちもあって――。迷いに迷って、とりあえず研修を受けて、臨床がダメだったら基礎医学に行こうと決めました。
いざ研修が始まると、頭で思い描いていた内科医と実際の内科医は、全然違うことがわかったんです。人と話すのが苦手だなんてあまり関係ない。自信がなかったので一生懸命勉強して、担当する患者さんに張り付きました。すると、研修医でありながら指導医以上に患者さんから信頼されるようになったんです。しっかり勉強して熱意を持ってやれば、人と話したり、接したりするのが苦手な自分でも内科医になれることがわかりました。

医師として患者さんを診るようになってから、おかしいと感じたことが二つありました。一つは、病態を理解せずに安易に対症療法に走っていること。もう一つは、死が悪いとされていること。死は逃れられないものなのに、なぜそれが敗北なのか。おかしいと思っても答えは出ないし、仕事は次から次へとやってくる。そのうえ、わたしは心身が頑丈な方ではないため、ストレスをうまく発散しないとダメになってしまうタイプ。それを発散する場所が、子どものころから好きな「自然」だったんです。釣り、サイクリング、ダイビングなど、いろいろ手を出しましたが、どれも長続きしませんでした。そして、30歳を過ぎて当時抱えていた仕事がひと段落したころ、「ずっと行きたかったアフリカに行こう。あの大自然を自分の目で見てみよう」と決意したのです。

サバンナでの感動を伝えるために

井上胃腸内科クリニックでは、院内のさまざまなところに、井上先生が撮影された写真が飾られている

―初めてアフリカに行ったのは1987年、先生が32歳のときだったと伺っています。

パッケージツアーに参加して、東アフリカのケニアに11日間行きました。初めてサバンナの大地に立ったときは、ものすごく感動しましたね。夢にまで見た大自然の中に野生動物がたくさんいて、その動物たちも、日本では見られない大草原の風景も、朝日も夕日も、何もかもが美しくて――。そのときは父に借りたカメラと36枚撮りのフィルムを7本持っていきました。けれども、ケニアの大自然を目の前にすると「この強烈な感動を人に伝えたい!」という思いに突き動かされ、夢中でシャッターを切るうちに、フィルムはすぐになくなってしまいました。

帰国してから撮影した写真を見てみると、まともな写真なんて1枚も撮れていませんでした。ピンぼけばかりだし、写っている動物も小さい。それがすごく悔しくて――。感動はもちろん悔しさも含めて、ここまで心が動いたのだから、その思いに従おう。もう一回アフリカに行こう、と素直に思いました。その半年後、タンザニアに11日間行きました。大学病院に勤めていたので、かなり無理をして休みを取りましたが、当時のわたしには「行かない」という選択肢はなかったんです。
2回目は自分で買ったカメラを持参。前回同様、まともに撮れた写真は1枚もありませんでした。きちんと写真を勉強しないとダメかなと少し思いましたけれど、わたしは医学でも写真でも人に習うのは嫌いで(笑)。最初は本も買いましたが、「こんなの読んでもダメだ」と3日で捨てました。だから、写真は完全に独学。わたしの先生は「自分の失敗作」だけです。それからは半年に1回ずつ、30年以上ずっと東アフリカ(ケニアとタンザニア)に行き続けて今に至ります。

朝日とキリンのカップル(撮影:井上冬彦)

―なぜ、東アフリカに行き続けるのでしょうか。

大きく二つ理由があります。一つは、わたしが写真を続けていくモチベーションが「感動」であること。行くたびに感動があり、その感動がわたしを変えたと思っています。また、感動に導かれるように撮りたい写真のテーマも自ずと見つかってくるんです。最初は『感動を伝えたい』、次に『人を癒す写真が撮りたい』と思っていましたが、今では命を表現するために写真を撮っています。
もう一つの理由は――これは後々気付いたのですが、自分を癒すためです。アフリカに初めて行ったころは、家族が病気で、心身ともに負荷が強く、毎日をギリギリの状態で生きていました。そんな中、アフリカに写真を撮りに行く度に癒されて、「また半年がんばろう」と元気をもらっていたのです。アフリカの大自然には何度救われたかわかりません。不思議なことに、このような時に撮った写真の多くには人を癒す力があり、また人を癒すことで自らが深く癒されていくのです。この循環がなければ、大学病院の激務をぬって通い続けるなんて不可能だったと思っています。

多摩川で生まれた、三つの夢

―写真を始めてから、国内で撮影はしなかったのですか。

最初のころは練習として、多摩川に行って鳥の写真も撮っていましたね。そのうち、三つの夢ができました。写真展を開くこと、自費出版ではない写真集を出すこと、海外で写真集を出版すること。多摩川で知り合った写真仲間に話すと、「こんなに下手なのに、できるわけないだろ」と、さんざんバカにされました。でも、できないなんて思ったことはなかったんです。

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