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都市部の“かかりつけ医難民”を救え!地域に寄り添う家庭医の想い―杉谷真季氏(桜新町アーバンクリニック)

2018年7月10日

開業医であった祖父の姿を見て、医師を目指した杉谷真季氏。高校生の時から家庭医を志し、都市部の患者を診ていきたいという明確なビジョンを持ちながら研さんを積んできました。キャリアを築くにあたっての考え方、これから家庭医として取り組んでいきたいことを取材しました。(取材日:2018年4月24日)

祖父母の姿を見て家庭医の道へ

―家庭医を志したきっかけを教えてください。

祖父が横浜市内で町医者をしていたこと、祖母の介護経験がきっかけです。

幼少期、祖母が脳梗塞で倒れてから寝たきりの状態になってしまい、自宅で療養をしていました。当時、介護保険制度はまだありませんでしたが、訪問入浴のサービスを利用する様子なども見ていて、自宅で療養することを日常の一部として捉えていたのです。
祖父は自宅で医院を営んでいたので、幼い頃から、医師という職業は非常に近しい存在でした。家族や親戚に祖父以外、医師はいなかったのですが、わたしだけは医師という職業に興味を持つようになっていきました。祖父はもともと軍医だったためか「医師は女の子がする仕事ではない」と言っていたのですが、晩年、認知症を発症してからは「真季は後継ぎだ」と、内心喜んでいる様子も伺えました。

このような経験から、生活の近いところにいる医師、長く自宅で過ごせるようにサポートする医師になりたいと思うようになりました。それが「家庭医」に変わったのは、受験勉強中に、ある新聞記事を読んだとき。新聞の医療面で家庭医が取り上げられており、その記事を読んで、わたしがなりたいのは家庭医だ、とビジョンが明確になりました。それからは、家庭医になるためにどうするか、どうスキルアップをしていくかを一貫して考えるようになりましたね。

家庭医になるための選択

―杉谷先生が大学に入学した2000年代前半は、家庭医の認知度は低かったのではないでしょうか。

そうですね。病院実習などで「家庭医になりたい」と話すと、大学病院の先生方から「それなら腫瘍内科だね」など言われることもしばしば。大学病院は自分のイメージに合う医師はあまりいないのではないか、と思っていました。ただ、日本家庭医療学会(現日本プライマリ・ケア連合学会)が毎年夏に学生や研修医を集めて開催していた、家庭医療学夏期セミナーの運営スタッフを大学2年生の時からやっていたので、家庭医の先生方と接する機会を多く持ててはいました。大学でも公衆衛生学講座を通じて北海道家庭医療学センターや自治医科大学に見学に行かせていただいていたので、家庭医のロールモデルが見つからず悩むことはあまりなかったですね。

―初期研修は国立国際医療研究センターの総合診療科コース、後期研修は東京医療センターを修了されています。家庭医を明確に志していたのであれば、家庭医療のメッカでの研修を選択してもよかったのでは、と思うのですが――。

家庭医になるにあたり、まずは、広く多科で学びたいという思いがあったため、総合診療科がある大きな病院を選びました。将来、わたしは都市部での診療をしていきたいと考えていたので、なるべく都市部の特性を知るために、東京都内の大病院で研修を受けることを決めました。

―研修を終え、桜新町アーバンクリニックに赴任することになった経緯を教えてください。

東京医療センターでの後期研修は3年コースと5年コースがあり、わたしは5年コースを選択しました。最初の3年間で家庭医療後期研修を修了して、残り2年のうち自由研修期間の1年間は在宅医療の研修を予定していたのです。ところが、国立成育医療研究センターの母性内科から人員募集があり、急遽わたしがそちらの研修に行くことになって――。母性内科とは妊娠期を中心に、妊娠前から妊娠後にかけての内科的合併症の治療や将来の疾病予防と健康増進に取り組む診療科。当初は3カ月の予定でしたが、他の研修医との兼ね合いにより、最終的に9カ月間お世話になりました。

母性内科の研修を終え、在宅医療の研修先を探していたところ、当院が受け入れてくれたのです。当院は近くに外来部門も持っており、学会などでの発言力があったり、新しいことにも一丸となって取り組んだりしていて、大きなパワーを生み出す力があることを感じていたので、もう少しここで研さんを積みたいと考え、継続して勤務しています。

都市部の“かかりつけ医難民”をなくす

―外来から在宅まで一貫して診ている中で感じる、世田谷エリアの課題とは。

世田谷エリアは人口が多いために関わる医療・福祉事業所・関係者も多く、やはりスタッフの顔が見えづらいことです。そのような中でもスタッフ間の情報共有が重要になりますが、どこまでをどのように情報共有すべきかなど、頭を悩ませることもあります。この点に関しては、なるべく顔の見える関係づくりを心がけて取り組んでいます。

また、遠くの病院に通っていた方が何らかの理由で通えなくなってしまったときに、近くにかかりつけ医がおらず、当院に連絡が来る例が少なくありません。このような点が課題だと感じています。

―都市部ならでは課題でしょうか。

そうかもしれません。遠くの病院に通っていたのに、足腰が悪くなってしまい、通えなくなってしまった。しかし、近くの病院を受診したことがないから、かかりつけ医がいない。また、かかりつけ医だと思っていた医師は専門医で、専門外の疾患は診てくれず、どこを受診したらいいのか分からない――。そのような状況に陥ってしまった“かかりつけ医難民”の患者さんをしっかりサポートでき、その時々で最善の医療を提供できる家庭医が求められていると思いますし、そうできるようになることがわたしの目標です。

―今後について、どのように思い描いていますか。

将来的には地元の横浜市に戻って、祖父のように地域の方々の健康を守っていきたいと思っていますが、まずは当院周辺の患者さんに頼られる家庭医として成長していきたいですね。ゆくゆくは、後期研修中に学んだ、母性内科での経験も活かしていきたいです。外来などで産後のお母さんたちのフォローアップをしたり、産後のお母さんたちが集まれたりするような場づくりなども行っていけたらと思っています。

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