1. m3.comトップ
  2. キャリアデザインラボ
  3. キャリア事例
  4. 事例
  5. 「教授選落ちて踏ん切り」年半分を海外で過ごす女医の人生観―国境なき医師団に参加する医師たち vol.1
事例

「教授選落ちて踏ん切り」年半分を海外で過ごす女医の人生観―国境なき医師団に参加する医師たち vol.1

2018年8月11日

浅草生まれの浅草育ち。生粋の江戸っ子で明るく笑顔が印象的な小児科医の岩川眞由美氏。国境なき医師団に初挑戦してから15年後の60歳の時に再び参加し、イラクや南スーダン、ナイジェリアなどに飛んで活動をしています。半年ずつ海外と日本の2つの拠点で生活する「半分海外、半分母国」の生活を続ける理由は、医学生時代と、派遣先での現地人との出逢いにありました。

「こんな風に生きてみたい」医学生時代に出会ったロールモデル

―国境なき医師団への参加を決めた経緯を教えてください。

医学生時代、新聞の一面に掲載されていた国境なき医師団(MSF)の特集に心を奪われました。アフリカをフィールドに働くフランス人の女性医師の記事でしたが、掲載されているのは、オペラ劇場で友人とシャンパンを飲んでいる、まるでパリジェンヌのような写真。「仕事をやる時はやる、でもプライベートは自分の好きなように文化的な生活を送る」。そんな発展途上国と母国を行き来しながらメリハリのある生活を送る彼女の姿に、純粋に憧れを抱きました。なんて素敵な生き方なのかと。

医師として苦しんでいる人を一人でも多く助けたい。その一方、浅草生まれ・浅草育ちでチャキチャキの江戸っ子の私は、人生のすべてを病気や死と向き合うだけの悲壮感が漂う日々に費やしてしまうと、パワーを失う気がしていました。思いっきり仕事に打ち込むためにはたくさんのパワーが必要であり、それにはプライベートが充実していることが、必須だと思っていました。それを見事に体現している彼女の姿を、私はロールモデルのように見立てたのかもしれません。

でもすぐには参加できなかった。日本にまだMSFの事務局がなかったし、私もこれから外科医を目指して研修を積み学んでいく身でしたから。だから「よし!将来はこんな生活を送るぞ」と思ったことを覚えています。

大学医局在籍中に挑んだ“はじめてのミッション”

―実際にMSFに参加されたのは?

1998年の中国のプログラムで、外科医として広西チワン族自治区に渡りました。

それまでは臨床や手術だけでなく勉強も好きで、母校の大学病院に残り、新生児外科と小児がんの研究をしていました。そんな500gの未熟児を助ける最先端の世界から、苗(ミャオ)族という少数民族が暮らす11の村を訪ねて歩き、画像診断も血液検査もなく検査技師もおらず、病院もない中で診察する世界に飛び込みました。

初めて参加した中国でのミッションで©MSF

最低限の薬を入れたリュックを背負い、ニュージーランドから来た医師と2人の看護師と一緒に、近い所では船で2時間ぐらいの村を、遠ければ2泊3日で山々を超えた先の村を周って診察しました。

また、村長さんに選んでもらった村で一番賢そうな人に、結核や上気道炎、腰痛、寄生虫、新生児の蘇生、マラリアといった、各村で流行っている病気の知識や問診の仕方などを教え、1週間で医療担当者に育てることもしました。

―現地では、どんなことを感じましたか?

医療機器に頼らなくても、自分の頭と技だけで診察できるような医師にならなくてはいけないと痛感しましたね。「手当て」という言葉がありますが、まさしく患者さんの体に手を当てて、患者さんのことを慮って治療をするのは、医療の原点だとも思いました。心を込めた手当ては患者さんからの信頼にもつながるとも。

大学で研究をしていた私は、派遣されるまでは“サイエンス寄り”の人間でした。それが患者さんを思いやり、相互の信頼関係を深めることの大切さを学んだことで、理系から文系に変わったような大きな変化があった。帰国後、患者への接し方にも大きく影響したと思います。またいつか、機会があったら参加したいと強く思いましたが、正直なところ、一時的とはいえ私が抜けたことで、当時勤めていた大学医局には多大な迷惑をかけてしまいました。しばらくMSFの活動はお休みしようと決意しました。

