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医師として、ランナーとして。「マラソン」を追求する理由 ―福田六花氏(介護老人保健施設はまなす)

2018年10月11日

趣味のランニングが高じて、マラソン大会のランニングドクター、レースプロデューサーを務めている福田六花先生。消化器外科医としてキャリアをスタートさせ、現在は、山梨県にある介護老人保健施設はまなす施設長、山梨県老人保健施設協議会・会長として活躍しています。ランニングが医師業に与えた影響、キャリアの変化や拡がりについて取材をしました。(取材日:2018年9月6日)

消化器外科医から、介護老人保健施設の施設長へ

―ランニングを始めて、職務内容、居住地、性格まで大きく変化した福田先生。そもそも、何がきっかけで走りはじめたのでしょうか。

聖マリアンナ医科大学卒業後、わたしは母校の外科医局に入局しました。消化器外科医として研さんを積み、大学院を卒業して医学博士を取得した後、地域医療で有名な諏訪中央病院に2年間出向することになったんです。同僚から、「先生、秋に開催される『諏訪湖マラソン』に出ましょうよ」と誘われ、それがきっかけで走り始めるようになりました。
当時のわたしは、不規則な生活や元来のグルメ志向が影響して過食に走り、174cmながら体重が90kg台という肥満体でした。走ることには気乗りしませんでしたが、「同僚と一緒なら楽しいだろうし、申し込めば練習せざるを得なくなるし、エントリーしてみよう」と軽い気持ちで申込用紙を提出。レース中はかなりしんどかったですが、ゴール後はこれまでにない充実感を味わい、ランニングの楽しさにすっかり魅了されてしまったのです。

―2年間の出向を終えた後は、大学病院に戻って働いていたのですか。

そうですね。ただ、2年の間でわたしはすっかり別人になりました。

性格に関して言えば、かなり短気で部下に怒鳴り散らすこともあったわたしが、ランニングを始めてからは、とても根気強くなりましたね。もちろん、医療への向き合い方も変化しました。かつて抱いていた、大学である程度のポジションを築き上げたいという野望は消え、諏訪中央病院で経験した患者さんと近い距離での診察――いわゆる地域医療に取り組んでいきたいと思うようになりました。地位や名誉にとらわれず、できるだけ広い範囲で一人でも多くの人の役に立ち、自分の力量を発揮していきたいと考えが変わっていったのです。また、わたしは東京都で生まれ育ったため、出向するまでは都会の生活しか知らなかったのですが、出向中に自然豊かな環境での暮らしにすっかり魅了されてしまいました。今後のキャリアについて考えながら働くうちに1年が過ぎ、大学病院を辞めて、ランニングに適した自然豊かな地域を見つけて開業しようと決意したのです。

しかしその矢先に、大変お世話になっていた先輩から「辞める前に、公益財団法人がん研究会・がん研究所に国内留学をして、研究面でサポートしてくれないか」と依頼されて――。先輩の頼みなら…と退局を踏みとどまり、がん研究所の病理部で大腸癌染色体分析の研究に3年間従事。その後に大学病院を辞し、フリーランス期間を経て、現在に至ります。

―消化器外科医から、介護老人保健施設の施設長にキャリアチェンジした背景について教えてください。

かつて思い描いていた、自然豊かなところに移住して、地域医療に従事するプランを実現すべく動き出したところ、タイミングよく複数の医療機関からオファーをいただいてきました。そのうちの一つが当院の関連施設である、カイ虎ノ門整形外科(当時)。それまで山梨県には縁もゆかりもなく、病院見学で初めて河口湖を訪れました。周辺を自分の脚で走ってみて、「ここに住んでみたい」と思い、理事長との面談を経て、2002年4月に消化器外科医として入職したのです。

入職から半年経った頃、理事長から「敷地内にオープンする介護老人保健施設の施設長がなかなか決まらない。決まるまで施設長をお願いできないか」と依頼があり、期間限定のつもりで就任。開設すると90床がすぐ満床になり、その忙しさに外科医との両立は難しいと早い段階で確信しました。施設長として働くうちに、入所者を通じてそのご家族がこれまでさまざまな葛藤や負担を抱えてきたこと、当施設がその支えになれていること、そして、多くの方にとって必要不可欠な場所であることを実感。今後、高齢化が進むにつれてさらに需要が高まることも強く感じました。次第に「片手間ではなく、きちんと腰を据えて業務にあたりたい」と思うようになり、施設長に就任して半年後、施設長専従にしてほしいと申し出ました。
当施設は、開設当初から現在まで、地域唯一の介護老人保健施設。町の規模的にも、業務を通じて地域全体を見渡すことができるので、ある意味で地域医療に近いことができているとも感じています。個人的には、この領域は患者さんだけではなく、そのご家族のみなさんの助けにもなれているという手ごたえを感じる瞬間が多いように思います。3年前からは山梨県老人保健施設協議会の会長を務めており、やっと、地域のみなさんに役に立てているのかなと思えるようになってきました。

