1. m3.comトップ
  2. キャリアデザインラボ
  3. キャリア事例
  4. 事例
  5. 厚労省を辞めた医系技官が選んだ転職先―慢性期医療の世界Vol.1
事例

厚労省を辞めた医系技官が選んだ転職先―慢性期医療の世界Vol.1

2018年9月26日

10年勤めた厚生労働省を辞め、一般病院へと転職した坂上祐樹氏。医系技官時代は、臨床研修制度の見直しや診療報酬改定など、数々の政策に携わった末、行き先も決めずに退官。数々のオファーを吟味した末に選んだのは、急性期経過後の患者のケアをする、いわゆる慢性期の医療機関でした。30代という若さで、この領域に挑もうと思った背後にある思いについて取材しました。

たった1人、離島の中核病院での初期研修

─まず坂上先生の現在に至るまでのキャリアについて教えてください。先生は、長崎大学卒業後、県西部、五島列島にある長崎県五島中央病院(長崎県五島市)で初期研修を受けられています。なぜ離島での研修を選んだのですか。

両親が長崎県の中学校の教員をしていた関係で、幼い頃、五島で暮らしていたことが大きいですね。島での生活が楽しくて、漠然と何か島に関係する仕事がしたいと思っていました。高校生になって進路を決めるときに、離島は医師不足だと知り、だったら自分が離島医療に取り組もうと考えたのです。

五島中央病院は総ベッド数304床、離島である下五島地域の中核病院です。大学時代に離島医療・保健実習で1週間、その後追加で1カ月ほど足を運んで現場の様子を見て、「ここで初期研修を受けよう」と決意しました。将来、離島やへき地で働きたかったので、少しでも早く戦力になれるよう、2年間しっかり鍛えてもらえそうな環境が魅力的だったのです。

当時、同期の初期研修医は僕1人だけ。「研修医だから」と言っていられないぐらい医師自体が少ない分、各科の疾患を数多く経験でき、多くの手技を経験・習得できました。外科の先生から「緊急オペに入るから、麻酔をかけて」と電話があったり、産婦人科の先生から「カイザーをやるから前立ちして」と呼び出されたり――そんな毎日でした。初期研修中にもかかわらず、内科なら上部・下部の内視鏡検査をしていましたし、外科では虫垂炎や鼠径ヘルニアの手術も経験させてもらいましたね。必死でしたが、非常に中身の濃い2年間でした。

─初期研修修了後、そのまま五島に残るのかと思いきや、一転して医系技官として厚生労働省に入ったのはなぜですか。

離島医療を手掛けるうち、「臨床医としてどんなに頑張ってもどうにもできないことがある」と感じるようになったからです。五島の場合、患者を退院させたくても回復期の病院がなく、介護施設も少ない。どうにか探すのですが、それにも限界がある。「これは国の制度やルールをよくしないと駄目なんじゃないか」と思って、厚労省の医系技官に転身したのです。

 「離島での経験を、行政で活かしたい」濃密な医系技官時代

─厚労省では具体的にどんな仕事をしたのですか。

2008年に入省して、ちょうど10年間いたのですが、貴重な経験をさせてもらいました。入ってすぐ医政局医事課に配属され、医師不足対策や臨床研修制度の見直しを担当しました。


臨床研修制度がスタートした当時は、「研修医が都市部に集中し、地方に来なくなった」と大きく騒がれた時期。そこで、都道府県別に研修医の定数を設定することになり、その定数の計算式を考えるのが、僕の役割でした。かなり重大な仕事でしたが、離島での経験があったので、「各地の事情にきちんと配慮した計算式を考えよう」と無我夢中だったのを覚えています。最終的に、離島やへき地を多く抱える都道府県は医療の提供が大変ということも鑑み、定数に加算して採用していいことにしようという制度ができました。このほか、2012年度の診療報酬・介護保険報酬のダブル改定にも携わるなど、医系技官時代は本当に濃密な期間だったように思います。

─その後、宮崎市に出向して、2年ほど宮崎市保健所の所長も務められていますね。

「地方行政とマネジメントをしっかり学んで来い」と出してもらいました。いきなり250人ぐらいの部下を抱えることになり、組織管理の面で非常にいい経験になりました。

宮崎市立田野病院の運営も僕の仕事でした。赤字が累積していたため、抜本的な経営改善を求められ色々考えたのですが、最終的に宮崎大学が指定管理者となり運営に当たることになりました。職員や住民とぶつかり、労使交渉をしたり住民向けに説明会を開いたりしましたが、最終的には折り合いがつきました。関係者と調整を図るのは役人の仕事。厚労省での経験が役立ちました。