―2回目の派遣は、それから15年もあとのことだと伺いました。この間、どのようなキャリアを積まれたのでしょうか。

大学病院の外科医として働きつつ、実は研究を続けてそのまま大学教授になりたかったんです。当時のアカデミアは女性医師が少ない男性社会で、私が教授になることで少しでも女性医師が勉強し続けられる環境になればという思いもありました。

先輩もたくさんいましたので、少し時期尚早だなと思いつつも、42歳の時に教授選に立候補しました。残念ながら結果は落選。でもそこで踏ん切りがついて、大学教授としてのキャリアをきっぱりあきらめました。既定路線にとらわれずに、自分らしくキャリアを歩んでいこう、と。実際にその後、国が発足したゲノムプロジェクトでグル―プリーダーとして放射線感受性に関するゲノム研究を続けていたら、本当に楽しくて。気がついたら60歳になっていて、「あっ、そろそろ早く海外で働かなくちゃ!」と(笑)。

南スーダンの現状に憤り、ランニング中に涙が流れる

―15年の年月を経ての参加でしたが、2回目のミッションでは、初参加の時と何か違いを感じましたか?

それはもう、非常に。1回目よりもMSFが組織化されていて、航空券を取るものスムーズだし、事前の研修制度などもしっかり整っていて感心しました。MSFのトレーニングで「栄養不良児に対する治療」について勉強しましたし、イラクへの派遣の準備期間には、長崎大学熱帯医学研究所の短期研修を受けました。不安は一切なかったですね。
2013年には小児科医としてイラクのナジャフ地域に行きました。次いで2014年には南スーダンの西エクアトリア州・ヤンビオにある、MSFの地域中心的医療を行う病院で、同じく小児科を担当しました。

南スーダンでのミッションの様子©Matthias Steinbach

久々に海外派遣を経験して強く感じたのは、「世界はなかなかよくならないんだな」ということ。若い頃は、未来はきっとよい方向に進んでいくのだと漠然と思っていたんです。でも、時を経てもそんなに良い方向には進んでいないことを実感したんです。戦争はなくならないし、自然破壊は進み、災害は減っていない。なぜ南スーダンでは人の殺し合いが終わらず、女性や子どもが犠牲になるのかとやり切れない気持ちになりました。現地でランニングをしている最中に、知らず知らずに溜まっていた涙が溢れ出したこともあります。

そうした現地の様子はメディアの報道だけでは分かりにくいし、そもそも日本は島国だからか、グローバルな報道が少ない。現地に足を運んで目で見て始めて苦しんでいるたくさんの人がいて、医療や医師が足りないことが分かるんです。MSFの活動の重要性をより実感し、私自身としては今後も“医師としての戦い”を止めてはいけないと強く思いました。

―2回目のミッションで改めて、気持ちを引き締められたのですね。

そうですね。
加えて、自分がイメージしていた国や国民のイメージが、がらりと変わったことも大きな発見でした。例えば、イラク人の女性はアバヤという真っ黒い布で全身を覆っていますが、イスラムの結婚式のパーティーは男女別で、扉を閉めて女子だけになった途端、アバヤを脱ぐんです。すると、ベリーダンスを踊るのでは?と思うぐらい肌が露出した可愛い服を着ていて。みんなやっぱり普通の女の子で、お洒落をしたいんだなと、うれしくなりました。
イスラム社会で一夫多妻が認められていても、夫はすべての妻をファミリーとしてすごく大切にしていましたし、友人として互いを尊重して仲良く働くイスラム教徒とキリスト教徒の姿も見たことも、自分の中の概念が覆った出来事でした。

それから大きな収穫だったのは、現地の人たちに対して尊敬する気持ちや、謙虚になる気持ちが生まれたことです。医師が足りない国は、症状を説明するための語彙が少なく、英語を話せる人もほとんどいません。それを知力や学力の低さだと見下げる先進国の人はいるかもしれない。だけど、例えばアフリカの人たちは、雲の色から天候の変化を読み取り、水があるエリアの場所を匂いから判断したりなど、長い歴史が育んだ、私たちには到底真似できない尊敬すべき力がたくさんあるんです。

