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地元の医療を支えるために。家庭医が追求したもう1つの専門性 ―遠井敬大氏(東京医科大学病院)

2018年10月9日

埼玉県出身の遠井敬大氏は、父の姿に憧れ家庭医という道を選択しました。医師5年目から診療所の所長を務め、家庭医としての研さんを積んできましたが、10年目には救急科での勤務を始めました。このようなキャリアを選択した遠井氏の考えとは――。(取材日:2018年6月28日)

医師5年目で診療所所長に

―家庭医を志した理由を教えてください。

父が埼玉県で開業しており、その姿に憧れて家庭医を志すようになりました。父は外科出身だったので手術もしていましたが、専門に限らず何でも診ている印象で、患者さんの年齢層も幅広かったんです。父のように、何でも診られる医師が理想の医師像となっていきました。

医学生になり、病院実習でさまざまな診療科を回るものの、多くの家庭医の先生方が経験をしているように、なかなかイメージに合致する診療科がありませんでした。大学4年生になり進路に悩んでいる時、医学部内で無料配布されていた週刊医学界新聞をたまたま手にとって読んでいたら、その号が家庭医特集だったのです。それを読んで、「自分がやりたいのはこういうことかもしれない」と自分の将来像が見えてきました。それまでは家庭医そのものを知らなかったので、急に道が開けた気がしましたね。

初期研修先をどこにしようか考え始めたころ、父が急逝したこともあり、初期研修は自宅から通える埼玉医科大学総合医療センターで受けることにしました。後期研修は、東京医科大学総合診療科に新設された家庭医療プログラムを専攻。修了直後から、神奈川県川崎市にある川崎セツルメント診療所の所長を務めることになりました。

―後期研修修了後すぐ、診療所の所長になった背景とは。

後期研修プログラム最後の1年間、あさお診療所で研修をしていた際に週1回だけ勤務していたのが、川崎セツルメント診療所でした。わたしは診療所で働きたいと思っていたので、研修修了後に大学病院に戻るか、そのまま診療所に残るか悩んでいたのですが、大学の教授から「診療所に行ったらいいよ」と言っていただき、診療所での勤務を決意しました。
ところが、あさお診療所には医師が充足していて――。そこで、常勤医師が不在だった川崎セツルメント診療所に、所長として入職することを提案されたのです。

―医師5年目で診療所の所長を務めることに、迷いや不安はなかったのですか。

最初は、前日まで研修医として勤務していた診療所で、翌日から所長として働き始めることに不安を感じました。ただ、将来的に父が開業していた場所でもう一度医院を開く夢を実現させることを考えると、診療は1番手でその他のマネジメントにも責任を持つ環境に身を置くことが、自分自身にとって有益だと思ったのです。そのような思いがあり、若いうえに未経験な部分も多かったですが、思い切って所長を引き受けることにしました。

医師10年目、家庭医から大学病院救急科へ

―5年間所長を務めた後、埼玉医科大学総合医療センター救急科に勤務されたのはなぜですか。

大きく2つの理由があります。まず、これまで家庭医として10年間キャリアを積んできましたが、当初思い描いていたような「何でも診られる医師」になれたのだろうか、と立ち止まって考えたときに、まだまだ足りないものがあると感じたためです。次に、地元かつ将来の開業地となる埼玉県の救急医の負担を軽減したいと思ったからです。埼玉県の医療課題は、医師が非常に少ないことで、また救急医療体制が十分機能していないことです。家庭医として開業しても、ある一定の時間帯に救急の手伝いに入る働き方をすることで、埼玉県の救急医療の課題を少しでも改善したいと考えています。

家庭医として開業するために何よりも必要なのは、診療所で求められる知識と技術です。病院で求められるような手技や知識は、あまり必要ありません。しかしながら、目の前の患者さんに必要な治療レベルを判断しなければならないとき、病院レベルの知識があった上で判断する方が患者さんへの説得力が違います。
診療所にも急患は来ます。そのときに、自分ができる範囲で対処すれば、患者さんがわざわざ大学病院に行く必要がなくなり、救急現場の負担を少しは軽減することができます。このような思いから、救急医療をもう一度学ぼうと思ったのです。

―診療所の家庭医と大学病院の救急医では、環境が大きく違い、苦労も多かったのではないですか。

救急科の先生方からは、10年目の総合診療医は「何でも診断できる」というイメージを持たれ、自分たちで診断がつかない患者さんの診断もつけられると期待されまました。総合診療医は「診断医」のイメージが強かったのではないでしょうか。しかし、わたしの専門は家庭医療で、診断に特化したものではありません。そのあたりが理解されなかったのは辛かったです。一方、細かい事情を知らない他科の先生方からは、10年目の救急医として見られます。一人で当直をしていても、他科の先生からどんどん「救急医」のわたしに相談の電話がかかってくるわけです。しかし、わたしの救急医としてのスキルはまだまだ未熟なレベル。周囲の期待と自分のスキルのギャップに、ストレスを感じることもありました。そのギャップを埋めるためにも、とにかく初心に返り、研修医1年目と同様に率先して診療を行っていきましたね。

救急、教育面の充実をはかる

―今後の展望は、どのように考えているのですか。

何度か話に出ましたが、父の開業していた地にもう一度開業したいですね。地域の人たちがワイワイ集まれる場づくり、住民がその地域で最期まで暮らせるような仕組みづくりを実践していきたいです。ゆくゆくは家庭医・救急医双方に勤務してもらいながら、地域の救急医療にも可能な限り貢献していきたいですね。例えば子どもが頭を打ったとき、小児科医は外傷は診られないと断り、外科医は子どもだから診られないと断る。そこで1時間近くかけて大学病院の救急を受診するのですが、多くの場合、大したことはなくそのまま帰宅することになります。そのような患者さんが多数いると救急医療はパンクしますし、患者さんの負担も多くなるばかり。その状況を改善するためにも、可能な限り、地域の患者さんを地域で完結させたいです。

わたし自身、家庭医の研修を受けようとした時に、埼玉県内で研修施設がありませんでした。そのため県外で研さんを積んできましたが、やはり地元の人が地元で研修をして、その地域の医療を担っていくことが理想だと思います。現在は大学院での研究の傍ら、自分が培ってきた経験を後輩に還元することを目的に、総合診療科の家庭医プログラムの指導医として、東京医科大学病院の総合診療科に勤務しています。この経験を活かして、埼玉県で家庭医を志望する後輩たちが県内で研修できるよう、教育施設としても勉強の場をつくっていきたいですね。

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