ほぼ前例のない、アラブ人による日本での医師免許取得──。
そんな難題に、あえてチャレンジしたエジプト人医師がいます。東京歯科大学市川総合病院で眼科医として後期研修中のオサマ・イブラヒム先生。ソフトな語り口に穏やかな笑顔が印象的なイブラヒム先生ですが、医師免許取得に至るまでは苦難の連続だったそうです。慣れない文化環境での生活、日本語の習得、本業とアルバイトで激務の日々…。しかし、そんな様々なチャレンジが「自分を成長させてくれた」と語ります。その原動力や、日本とエジプトの医療の違いなどを伺いました。
日本で医師になったのは、“神様のプラン”
―来日の経緯について教えて下さい。
もともと世界基準の医療を学びたくて留学するつもりでした。エジプト人医師の留学先は、アメリカやイギリスが一般的です。母国では英語で学ぶので言葉の壁がないし、実績豊富なので雰囲気もだいたいわかる。確かにトラブルは少ないでしょうが、あまりチャレンジングではありません。
一方、日本は言語のハードルが大きく、違う星といってもいいほど遠い存在でした。本当に日本語を喋れるようになるのか、日本で医師になれるのか、不確定なことばかりです。でも、自分の手で新たな道を切り拓いてみたい。その思いで日本行きを決心しました。
とはいえ、当初は日本とアメリカどちらに行くか、迷っていた時期もありました。いろんな出来事が積み重なって、次第に「神様が私を日本に行かせようとしているのかな」と感じるようになったのです。
たとえば、大学四年生のとき、短期留学先としてイタリアのパレルモ大学に応募したのですが、普段ならイタリアは競争率が高くてなかなか行けないんです。けれど、このときはなぜかすんなり面接を通過できた。そこで日本人と出会って仲良くなったことも来日を後押ししました。ちなみに、その日本人は現在私の妻です。
あとは、書類の準備も日本だとすごくスムーズに進んだり。いずれも些細なことかもしれませんが、“神様のプラン”があって「オサマは日本を選ぶでしょ」と導かれているように感じた。どうなるかわからないけど、この選択が将来何かにつながるのでは、と思ったんです。
激務の中でのラマダン、平等な医療システム…日本とエジプトの違い
―日本での生活にはすぐ馴染めたのでしょうか。
文化が全然違うので、最初は慣れないことも多かったです。
たとえば食事です。私はイスラム教徒なので飲酒しないし豚肉も食べません。そのことについて、食事の席でよく「なぜ?」とつっこまれるのに戸惑いました。
また、ラマダンといって一定の期間、日の出から日没の間は飲食を断ち、神の恵みに感謝する習慣があるのですが、病院で働きながらちゃんと実行できるかという不安もありました。朝は外来、午後にオペや救急を対応して夜は当直、というハードスケジュールの中で、耐えられるのかと…。最初のうちは、念のため食べ物や飲み物も準備するようにしていましたね。でも、意外とうまくいきました。
―医療に関しては、どのような違いを感じましたか。
エジプトでは、経済的・地域的な格差がまだ大きいです。富裕層は高級な私立の病院ですぐに治療を受けられますが、一般の人々は大学病院で治療を受けるため長時間待たなくてはなりません。1週間以内に内視鏡手術をやるべきなのに3ヶ月待たなければならず、その間に増悪してしまうという悲しい現象が起きています。
日本では皆保健制度があるためみんなが平等な医療を受けることができる。しかも、へき地でもオンラインカンファが盛んで医師同士コミュニケーションを取り、症例について相談をし合える環境が整っています。都心部だけでなく地域医療の質が担保されている点は素晴らしいですね。
また、日本には治療だけでなく、患者さんの精神的な面までフォローされている先生が多いと思います。朝だけでなく夜も回診があって、手術の前夜には「明日はがんばりましょう」と励ましてくれる。医療もサービスも丁寧でこまやかです。日本の医師が多忙なのは、こうした丁寧さ故という側面もあるのでしょう。
エジプトでは医師の労働時間はもっと短いので、大学病院で勤務する傍ら、自分のプライベートクリニックを開いている医師が少なくありません。大学病院でスキルを磨き、あいている時間は自分の外来で患者さんを診ることで所得を増やしたり、退職後の足がかりにしています。
医師免許取得までは、暗闇を手探りで歩くような日々
―来日してから、一番苦労されたのはどんなところでしょう。
エジプトの医師免許は日本では使えないので、改めて日本の医師免許を取得しなければなりません。しかも、そのためには日本語検定1級に合格しなければならない。想像はしていたけれど、日本語の勉強をしながら医師免許取得を目指すのは精神的にも肉体的にもきつかったですね。