イラクでのミッション時、現地の女性たちと©MSF

彼らの家族に注ぐ愛情の深さも尊敬するし、彼らを知れば知るほど、日本にいると気づかない当たり前のことを気づかせてくれます。家族が健康であったり、気が置けない友人がいたり、大好きな人とご飯を食べられたり…。本当の幸せは、自身の身近なところにあるのだなと思えて、日本でも小さなことに感謝できるようになり、そうした思考のおかげで仕事やプライベートの充実につながっているのかなとも思います。

「半分海外、半分日本」の生活が板についてきた

―現在、先生は、「海外派遣は1年のうち6カ月」と「5月中旬は生まれ育った浅草の三社祭を過ごす」というご自身の原則を守ったライフスタイルを過ごしていらっしゃると聞きました。

そうですね。日本ではアルバイトを続けつつ、やりたいことがたくさんあるんです。ゴルフのハンディキャップは上げたいし、ランニングのタイムを縮めたい。幼少の頃から習っている日本舞踊ももっと上手になりたいし、美味しいお茶やコーヒーを淹れられるようにもなりたい。

でも、日本で過ごしてしばらくすると、「ここで映画をのんびり観ている場合じゃない」と思うんです。それでいざ、MSFで海外でのミッションに赴くのですが、また半年ほどすると気力が落ちてきて、美しい日本に帰りたくなって、リフレッシュしたくなる(笑)。そんな時は、専門アプリが教えてくれるポーズを見ながら、ヨガで心を落ち着けたりするんですけど。その繰り返しです。

「半分海外、半分日本」の生活をはじめて最初の2年は、どちらの生活も中途半端な気がして地に足がついていない状態でした。でも今はやっとこの生活にも慣れて、どの生活も楽しく精一杯、力を注げるようになってきた。学生時代にMSFを知るきっかけになった、憧れのフランス人の女性医師の生き方に、やっと近づけたかなと思います。

この記事が出る頃には、私はナイジェリアにいます。医療情勢が破たんしているため、そこには就職先がない現地の17人の若い医師がMSFの一員として働いている。そうした現地の若い医療従事者たちの成長を後押しし、少しでも医療が良くなるように貢献して、また日本に帰りたいと思えるまで、毎日を精一杯生きていると思います。

2018年8月現在、ナイジェリアのミッションでミッションに参加する岩川氏©MSF
【国境なき医師団について】
国境なき医師団(Médecins Sans Frontières 略称MSF)は、紛争や自然災害、貧困などによって命の危機に瀕している人びとに医療を提供する、非営利で民間の医療・人道援助団体。「独立・中立・公平」を原則とし、人種や政治、宗教にかかわらず援助を提供、医師や看護師をはじめとする海外派遣スタッフと現地スタッフの合計約4万5000人が、世界約70以上の国と地域で援助活動を行っています。1971年にフランスで医師とジャーナリストによって設立され、世界29ヵ国に事務局をもつ国際的な組織で、活動資金の95%以上は個人を中心とする民間からの寄付金に支えられています。
1999年にはノーベル平和賞を受賞。MSF日本は1992年に設立され、2017年には117人のスタッフを、のべ169回、29の国に派遣。現在も、活動に協力してくれる日本人医師を求めています。

今後のキャリア形成に向けて情報収集したい先生へ

医師の転職支援サービスを提供しているエムスリーキャリアでは、直近すぐの転職をお考えの先生はもちろん、「数年後のキャリアチェンジを視野に入れて情報収集をしたい」という先生からのご相談も承っています。

以下のような疑問に対し、キャリア形成の一助となる情報をお伝えします。

「どのような医師が評価されやすいか知りたい」
「数年後の年齢で、どのような選択肢があるかを知りたい」
「数年後に転居する予定で、転居先にどのような求人があるか知りたい」

