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医師20年で退局。新天地は募集してない地元病院―転職ドクターの本音vol.1(前編)

2020年12月16日

大学医局に入局し、研鑽を積んで消化器内科医になったK先生。地元に帰りたいと思いつつ、医局人事で働き続けて約20年、気付けば同期は全員医局を去り、K先生1人のみとなっていました。これまで退局に及び腰だったK先生も、47歳のときに転職することに――。その経緯を伺いました。(取材日:2020年11月5日)

医局を辞めることが怖かった

——これまでの働き方について教えてください。

私は現在49歳で臨床研修制度が見直される前の世代です。九州地方の大学を卒業後、そのまま医局に入り、3年目からは地方の中核病院を転々としていました。7年目からは希望を出していた病院に数年間いたのですが、「帰ってこい」と呼び戻され大学本院で働くことになりました。大学には、正直帰りたくなかったですね。関連病院に出て改めて実感しましたが、大学は雑務が多く、臨床が思うようにできませんでしたから……。その後、地元の隣県にある医療機関に約8年出向していました。そこが前の勤務先です。

——約20年医局に所属され、47歳で転職に踏み切った理由は何でしょうか。

実は、先に退局した同期たちは私が地元に帰りたいのを知ってたので、「早く辞めた方がいい」と言ってくれてたんです。ところが、私は医局を辞めることが怖かった。これまでずっと医局で働いてきたので、そこから離れた働き方が想像できなくて──。

それに、親の病院を継ぐ、結婚・出産という理由なら退局を認めてもらいやすいですが、私にはそういう理由もなく、「転職するから辞めたい」と言って辞められるイメージが持てなかったんです。そのまま医局人事で動いていたら20年近く経ってしまい、気付けば同期は全員退局していました。

転職を決意したのは、前勤務先で精神的にも、体力的にも疲れてしまったからです。最初は楽しく働けていたのですが、途中で院長が代わり、その方がワンマンで苦労しました。症例が多く、たくさんの経験を積ませていただいた一方で、思うように治療できないストレスが溜まっていったんです。

自分で言うのもおこがましいですが、勤務先に貢献できている自負はありました。だから、お金が掛かるのを承知の上で「もっといい治療がしたいから機械の購入を検討してもらえませんか」と再三にわたり依頼してたんです。ところが、「いつか買うから」と先延ばしにされたままで──。機械をレンタルすることで凌いでいましたが、必ずしも希望日に借りられるわけではないため、患者さんに申し訳ない気持ちが募るようにもなっていきました。

40代後半になると、体力的にも若いときのようにはいきません。朝6時半に自宅を出て往復約2時間の通勤、7~10日に1回の当直は、身体にこたえました。救急搬送もウォークインも多かったうえに、1人当直でなかなか眠れず、翌日も普通に外来や治療をしていました。そのような環境下で働き、限界を感じて「転職しよう」と思ったのです。

急性期か療養型か、迷った末の決断

——転職活動はどのように進めたのですか。

先に辞めた同期などから、「人材紹介会社に登録すると、調整も交渉もやりやすい」と聞いていたので、インターネットで検索して出てきたところに登録しました。複数社に登録すると良いともアドバイスされましたが、やりとりが煩雑になりそうなので、私は1社だけにしました。まず試してみて、もしうまくいかなかったら、自分の伝手で何とかしよう、と。

とにかく現状をどうにかしたい、という藁にもすがる思いで人材紹介会社に登録したので、細かい希望条件はありませんでした。強いていえば、今の収入を下回らず、地元から通えること。それだけでした。大学進学で隣県に出たものの、私は長男なので将来は地元に帰って親の面倒を見ると決めていたのです。コンサルタントには、それを伝えて求人を探してもらいました。

それから、「気になる医療機関があれば、求人がなくても問い合わせてみますので、気軽におっしゃってくださいね」とも言ってもらえたので、いつか地元に帰れたら働いてみたいと思っていた病院を伝えました。それが今の勤務先になるのですが、そのとき募集枠が充足していたんです。

——募集していなかったのですね。それでも面接を受けられたのは、なぜでしょうか。

担当のコンサルタントが機転を利かせてくれた、これに尽きると思います。

そこは急性期の総合病院で、当初は消化器内科の常勤医が不在で、非常勤医のみで対応している状況でした。数年前までは医局派遣がありましたが、ストップしてしまったようです。とはいえ、コンサルタントが「貴院に興味を持っている消化器内科医がいる」と伝えても、先方は検討してもいいかな、どうしようかなという温度感だったそうです。

通常は面接まで匿名で話を進めるそうですが、その総合病院の反応を見たコンサルタントが、私の名前を出して話を進めた方が早いと考えたようです。私のもとに「名前をお伝えして再度話をしようと思うのですが、いかがでしょうか」と提案がありました。たしかに、私は地元出身で、当時の勤務先も近隣でしたから、興味は持ってもらいやすい。それに、私としては医局を出る意思が固かったので、提案通りにお願いしました。そしたら、実際に興味を持ってもらえて、面接の機会を得て、内定をいただけました。

その一方で、コンサルタントが紹介してくれた病院の中で1つ気になる療養型病院があって──。そこにも面接を受けに行きました。

——急性期と療養型、違うタイプの病院の面接を受けたのはなぜですか。

療養型病院は母が通院しているところで、院長先生のこともよく知っていたからです。偶然とはいえ縁を感じましたし、そこで働くことで地元に恩返しができることに変わりないとも考えました。院長先生はご高齢で代替わりを検討されており、「ゆくゆくは君に病院を任せてもいい」とまでおっしゃってくださいました。院長先生のお人柄に惹かれて、このような先生の下で働けたら幸せだろうと思ったのですが、最終的には急性期病院に入職することに決めました。(後編へ続く)

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