大学院生時代のスケジュールは、朝の外来対応後、実験やデータ分析、カンファなどを行って23時に帰宅。それから2時間、日本語を勉強します。どんなに忙しくても、学会があっても病気になっても、日本語の勉強は一日も欠かさず続けました。
応えたのは、それだけ努力しても日本で医師になれるという見通しを持てなかったことです。アラブ人が日本で医師免許を取得した、という話は当時聞いたことがありませんでした。日本の社会は前例がないことに対して厳しい部分があります。一生懸命日本語と医療を勉強して、4年後に医師になれなかったら大ショックです。
私のチャレンジに対して、ネガティブな反応を示す人もいました。「日本語なんて絶対話せないよ」「日本語検定1級をとれてもアラブ人の医師のところに患者さんはこないよ」「患者さんがきたとしてもきっとトラブルになるよ」と。暗くて先の見えない道を歩くようで、とても辛かったですね。
“諦めない精神”を培った原体験とは
―それでも、挫けずモチベーションを保つことができたのはなぜですか。
一度成功体験を味わったことで、“諦めない精神”が身についたのでしょう。私の両親は医師ではありませんでしたから、エジプトでアレクサンドリア大学の医学部を目指していたときも、入学は絶対無理だと言われました。けれど、信じて努力して、医師になることができた。この体験がチャレンジの原動力になっていると思います。
たとえば自分が5キロ走る能力があるとして、5キロしか走らなければそれ以上自分の能力は伸びないし、達成感もあまりありません。でも、がんばったら10キロ走破できた、そのときの喜びは非常に大きいです。3回目のチャレンジの末、ようやく日本の医師免許を取得できたときはすごく嬉しかった。最初は合格したことが信じられなくて、友人に「これ私の番号だよね?」と合格者一覧を一緒に確認してもらったくらいです(笑)。困難な挑戦であればあるほど、達成したときは本当にハッピー、うまくいかなければ心底辛い。様々な感情を味わいます。それが生きることだと思うんです。
それに、チャレンジすると新たなスキルも身につきます。来日後、生活費を稼ぐためにいろんなアルバイトを経験しました。NHKのアラビア語講座への出演もその一つです。カメラの前で多くの人に向かって語りかけるという経験が、いま、学会発表でも緊張せず話せることにつながっています。新しいことへの挑戦が、結果的には自分自身の可能性を広げていってくれるように感じるんです。
―日本で医師をするにあたって、心がけていることがあれば教えて下さい。
日本に限りませんが、私は患者さんを自分の家族の一員だと思って接するようにしています。高齢の女性なら祖母のように、若い男性なら弟のように。そして、患者さんの立場にたって、自分がしてほしい診察や対応を心がけています。たとえば、私が患者だったら医師にはきちんと自己紹介してほしいし、説明も丁寧にしてほしい。患者さんの気持ちを考えて、声の高さや目線などにも配慮します。
最初は外国人である自分がどう受け止められるのか心配でしたが、知識を身につけしっかりコミュニケーションをとれば外国人かどうかを気にする患者さんはあまりいないです。「先生はちゃんと説明してくれるし、優しい」と言ってくださる方もいて、励みになっています。
エジプトと日本をつなぐ、架け橋になりたい
―今後はどのようなことにチャレンジしていきたいですか。
医師としてのスキルを磨いて、日本語ももっと勉強して、ゆくゆくは日本とエジプトの架け橋になりたいですね。エジプトのメディアは日本の医療や文化に非常に関心を持っていますし、私のところにも「日本で医師になりたい、どうすればいいか」という問い合わせが殺到しています。言語の壁さえ乗り越えられれば、もっと距離が近づくはずです。日本での医師免許取得のステップやアドバイスを発信するなどして、私のような苦労はせずにすむようお手伝いできればと思っています。
また、日本の医療を学びたいという人を日本に呼んだり、日本の医師にエジプトでオペをしてもらったりして学べるようにできないか、と検討しています。知識やスキルをシェアして、多くの人の助けになれるようシステムをつくっていきたいです。
昔は目的を達成した瞬間だけがやりがいだったけれど、最近はゴールにたどり着くまでのプロセスも楽しみたいと思うようになりました。日本で医師免許を取得するまでの日々は心配や不安ばかりで全然自信が持てなかった。あの頃の自分に、「もっと楽しんで」と言ってあげたいです。当時の私と同じように自信を持てないでいる方もいるかもしれませんが、人間は努力すればいろんなことを叶えられます。「自分はこんなこともできるのか」と発見すると本当にわくわくする。今後も新しいことにチャレンジし続けたいですね。
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