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国境なき医師団を理由に退局申し出 思わぬ結末とは―国境なき医師団の現場から【4】

2017年8月10日

やりがいがある反面、様々なハードルもある国境なき医師団での活動。職務にもよりますが、一度派遣されると最低でも4週間以上現地に滞在しなければならないため、日本国内の常勤先の医療機関との折り合いをつけるのが難しいと考える医師も多いのが実情です。今回は、新潟県の魚沼基幹病院で産婦人科部長として働くかたわら、国境なき医師団の活動にも参加し続けている鈴木美奈先生に、日本でのキャリアとの両立について伺いました。

 「国境なき医師団に参加したいので、医局を辞めさせてください」

―医師20年目にして、国境なき医師団に参加しようと決意した理由を教えてください。

小学生のときにテレビで国境なき医師団のことを知ってから、ずっと参加してみたいと思っていました。医師になってからもその思いは変わりませんでした。でも、参加するならどんな状況にでも対応できる自信がついてから参加しようと決めていて―。わたしの場合、医師20年目がその時でした。当時のわたしは、医師として進路に迷っている時期でもありました。

―当時、どのように進路に悩んでいたのですか。

「困っている子どもや、お母さんを助けたい」と思って働いてきました。しかし、高度化した日本の医療は、「助けられることは当たり前、大切なのはいかに患者さんの意に沿えるか」というところに目線が移っていると感じたのです。特に産婦人科は、患者さんの意に反したことが起こると訴訟という言葉が聞かれる診療科。それが嫌だということではないのですが、自分の目指している医療と、求められる医療が徐々にかい離し始めたように感じました。

医学部卒業後、新潟大学の産婦人科医局に在籍し、素晴らしい指導医や患者さんと出会えたことには感謝しかありません。しかし、その一方で、幼いころから抱いてきた国境なき医師団への思いを捨てきれず、教授に「国境なき医師団に参加したいので医局を辞めさせてください」と正直に伝えました。

―退局を申し出たとき、周囲からはどのような反応をされましたか。

予想はしていましたが、引き止めの声は大きかったですね。「医療過疎地である新潟県にも、困っている患者さんはたくさんいるのだから」と。長年お世話になったご縁もあるので、国境なき医師団への参加に理解を示してくれる医療機関の情報を集めながら、もう少し新潟で働くことを決意しました。ただ、わたしが辞めようとしているという話は、どこからか職場に広まり――、同僚たちが「わたしを辞めさせないでほしい」「新潟で地域医療に携わりながら、国境なき医師団に参加できる方法を考えよう」と、働きかけてくれたのです。

結果的に医局は辞めず、「国境なき医師団に参加しながら働いてもいい」という条件で雇用関係が結べて、2年前に新設された魚沼基幹病院で働くことになりました。魚沼基幹病院には最長3年間の自己啓発休業制度があるため、それを活用すれば、在籍したまま国境なき医師団に参加できます。教授からも、応援のお言葉をいただき、本当にありがたかったですね。

―国境なき医師団に、定期的に参加しやすい制度ですね。実際に国際医療援助に携わるまでの流れを教えてください。

国境なき医師団の面接をパスして、派遣医師として登録したのが2015年11月後半。初めての赴任は2016年1月、アフガニスタンでした。予想以上に打診が早く、引き継ぎなど準備が間に合うだろうか、爆撃を受けたばかりの地(※)に赴くことを家族がどう思うだろうかとすごく悩みました。しかし、ちょうどその時期に、現地に派遣されていた日本人の助産師さんがおり、連絡をとってさまざまな話を伺いました。「反対されても来てよかった」という言葉を聞いて心を決めました。人手不足の状態で魚沼基幹病院を抜けることに対し申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、同僚たちが「頑張って」と快く送り出してくれたので、前向きな気持ちで臨むことができました。

※ 2015年10月3日、アフガニスタン北部クンドゥーズで国境なき医師団が運営する外傷センターが米軍による空爆を受け、患者やスタッフ42人が命を落とした事件。当時のオバマ政権は謝罪したものの、独立した第三者機関による調査受入れには応じなかった。2016年に鈴木医師が派遣されたのはアフガニスタン国内の別のプロジェクト。

小学生からの夢 国境なき医師団に参加して

―初めての国境なき医師団の活動では、どのようなことを感じましたか。

©MSF

渡航前に抱いていた「お産が多い」「ひっきりなしに患者さんが来る」という状況は予想通りでした。しかし、現地医療従事者の採用面接や評価、医療システム作りというマネジメントまで職務範囲だとは思っていませんでした。

現地スタッフの教育も進められており、みなさん医療技術が予想以上に高かったです。日本人医師は最先端の機械を使って診断、治療をする技術は高いですが、発展途上国のような医療資源が限られた中での診療となると、現地の人には敵わないと感じましたね。そのような状況だったので、アフガニスタンに入って2週目からは、教えるよりも教えてもらおう、みんなで話し合いながら楽しくやろうと考えが変わっていきました。

