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まだ日本で浸透していない医学を広めたい! 形成外科医の新たな挑戦 ―菊池 守氏(下北沢病院)

2018年7月30日

形成外科医として、乳房再建や下肢静脈瘤の治療に専念していた菊池守氏。キャリアの転機を迎えたのは、医師10年目。ある学会で聞いた発表に衝撃を受け、日本に足病学を浸透させるべく、挑戦を始めました。菊池氏が院長を務める足病専門総合病院の軌跡、今後の展望を伺いました。(2018年5月15日)

キャリアを大きく変えた、足病との出会い

―足病に出会ったきっかけを教えてください。

医師10年目頃に参加した学会で、米国の医師が「形成外科医と足病医のコラボレーション」というテーマでビデオ演題を発表していたのです。それまで形成外科医として働いてきた中で、足病医なんて聞いたこともありませんでした。どのような職業なのかと聞いてみると、アメリカでは足首より先――州によっては膝より下が悪かったら、足病医に診てもらうことを教えてもらいました。足病医は捻挫や外傷の治療はもちろん、外反母趾などの足の変形に対する手術も行い、靴を調整したりインソールまで作ったりするのです。アメリカでは、心身を診る「医師」と歯を診る「歯科医師」、そして足を診る「足病医」というように、独立して足病医が確立されていることにも驚きました。それと同時に足病医に興味を持ち、足病医が准教授としていらっしゃったジョージタウン大学形成外科に見学に行かせてもらいました。実際の業務を見学させてもらった時の衝撃が、その後のキャリアを大きく変えましたね。

―具体的に、何が衝撃的だったのですか。

形成外科医の仕事は傷を治すこと。足に傷ができた患者さんが来たら軟膏を塗ったり、皮膚の移植をしたりします。ところが、アメリカの足病医は足に傷ある患者さんに対して全く違う考え方をしていました。
「傷に何かを塗ったり貼ったりするだけではなく、なぜそこに傷ができるのかを考えなさい」とおっしゃっていたのです。例えば、外反母趾があって指が曲がっているから、骨が靴に当たり、その部分に傷ができる。このような場合、傷のある部分に皮膚を貼っても再び傷ができるため、皮膚移植の意味がありません。傷ができないようにするためには、外反母趾の指をまっすぐにする手術を行うべきだ――と。

恥ずかしながら、わたしは形成外科医でありながらも、そのような考え方をしたことがありませんでした。医学教育の中でも教わったことがありません。アメリカでの足病医との出会いは、わたしにとってまさにブレークスルーだったのです。

どの診療科でも、足のプライマリ領域の診断ができる

―留学をきっかけに、帰国後は足病を専門に診る医師へとキャリアシフトしたのですね。

結果的にそうなりましたね。留学時に所属していた大阪大学では、足病を診るためのチーム結成が困難でした。どうしようかと考えていた時に、佐賀大学から下肢救済のために足を診られる医師を探しているとお声がけがあり、3年ほど下肢の救済治療や足病変予防の研さんを積みました。
転機となったのは2015年。当院の理事長から「下北沢病院を足病専門病院のモデルにして、アメリカで確立している足病学を日本に持ち込み、浸透させる拠点にしたい。その院長にならないか」という話をいただいたのです。その考えに共感し、院長を引き受けることにしました。

現在当院は形成外科の他に、整形外科、糖尿病内科、血管外科、皮膚科の専門医が在籍しており、足のプライマリ領域はどの診療科の医師でも診られるようにしています。
他にも、歩行のリハビリを行うために不可欠な理学療法士、装具や靴のインソールを作る義肢装具士、フットケアやアセスメントができる看護師、糖尿病の薬剤・栄養管理のための薬剤師や管理栄養士、入院治療から地域に帰すためのソーシャルワーカーもいます。足病は複数の診療科の医師やコメディカルがチームになって取り組まなければならず、そのためのチームを確立するのは困難です。しかし、当院は足病を軸にスタッフが構成されているので、その点はスムーズに行えています。

―足のプライマリ領域を医師全員が診られるようにするために、どのように診療スキルの均質化を図ってきたのですか。

整形外科医が中心になって足の痛みやしびれの診断方法を座学で勉強したり、症例報告を通して傷の治療方法や軟膏の使用方法をレクチャーしたりしてきました。加えて、外来診療の際に「これは知っておいたほうがいい」と思うことを各科から出しあい、ポケットマニュアルも作成しました。

正直なところ、最初はとても難しかったですね。みなさん当院のコンセプトに共感して集まっているので想いの方向性は同じですが、それだけでは難しいものがあります。まずは1年間、誰でもプライマリ領域は診られるように頑張っていこうと協力し合い、努力してきました。現在でも、毎週1回アメリカの足病学の教科書を翻訳したものを共有して勉強したり、毎週月曜日のカンファレンスで、外来症例で困っていることを共有して他のスタッフの意見を聞いたりしながら知識を深めたりしています。

日本に「足病」という概念を浸透させたい

―現在、課題に感じていることはありますか。

診療面ではまだまだレベルアップが必要という点、経営面では足の総合病院としていかに収益性を高めていくかが大きな課題です。

例えば、下肢救済は傷が治るまでに何カ月もかかります。1人の患者さんが3カ月入院すると赤字になる――これが、多くの医療機関が下肢救済に力を入れられない要因です。そのため当院では、下肢救済など低単価でも深刻な疾患と、高単価・高回転の疾患を組み合わせて収益性を担保しながら、本当に取り組んでいきたい下肢救済など足病の治療をしていくという、1つのモデルを提示したいと考えています。その方法はまだ完全には見えてきていませんが、成功モデルを確立して、あとに続く医療機関が出てきてほしいと思っています。

―足病専門の総合病院として、モデルケースを目指すということですね。

その通りです。日本には足病という概念がまだまだ浸透していないので、当院を拠点に広げていきたいですね。具体的には、当院を足病学の研修施設にして、足病学そのものの研修や、足病のチーム医療の形を広げていきたいとも考えています。現在すでに、足病の外来を立ち上げようとしている医療機関から医師を受け入れていますし、他院と連携した後期研修プログラムに入ることも決まっているので、一緒に研究を進める医療機関からも、積極的に研修を受け入れられたらと思っています。

その一方で、地域に対しても働きかけていく必要があると考えています。現在進めているのは、世田谷区の医師やコメディカルの方々に「足の番人(=ゲートキーパー)」となってもらうこと。具体的には、区内の医療機関や訪問看護師、介護士、セラピストの方々に、当院が主催するセミナーに参加してもらい、「危ない足」と「危なくない足」の違いを熟知してもらうことで、足の評価やフットケアを適正に行い、地域住民の足を守る番人となるプロジェクトです。セミナーの参加回数によって足の番人のランクがあるのですが、ベーシックコースを受講した証明としてお渡ししているブロンズバッジを持っている方は250名を超えました。今後も足の番人をさらに増やしていくことで、ゆくゆくは一般の方々にも、「足病」という概念を知ってもらえたらと思います。

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