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町医者に憧れ、被災地で学び、家庭医として地元へ還元する―遠藤貴士氏(モミの木クリニック)

2020年1月14日

現在、モミの木クリニック(福島県郡山市)で家庭医として勤務している遠藤貴士(えんどう・たかし)氏。初期研修時、「良い意味で“ごちゃまぜ”」な家庭医に魅力を感じ、家庭医療の道を志します。その後、被災した石巻市での活動を経て、東北地方に当時はなかったGIMカンファレンス(全国各地の有志が開く総合内科の勉強会)を立ち上げます。遠藤氏のこれまでの活動や今後の展望を取材しました。(取材日:2019年 10月 31日)

なりたいものは「地域のごちゃまぜ家庭医」

――東京学芸大学を卒業後、医学部に入学されたそうですね。

昔から、人との関わりがある仕事に就きたい、将来は教師か医師のどちらかになりたいとと思っていました。迷いながらも高校卒業後は東京学芸大学の教育学部へ進学しましたが、周りが教師として就職していく中で、ふと自分はこのままでいいのか――と思ったのです。そもそも人に教えることなら、医師になってもできるのでは、と。そこで、やはり医師を目指そうと心に決め、2年間の浪人を経て日本医科大学医学部へ進学しました。

――家庭医を目指したきっかけは何ですか。

初期研修のころ、岐阜県にある久瀬診療所へ地域医療研修を受けに行ったことがきっかけです。久瀬診療所は、重症の患者さんが多いわけではないですが、小児から高齢者まで幅広い年齢層の患者さんがいて、さらに内科だけではなく整形外科的な問題や心の問題にまで対応している診療所でした。

もともと福島県郡山市の田舎で育ったためか、私が幼い頃から思い描いていた理想の医師像は、地域で活躍する「町医者」。久瀬診療所での研修で家庭医を初めて知り、自分が目指すものにいちばん近いな、と感じました。

診療所に当時いらっしゃった家庭医の、吉村学先生のユニークな教育方針にも刺激を受けました。研修医であっても責任ある仕事を任せたり、看護師も介護スタッフも医師と同等の立場だと考えていて、研修医への指導をさせたり。若手への教育を通じて、他のスタッフもさまざまな学びを得られる環境でした。患者さんも診療科目も医療スタッフも、良い意味で、“ごちゃまぜ“ だったのです。

しかし、当時は家庭医に対してあまり理解がされておらず、病院での臨床経験がない限り診療所では太刀打ちできないので、若いうちから地域医療に行ってもできることはわずかしかないと思われることもしばしば。それでも家庭医を目指そうと思ったのは、吉村先生のつくる診療所内の雰囲気に非常に感激したからです。現在の自分の医師としての姿勢は、この久瀬診療所での経験による影響が大きいです。

被災地で感じた家庭医の役割

――後期研修では諏訪中央病院へ行かれたそうですね。

そうですね。しかし、初期研修を終えた後のキャリアパスには悩みました。診断学についてはまだ学び足りないと思っていたので、すぐに診療所に行くことには不安がありました。そんな時、長野県茅野市にある諏訪中央病院に見学に行って、月曜日から金曜日まで毎日、臨床推論のカンファレンスを行っていることを知りました。若手の医師が多く活気がある環境でもあり、かつ診断推論を深く学ぶこともできると思い、諏訪中央病院を後期研修先として選択したのです。

後期研修中、東日本大震災が起こった際には、宮城県石巻市への医療支援に参加しました。諏訪中央病院の名誉院長である鎌田實先生が立ち上げたNPO団体が、石巻市へ支援に行くということで、私たち専攻医も現地での活動に参加させていただきました。活動は、慢性期疾患などの対応のため、被災地に数人の家庭医専攻医をリレー方式で長期的に派遣するというプロジェクトでした。

――被災地では具体的にどのような活動をされたのですか。

私が伺ったのは、市街地から車で40分~1時間程かかる石巻市雄勝町です。その町にあった雄勝病院は被災し、多くの方が犠牲になりました。そこでは、救護所の医療支援の他、雄勝診療所の立ち上げにも協力しました。患者さんやそのご家族の情報を整理したほか、当時は薬剤師が不在で提供できる薬にも限りがあったので、必要最低限の薬剤のリストアップ、整理などを行いました。

その後は、次の医師からまた次の医師へと情報を伝達し、グループとして診療所で地域のコミュニティづくりに携わりました。これは、不眠で苦しむ方や病院へ行けない方のため、診療所を気軽に相談できる場所にするための取り組みです。一緒に体操をしたり、待合室でお茶っこと言われるお茶会を開いたりなどの交流も行っていました。

――被災地での経験を経て、ご自身に心境の変化はありましたか。

被災地での経験から感じたのは、もともと社会的に弱い立場の方が震災に遭ってしまった場合、より一層弱い立場に立たされてしまうという問題でした。いくらフィジカルな医療的支援を行ったとしても、それだけでは彼らを完全に救ったことにはならない。身体的な問題に加え、心の問題や経済的な問題などが複雑に絡み合い、苦しみ続けているという現実がある。改めて、家庭医として自分に何ができるのだろう、と考え直した結果が、地域コミュニティをつくることでした。

もちろん急性期対応も重要ですが、急性期対応をする医療チームが引き上げた後の、地域の方々の健康管理も大切です。診療だけではなく、誰もが何でも気軽に相談できるコミュニティをつくることが、最終的には地域のみなさんの健康維持につながるのだと実感しました。

地元・福島県で地域に根ざした医療を

――臨床推論を重視した症例検討会・東北GIMカンファレンスの立ち上げにも関わったそうですね。

2016年に坂総合病院の佐々木隆徳先生、亀田総合病院の宮地康僚先生と協力して東北GIMを立ち上げました。東北GIMの特徴は、臨床推論からマネージメントまで、さらに限られた医療資源下でどのような対応をするか、なども含めた幅広な意味でのGIMを行っていることです。このような特徴を持たせたのは、震災当時に東北地方には臨床推論を学べる機会も場所もほとんどなかったことと、被災地の限られた医療資源下での対応などを医療スタッフたちが共有できる場所の必要性を感じたことが大きく影響しています。

――現在の活動、今後の展望を教えてください。

現在は私の地元の福島県郡山市にあるモミの木クリニックに移り、院長の福井謙先生と共に地域に根ざした医療に携わっています。たとえば、郡山市には急性期病院が4つありますが、患者さんが退院後に在宅医療へスムーズに移行できていない場合があります。その流れを円滑にするにはどうしたらよいか、福井先生が中心となって他職種の方々と考える勉強会を定期的に開いています。さらに、その会では急性期病院のスタッフや退院支援ナースなどを対象に在宅医療の現場を見てもらう見学会も開催しています。

今後は、スタッフと協力しながらモミの木クリニックが地域の方のコミュニケーションの場として、何でも気軽に相談ができる場所になるための活動にも、尽力していきたいと思っています。

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