累計100万部を誇るミステリー小説『天久鷹央』(新潮社)シリーズをはじめ、医療などをテーマにヒット作を発表し続けている、医師兼作家の知念実希人氏。医師の家系に生まれ、ごく自然な流れで「将来は医師になる」ことを目標にしていたと語ります。しかし、臨床研修制度の一期生として臨んだ初期研修中に、同氏が選んだのは幼い頃からの夢であった小説家という道でした。その背景にはどのような思いがあったのでしょうか。また、小説家になる覚悟を決めたうえで認定医資格を取得した理由とは──。(取材日:2018年12月20日)
医師は“現実”
――先生は内科認定取得後に小説家デビューされていますが、最初から医師を目指していたのでしょうか。
僕にとって、医師は“現実的な目標”だったんです。うちは代々医師の家系で、曾祖父から続いて僕で4代目になります。親戚の叔父も弟も医師ですし、もう稼業のような感じで(笑)。全員内科医です。特に「内科医になれ」と言われたわけではないのですが、結果的に僕も同じ道を選びました。
小さなころから父の背中を見て育ち、医師としての父を尊敬していましたし、素晴らしい仕事だなというのは幼心に感じていました。だから僕自身、自然と「医師になりたい」という気持ちを抱くようになりましたね。それに、医師になるための道なら周囲がよく知っているわけです。逆にそれ以外の職業はどうすればなれるのか、よくわからない。そういう環境でしたので、他の職業に目を向ける機会もなく育ちました。
医師になるのはもちろん簡単なことではありません。でも、医学部で学んで、国試に合格し、研修を受け…と超えるべきハードルが明確なので、なると決めたらどうすればいいかはわかっています。中学~高校1年くらいまでは成績が悪かったんですけど、高校2・3年とものすごくがんばって、慈恵医大の医学部に現役で合格することができました。慈恵医大を選んだのは、やはり父の影響でしょうか。うちの家系は国立よりも、エッジの効いた私立を選びがちなんです(笑)。
ミステリーブームに捧げた青春時代
――小説家になりたいという気持ちはいつごろから?
幼稚園のころから本が好きで、物心ついた時には「物語を書く仕事につきたい」という想いがありました。小説はもちろん、映画や漫画も好きで、ストーリーをただ楽しむだけじゃなく、つくる側に回ってみたかったんです。野球好きな子どもが「プロ野球選手になりたい」というのと同じ、憧れまじりのごくぼんやりした“夢”ではありますが、「小説家になりたい」という気持ちは常に抱いていました。
――どんなジャンルの小説がお好きでしたか?
断然、ミステリー。ポプラ社の「怪盗ルパン全集」など子ども向けの読みやすいものから入って、シャーロック・ホームズ、アガサ・クリスティ、エラリー・クイーンといった海外ミステリーの王道作品を、片っ端から読破していきました。中高生のころは年間200~300冊は読んでいたと思います。
僕が高校生のころ、ちょうど「新本格ブーム」が絶頂期を迎え、国内でもミステリ―小説の一大ムーブメントが起きました。まず島田荘司先生が火をつけ、綾辻行人先生の「十角館の殺人」で爆発した。法月倫太郎先生や有栖川有栖先生など新進気鋭の書き手が相次いでデビューし、出版社各社からノベルズの新刊が毎月5冊、10冊と、多くの作品が生まれた時期でしたね。一方で赤川次郎先生、西村京太郎先生といった大御所の先生の作品もどんどん刊行されていたので、読む本には困らなかったです。
初期研修中の決断
――「読み手」から「書き手」へと意識が切り替わった転機はなんだったのでしょうか。
新本格ブームが下火になっていったのが要因だったように思います。ブームの過熱によって、「出せば売れる」とばかりに実力の伴わない新人作家も増えました。段々トリックも出し尽くされて、ジャンル自体が劣化してしまった。クオリティの低い、読むに堪えないような作品を目にして、「自分が書いたほうがおもしろくできる」と感じたんです。おもしろい小説を読みたい、というシンプルな理由で、受験勉強の合間に短編の推理小説を書くようになりました。ミステリー作家の登竜門的な文学賞の一つに投稿して、一度掲載されたこともあります。
ただ、それ以降は10年間、まったく書かなくなりました。小説家はどこの学校に入れば道が拓けるというものではありません。どういったステップをとればいいのか判然としない。そういう漠然とした“夢”に対し、医師になるための修業という“現実”が非常に大きくて。勉強や、部活でやっていた合気道も忙しく、書いている時間はなかったですね。
大学卒業後は慈恵の第三病院で2年間の初期研修を受けました。研修を始めて一年半くらいで専門科目を決めるんですけど、それって要するに、自分の将来を決めるということなんですよね。科目で将来的な年収や働き方もある程度決まりますから。たぶん僕の人生史上、一番リアルに将来について考えたと思います。自分はどんな人生を送りたいのか、本当に医師として生きていきたいのか、と。そのときに、「やっぱり、小説を書きたい」と強く思ったんです。ここで決断しなければ、もう一生小説家にはなれないだろうとわかっていました。
――人生の岐路に立たされたことで、ご自身の本音と向き合ったんですね。認定医資格を取得せず、小説一本に絞るという道はなかったのでしょうか。
医師と違って、作家は「こうすればなれる」という保証がないし、もしデビューできたとしても小説で食べれるのはほんのひとにぎりです。生活基盤を確保するためにも、まずは医師としての実力をつけようと、日本内科学会認定医の資格取得を目標にしました。認定医をとれば非常勤などで生活できるはずなので、そこから数年間、本腰を入れて小説家にチャレンジしてみようという計画でした。
内科を選んだのは、小説家としての道を進むには、内科の能力、知識が最終的に一番役に立つんじゃないかと思ったから。内科なら父のクリニックが手伝えますし、求人が多く生活のことを考えても、一番安定しています。働き方の自由度も高い。加えて、初期研修中に尊敬できる指導医についた経験から、手技ではなく知識を深めて患者に寄り添う内科医のあり方に、純粋に興味を持ったのです。
1978年、沖縄県生まれ。東京慈恵会医科大学卒、日本内科学会認定医。2004年から医師として勤務。2011年「レゾン・デートル」で島田荘司選 ばらのまち福山ミステリー文学新人賞受賞。2012年、同作を『誰がための刃』と改題し、デビュー。「天久鷹央」シリーズほか、『あなたのための誘拐』『仮面病棟』『時限病棟』『螺旋の手術室』『屋上のテロリスト』『黒猫の小夜曲』などの著書がある。2018年、『崩れる脳を抱きしめて』が本屋大賞ノミネート。
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