「医師」の経験をランニングのフィールドで発揮

―河口湖に移住されてから、ますますランニングに打ち込んだ福田先生。「医師」として、ランニングというフィールドで活動するようになったきっかけを教えてください。

ランニング仲間の医師に誘われて、NPO法人日本医師ジョガーズ連盟に入会し、第1回東京マラソンでランニングドクターとして医療支援をしたことですね。
日本医師ジョガーズ連盟とは、走ることを習慣としている医師・歯科医師の全国組織で、市民の健康増進を目的にさまざまな活動に取り組み、多くのランニング大会で医療支援活動を行っています。ランニングドクターとは、その名の通り「走る医者」のこと。走りながら医療監視をするので、ある程度の走力、一定のペースで走ることができる力がないと務まりません。そして、ランナーに何かあったときに、その状態を瞬時に判断し、適切な対応ができるスキルが求められます。3~5万人がフルマラソンを走ると1人が心肺停止をするというデータもあることから、走っている最中に“帰らぬ人”となってしまう可能性は、誰にでもあります。そのような事態を防ぐためにも、医師はそれとわかるゼッケンをつけて走り、ランナーが安心して走れる環境をサポートしているのです。

さまざまなご縁があり、現在は複数のランニング大会のプロデュースもしています。具体的な職務としては、大会のコンセプトメイキング、コースの選定・決定、地域関係者との調整、 各種スタッフの確保と配置など、多岐にわたります。もちろん、ランニングドクターとしての活動も継続していますが、日本医師ジョガーズ連盟所属というよりも、個人的なつながりで声をかけてもらう機会が多いですね。マラソン大会は規模が大きければ大きいほど、救護をより手厚くする必要があります。そういうときに、自分自身がその対応をできたり、アスリート系の医師仲間に協力要請できたりすることに助けられたりもしていますね。
8月下旬に、山日YBS富士吉田火祭りロードレースという富士北麓公園で行われたマラソン大会がありました。ゲストランナーとして呼ばれていたのですが、大会当日は朝から気温が高く、ランナーへの身体的負担、それによって起こりうる不調を鑑み、主催者に依頼してランニングドクターとして走らせてもらうことに。レース中に具合が悪くなったり、レース終了後に熱中症で倒れたりしたランナーの救護にあたり、なかなか忙しかったですが、医療とランニングに精通している自分の強みをしっかり発揮することができたのではないかと思っています。

―ランニングはもはや趣味ではなく、ライフワークですね。

そうですね。ランニングを始めて、さまざまな人と出会って、自分自身が健康になって、人生がより面白いものに変わりました。自然豊かな地域で働きたいと思うようになったのも、大学病院を辞して現職を務めているのも、ランニングがなかったら考えられなかったこと。もしもランニングに出会っていなかったら、今も大学病院に籍を置いて働いていたと思います。今のようなキャリアは全く想定外でしたが、結果的には、これまでの経験を活かしながら自分がやりたい医療ができていると感じています。

運動するきっかけをつくることで、健康をサポートしていきたい

―今後の展望についてお聞かせください。

市民のみなさんに、日常的に走ったり、歩いたりする文化を定着させていきたいですね。

老人介護領域に携わる者としては、しばしその財政状況に課題を感じることがあります。その課題解決を図る一手として、医療費の抑制が挙げられます。2015年時点の日本の医療費は約42兆円。たとえば、日本人の2人に1人が運動を習慣化できれば、生活習慣病の予防につながり、医療費を浮かせることができるのではないでしょうか。わたしは、その選択肢として、ウォーキングやランニングを提案したい。専用の靴さえあれば、場所を選ばずに身一つで取り組むことができるからです。わたし自身、肥満体だった頃は急に胸が苦しくなることがあり、心筋梗塞の予備軍だったと思います。それが、ランニングを習慣化してからは30㎏以上減量することができ、自分の脚でどこにでも行ける身体を手に入れることができました。

先ほど、ランニング大会をプロデュースしているとお伝えしましたが、これはいろんな人に走る機会をつくりたいという思いから引き受けています。たとえば、南魚沼グルメマラソンは走りやすい5km部門を設けており、大会参加者はゴール後に南魚沼産コシヒカリが食べ放題、レースの制限時間もかなりゆったりしたものと参加しやすい仕掛けをしています。「これくらいならできそうかな」、「楽しそうだから参加してみようかな」という、そういうきっかけをつくることで運動する習慣につなげていってもらえたらうれしいですね。これからも、生業の医師、ライフワークのランニング、双方から市民のみなさんの健康を「走れる医者」としてサポートしていきたいと思います。

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