こういう改革は、しがらみが多い地元の人にはできないと思ったのです。「国から来た若造の役人がやっちゃいました」というほうが、地域のためにいいのかなと。

 行き先も決めずに「厚労省を辞めよう」と思った瞬間

─その1年半後に厚労省を辞めたのは、どんな理由からですか。

10年の間に、自分がやりたい仕事は一通り経験させてもらいました。厚労省に入ったのは、制度づくりに関わり、現場の医療をよくしたかったから。ただ、いい制度をつくっても現場でいい医療が提供されないと、地域の医療はよくならない。辞める数年ぐらい前から、今度は自分の今までのノウハウを生かして、地域に密着したいい医療を提供する側に回ってみたいという思いが次第に強くなってきたのです。

数ある選択肢から、選んだ進路は…

─退職後、いくつもの選択肢の中から平成医療福祉グループを選んだポイントは。

次の行き先を決めずに厚労省を辞めてしまったのですが、幸いさまざまな分野の方から声をかけていただきました。その中で、現在の勤務先である平成医療福祉グループに決めたのにはいくつか理由があります。

グループの武久洋三代表とは厚労省時代、診療報酬改定のときに知り合いました。武久代表が中医協の慢性期分科会の委員をされていたからです。このとき、僕は慢性期の経験に乏しかったので、武久代表に頼んで施設を見学させてもらいました。当時、ほかにも慢性期病院をたくさん見に行きましたが、その中でも「面白い取り組みをしているな」と思っていました。

例えば、栄養にかなり力を入れていて、給食会社には委託せず、自前で食事を用意しています。しかも既製品は極力使用せず、調理師が一つひとつ手作りしています。それこそ刺身が出たり、施設内にパン工房があったり。そういうこだわりがすごいなと思いました。

「患者にとっていいことは損をしてでもやる」という姿勢が一貫している。診療報酬が包括払いの病棟では、治療をすればするほど病院の収益は悪くなります。それでも患者にとって必要な治療や検査であればしっかり実施する。それが当時から印象的でしたね。「絶対に見捨てない」という理念にも共感しました。目指す方向が同じでないと、一緒に仕事はできません。

また、平成医療福祉グループは全国に25病院、86施設・学校を運営している点も大きな魅力でした。これからさまざまなことをやらせてもらえるのかなと。これまで行政のマネジメントを学んできましたが、今は民間病院でのマネジメントを勉強中です。

坂上 祐樹
さかがみ ゆうき
平成医療福祉グループ医療政策マネジャー
医師/医学博士

1981年生まれ。長崎大学医学部卒業後、2006年から長崎県五島中央病院で初期研修。08年に医系技官として厚生労働省に入省。臨床研修制度の見直しや診療報酬改定などを手掛ける。17年7月に退職。同年10月から平成医療福祉グループ医療政策マネジャーとなり、臨床に携わりつつ、グループ全体の医療政策を担う。

今後のキャリア形成に向けて情報収集したい先生へ

医師の転職支援サービスを提供しているエムスリーキャリアでは、直近すぐの転職をお考えの先生はもちろん、「数年後のキャリアチェンジを視野に入れて情報収集をしたい」という先生からのご相談も承っています。

以下のような疑問に対し、キャリア形成の一助となる情報をお伝えします。

「どのような医師が評価されやすいか知りたい」
「数年後の年齢で、どのような選択肢があるかを知りたい」
「数年後に転居する予定で、転居先にどのような求人があるか知りたい」

当然ながら、当社サービスは転職を強制するものではありません。どうぞお気軽にご相談いただけますと幸いです。

エムスリーキャリアは全国10,000以上の医療機関と提携して、多数の求人をお預かりしているほか、コンサルタントの条件交渉によって求人を作り出すことが可能です。

この記事の関連キーワード

  1. キャリア事例
  2. 事例

この記事の関連記事

  • 事例

    オリンピック出場を目指す研修医の思い―医師と2足のわらじvol.19(後編)

    初期研修医と世界クラスの山岳ランナーという二つの顔を持つ髙村貴子先生。今シーズンからは山岳スキーも始め、年間を通じて山を駆ける髙村先生は、将来にどんなビジョンを描いているのでしょうか。医師として、山岳ランナーとして目指している場所を伺いました。

  • 事例

    研修病院決定の決め手は「そこに山があったから」―医師と2足のわらじvol.19(中編)