当然ながら、当社サービスは転職を強制するものではありません。どうぞお気軽にご相談いただけますと幸いです。

エムスリーキャリアは全国10,000以上の医療機関と提携して、多数の求人をお預かりしているほか、コンサルタントの条件交渉によって求人を作り出すことが可能です。

この記事の関連記事

  • 事例

    不公平?2児の女性医師が抱える家庭事情

    最近では当たり前になりつつある、夫婦共働き。千葉大学病院脳神経内科准教授の三澤園子先生は出産のタイミングに悩み、34歳、40歳で2児を出産。今も仕事と家庭の両立方法を探り続けています。後編では出産・育児にまつわるエピソードと、共働き夫婦でキャリアアップするための秘訣を聞きました。

  • 事例

    准教授のママ医が、常勤にこだわる理由

    最近では当たり前になりつつある、夫婦共働き。特に医師は、仕事の頑張り時と出産・育児の時期が重なりがちです。医師23年目の三澤園子先生は、仕事と家庭の両立に悩みながらもフルタイム勤務を続け、現在は千葉大学病院脳神経内科の准教授と2児の母、2つの顔を持ちます。前編では、三澤先生のキャリアについて伺いました。

  • 事例

    院長のラブコール「帰ってこい」Uターン医師の新たな挑戦―光田栄子氏

    お看取りのあり方に課題を感じ、介護士から医師に転身した光田栄子先生。諏訪中央病院を経て、現在、岡山市内のベッドタウンにある有床診療所「かとう内科並木通り診療所」に勤めています。地元にUターンした光田先生がこれから取り組んでいきたいことについて、お話を伺いました。

  • 事例

    「診療科の隙間を埋める」院長の挑戦とは―中山明子氏

    大津ファミリークリニック(滋賀県大津市)院長の中山明子先生。外来、訪問診療をしながら、家庭医として、相談先を見つけにくい思春期の子どもや女性のケアに力を入れています。

  • 事例

    日本の当たり前を再考する渡航医学の視点

    さまざまな診療領域の中でも、コロナ禍で大きな影響を受けている「渡航医学」。中野貴司氏は日本渡航医学会の理事長を務めつつ、川崎医科大学の小児科教授、病院の小児科部長としても働いています。改めてこれまでのキャリアを振り返りながら、「渡航医学」の視点がキャリアにもたらすプラスの要素を聞きました。

  • 事例

    コロナで大打撃「渡航医学」の今

    新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって、大きな影響を受けているのが「渡航外来」や「トラベルクリニック」です。各国への出入国が従来よりも難しくなっている今、渡航医学(トラベルメディスン)の現状と未来を、日本渡航医学会理事長の中野貴司氏に聞きました。

  • 事例

    「自分が理想とする糖尿病診療を追い求めて」開業へ

    小児糖尿病の宣告を受けるも、「糖尿病だってなんでもできる」という医師の言葉をお守りに自らも医師を志すことを決意した南昌江内科クリニック(福岡市)の院長、南昌江先生。現在の糖尿病専門科医院を経営するようになった軌跡を伺います。

  • 事例

    小児糖尿病にならなければ、医師の私はいない

    福岡市にある糖尿病専門科医院、南昌江内科クリニックの院長・南昌江先生は、ご自身が中学2年生の際に小児糖尿病を宣告された身の上です。病気を発症した前編に続き、今回は医療への水差し案内人となった医師との出逢いや転機となった出来事について伺います。

  • 事例

    14歳で1型糖尿病「前向きに考えて生きなさい」

    14歳の夏、”小児糖尿病”の宣告を受けた南昌江先生。その数年後、両親や主治医、同じ病気の仲間たちに支えられ医学部受験、医師になるという夢を果たしました。前編では、病の発症、闘病生活について伺います。

  • 事例

    医学生から育児を両立して約10年… 支えとなった言葉

    二人のお子さんが就学し、育児から少し手が離れてきた林安奈先生。現在は、クリニックや大学病院での診療のほか、産業医業務にも注力されています。今日に至るまで、さまざまな壁を乗り越えてきた林先生の支えとなったのは家族の存在、そして、ある医師に言われた言葉でした。

  • 人気記事ランキング

    この記事を見た方におすすめの求人

    常勤求人をもっと見る