このプロジェクトは、アフガニスタンの首都カブールの西部にある産婦人科に特化した病院で、母体、新生児の死亡率を低下させることを目的としています。わたしは先進国での医療にしか携わったことがなかったため、発展途上国との判断基準の違いに衝撃を受けました。

たとえば、帝王切開を決める場合です。日本では、赤ちゃんが苦しそうだから帝王切開に切り替えることはごく普通のことですが、アフガニスタンでは母1人あたりの出産回数が4~5回と多いので、母体を優先させ簡単には帝王切開ができません。そのため、赤ちゃんが亡くなることもあり、歯がゆい思いもしました。

―アフガニスタンの任務から約10カ月後、ナイジェリアにも派遣されています。1回目の派遣経験をどのように活かすつもりで臨まれましたか。

©MSF

アフガニスタンでは現地の医療従事者のみなさんから多くのことを教えてもらいましたので、前回同様、最初から教えてもらう心づもりで行きました。

しかし、ナイジェリアは国境なき医師団の産婦人科プロジェクトの中でも忙しさ、重症例の多さがトップクラスというエリア。日本ではほとんど診ることのない疾患をたくさんたくさん診ました。けいれんしている妊婦、胎盤がはがれた妊婦、子宮内で赤ちゃんが亡くなっている妊婦、陣痛が来てから何日も生まれない妊婦などが毎日10人近く運ばれてきます。これまでの経験、知識を総動員し診療しなければなりませんでした。また、熱帯医学の勉強不足を実感したり、英語力もまだまだと痛感したりして、さまざまなモチベーションが上がった現場でもあり、アフガニスタンとはまた違う充実感がありました。医師としてもスキルアップでき、このような経験をさせていただき感謝しています。

世界を知ったからこそ、見えてきたもの

―2度の国境なき医師団派遣の経験を、新潟県でどのように活かせそうですか。

わたしが勤務している魚沼基幹病院は、三次救急を担い、高度な医療機器を使って患者さんを診ています。けれども、国境なき医師団では必要最低限のもので診断、治療するスキルが求められる。全く真逆な状況です。精密機器などに頼らず、患者さんをじっくり診て、触って、聴いて、どんな疾患を抱えているか考えて治療に臨む機会はなかなかなく、良い経験になりました。

医療以外で気付いたことは、現地の家族愛や人間愛の強さです。日本は核家族化が進んでいるため、妊婦さんやお母さんになった女性が孤立しがちです。精神疾患を抱えてしまうケースも少なくありません。ほかの国の状況を知ったからこそ、日本の女性が抱えている問題にも気付くことができた。そうした女性たちをどうサポートしていくべきかという課題ができたのも、国境なき医師団に参加できたからだと思っています。

―今後も、国境なき医師団の活動に参加していきたいとお考えですか。

ライフワークとして、できる限り参加し続けたいですね。実は現在、今年の10月から半年間派遣させてもらえるよう、職場と調整をしているところです。無理を言っていることも、同僚に迷惑をかけることも重々承知の上ですが、それでも行きたい。国境なき医師団側には、ナイジェリアのような忙しい地域で活動したいと希望を出しています。前回は3カ月弱と期間が短かった―というより、それ以上だと医師の体力が持たないという理由があるようでしたが、そのような場所に長期間滞在することで、本当に困っている患者さんを1人でも多く診て、助けてあげたいですね。それがわたしの「医の原点」でもありますから。

 本当にやりたいことなら、周囲もきっと応援してくれる

日本の医療現場の状況も分かっているつもりなので、「国境なき医師団に参加しようか迷っている」「何かにチャレンジしたいが踏ん切りがつかない」という方に対して、無責任に「思い切って一歩踏み出してみてください」とは言いません。

©MSF

でも、どんな人にも、「このチャンスを逃したら、いつか後悔しそうだな」という時があると思うのです。本当にやりたいことであれば、まずは言葉に出してみること。わたしの場合、同僚や勤務先の理解があったからこそ実現できたようなものですが、常々「国境なき医師団に参加してみたい」と口にしていたため、いざというときに周りが動いてくれたり、サポートしてくれたりしたのではないかと思っています。国境なき医師団日本事務局の方によると、わたしのように医局に所属しながら参加されている方も数名いらっしゃるそうです。ダメもとで言ってみたところ、意外にも許可が出たケースもあったそうなので、最初から無理と決めつけない方が良いと思います。人間いつ死ぬかは誰にもわかりません。人生後悔なく、より実りあるものにするために、覚悟があるなら、まずは言葉に出してみて、少しずつでも前に進んでみてはどうでしょうか。悩んでいる方には、そんな風に伝えたいです。

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