    長野県で初期研修医として働いている髙村貴子先生は、国内では敵なしの実力をもつ山岳ランナーでもあります。初出場したレースでいきなり3位に入賞したのが医学部2年生のとき。ときには海外にも転戦する山岳ランナーと医学生をどのように両立してきたのでしょうか。卒試・国試を控えた6年生のときの過酷なエピソードや研修医生活との両立についても伺いました。

  • 事例

    国試の前は地獄…山岳ランナーと医学生の両立―医師と2足のわらじvol.19(前編)

    長野県で初期研修医として働いている髙村貴子先生は、国内では敵なしの実力をもつ山岳ランナーでもあります。初出場したレースでいきなり3位に入賞したのが医学部2年生のとき。ときには海外にも転戦する山岳ランナーと医学生をどのように両立してきたのでしょうか。卒試・国試を控えた6年生のときの過酷なエピソードや研修医生活との両立についても伺いました。

  • 事例

    医師の夢“ちょっと医学に詳しい近所のおばさん”――吉住直子氏(JCHOうつのみや病院)・後編

    医師としてフルタイムで働きつつ、地域での社会活動にも尽力している吉住氏。「幅広い世代が集まる場所」をつくろうと、奮闘しています。なぜ、忙しい時間を縫って社会活動をするのか。どのような医師を目指しているのかを伺いました。

  • 事例

    元ヘルパー医師が考える、引き算の医療―吉住直子氏(JCHOうつのみや病院)・中編

    臨床検査技師や介護ヘルパーを経て、呼吸器内科医となった吉住直子氏。研修先や診療科を選ぶ際は、常に「理想的な高齢者医療」を念頭においていました。実際に診療を始めると、前職の経験がプラスに作用することがあるとか。また、以前は見えなかった新しい課題も浮き彫りになってきたと語ります。

  • 事例

    2つの職を経た女医が、介護にこだわる理由―吉住直子氏(JCHOうつのみや病院)・前編

    「ちょっと医学に詳しい近所のおばさんを目指している」と朗らかに話すのは、医師の吉住直子氏です。医学部に入るまでは、臨床検査技師や介護ヘルパーの仕事をしていて、介護現場に立つうちに医師になろうと決意しました。どのような思いで、医師というキャリアを選んだのでしょうか。インタビューを3回に分けてお届けします。

  • 事例

    不治の病を抱えながら、クリニックの院長へ ―病とキャリアvol.7(後編)

    40代でパーキンソン病を発症し、50歳で医師として働くことを辞めた橋爪鈴男先生。後編では、再び医療の世界に戻った時のエピソードと、病を抱えるようになって変化したことを語っていただきました。(取材日:2020年2月20日 ※インタビューは、資料や文書による回答も交えた形式で実施しました)

  • 事例

    「もう死にたい」動けない医師が光を見出すまで ―病とキャリアvol.7(中編)

    皮膚科医として、順調なキャリアを築いてきた橋爪鈴男先生。しかし、40代でパーキンソン病を発症した後、大学病院を辞すことを決意します。中編では、絶望を救った一つの言葉と仲間の支え、そして新たな治療を経て見つけた生き甲斐についてお話をうかがいました。

  • 事例

    40代でパーキンソン病「医師を続けられない」 ―病とキャリアvol.7(前編)

    順風満帆な生活から一転、晴天の霹靂のごとく襲いかかった難病──。橋爪鈴男先生は、40代でパーキンソン病を発症し、大学病院の助教授(当時)の職を辞すことを決意します。身体機能が衰えていく自分の姿に苦悩し、自殺を考えたこともあったそうです。しかし、生きる意味を見出し、再び医師として復帰するに至りました。前編では、突然の発症から大学病院の辞職を決意するまでのエピソードをお聞きしました。

  • 事例

    エンジニア、研究者を経て“ゴール志向じゃない自分“を肯定―医師と2足のわらじvol.18(後編)

    医学部を卒業後、ゲノム研究者とエンジニアを両立する日々を送っていた鈴木晋氏。「臨床がわからないと研究も深まらない」と考え、スキップしていた初期臨床研修を受けようと決意しました。その後、大学院でのプログラミングを用いた医学研究を経て、「治療アプリ」を研究・開発する株式会社CureAppの創業メンバーに。現在は、臨床を続けながら、同社の最高開発責任者(CDO)として開発全般を指揮しています。実は少し前まで、“ゴール志向”でない自身のキャリア観を肯定できずにいたとか。CDOとして働く現在は、どのように捉えているのでしょうか。

  • 人気記事ランキング