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アフリカ支援、松阪市長を経験した医師が、東京の在宅医療に挑戦するわけ―山中光茂氏(げんきらいふクリニック)

2017年8月22日

外交官の内定直前で医師を目指し、医師免許取得後はアフリカ支援、帰国後は三重県松阪市長を務めた山中光茂氏。異色の経歴を持つ山中氏が選んだ次のステージは、東京都での在宅医療でした。なぜ東京の地で、取り組みを始めたのでしょうか。

アフリカで知った“他者の幸せ”を、日本で実現する

―まずは外交官から一転、医師を志した経緯を教えてください。
外交官を目指したきっかけは、小学生の時にエチオピア難民支援のテレビ番組を見たことです。その頃から徐々に、地球の裏側で起こっていることに一生かけて関わっていきたいと思うようになりました。その後、慶應義塾大学法学部に進学して、外交官の内定直前まで進みましたが、その段階で、外務省とは日本の国益のために働く場所であるため、外交官になっても自分のやりたい「途上国の問題解決」ができないと思うようになり、医師になることを決意したのです。

―アフリカでは、どのような活動をしてきたのでしょうか。
群馬大学医学部卒業後、すぐにアフリカへ渡り、NPO法人少年ケニアの友を基軸に、地元の人たちとエイズ感染予防プロジェクトを立ち上げました。わたしが活動した地域は、HIV感染率が43%で経産婦罹患率も約30%。つまり、HIVが次世代にもどんどん引き継がれてしまう状況だったのです。

日本人の価値観で見ると「かわいそう」と思うかもしれませんが、現地の人は必ずしもそうではありません。そのような環境でも精一杯生きていて、たくさんの笑顔であふれていたのです。それまでは「何かをやってあげたい」という思いが強かったのですが、勝手に「かわいそう」と決めつけるのはおこがましいと感じるようになりました。同時に“自分ではなく他者が感じる幸せ”を、より真剣に考えるようになったのです。これは在宅医療に従事している今でも、常に考えていますね。

―当時、他者が感じる幸せを追い求めようと考えた末に、松阪市長に就任した理由を教えてください。
国内の状況に目を向けた時、障がい者や医療福祉の問題などが山積していて、幸せを感じられない社会、子どもたちに笑顔がない社会があることに気付きました。地球の裏側だけでなく、日本人として目の前の問題にも向き合うために、行政のシステムづくりに関わろうと思ったのです。

国会議員秘書や県議会議員を経て、松阪市長になったのは33歳のとき。生まれ育った三重県松阪市では、市民の意見が反映されない市政が繰り広げられていました。これでは地域の人々は幸せになれないと考え、まずは市民と一緒に、どんな街にしたいかというマニフェスト作りを始めました。

その後、市長の自分がやりたいことではなく、住民の方々が何をやりたいのかを確認しながら、さまざまな人のまとめ役として、職務を遂行していました。ところが、市民とともに積み上げてきた案件を市議会が否決を続けるようになり、わたしが市長である限り全案件の採決が拒否されるとわかったので、市政停滞を避けるために自らの意思で7年目に辞任を決めました。

行政サイドではなく、現場から地域包括ケア実現に挑戦する

―アフリカ支援と松阪市長を経て、なぜ在宅医療に関わることを決めたのですか。
市長時代は、行政の立場から地域包括ケアを進めてきました。しかし、行政が病床数を決定したとしても、現場で在宅医療が受けられる体制が整わなければ机上の空論で終わってしまいますし、多職種連携会議でも行政職員が何をどう進めて行けばいいのか分からない場合が多かった。そういった状況から、行政主体で地域包括ケアに関わる限界を痛感していました。

そのため、今度は医師であることを活かし、自分が在宅医療の体制を築き、浸透させていきたいと考えるようになったのです。そんな折に、三重県四日市市のいしが在宅ケアクリニックの石賀丈士院長から熱い声がけで「一度、在宅医療の現場を見てみないか」と言われ、在宅医療の世界に飛び込みました。

東京で、在宅医療の土台をつくる


―約1年間、いしが在宅ケアクリニックに勤務後、東京都江戸川区の在宅医療クリニックの院長に就任されましたが、そのときはどのような思いがあったのですか。
四日市市で在宅医療を始めてから、東京の在宅医療クリニックを数件見学したことがありました。そこで初めて、四日市市は在宅医療の土台ができていると気付いたんです。今まで学んできた土台を都市部にも広げていきたい―。そう思い、げんきらいふクリニックの院長に就任しました。

―在宅医療の土台とは何でしょうか。
わたしが考える在宅医療の本質は、病院や施設ではなく、自分が住み慣れた、愛する自宅で、最期の幸せの瞬間まで最善を尽くしてお看取りさせていただくことだと思っています。医療には治す幸せもありますが、最期の瞬間まで穏やかに老いを感じる幸せもすごく大事だと思います。四日市市の多くの住民や医療従事者には、このような心づもりが広がっていました。

一方、都市部の患者さんの場合、90歳を超えていても認知症やがんを治してほしいというご家族が少なからずいますし、訪問看護師やケアマネジャー、訪問診療を担当している医師ですら、急変したら当然救急搬送すればいい、どんな病状でも、高齢でも治せるなら治したいという認識が強いように感じました。都市部での在宅医療はまだ、大病院で治せない人のちょっとした受け皿ぐらいにしか思われていないような気すらしました。

―住民も医療従事者も、在宅医療に対する認識が全然違ったのですね。
そうですね。また、連携の面でも課題が多く感じられました。在宅医療ではご家族との対話が非常に重要ですが、都市部では近くに住んでいないことが多く、患者のご家族とも十分なコミュニケーションが図れないことが多いですね。四日市市では昔ながらの地域コミュニティがあり、ケア提供者同士、顔の見える関係性がつくりやすいのですが、都市部は在宅医療に関わる事業者の数が多いだけでなく考え方も多種多様で、連携が取りにくい現実がありました。

げんきらいふクリニックの院長になって驚いたのが、いくつかの病院の退院カンファレンスで「在宅クリニックの先生に、初めて退院カンファに来てもらった」と言われたこと。病院側も送り出すだけで後はお任せという場面があり、患者さんの病態など、詳しいやりとりができていないことを知りました。

―在宅医療での、今後の目標を教えてください。
四日市市では「ただ治すのではなく、最期の瞬間まで『生きる』ことを大事にする」と学びました。今、江戸川区には、四日市市のようなしっかりとした基盤があるわけではありません。そのため一人でも多くの患者さんが、最期の瞬間まで生き抜くことができる土台作りから始めたいです。

在宅医療の本質的な意義を広めるだけでなく、多職種、そして医療機関同士の連携など、進めていくべきことはたくさんあります。だからこそやりがいがありますし、それが自分の果たすべき役割だと思うので、1つ1つに真摯に取り組み“本当の在宅医療”を浸透させていきたいですね。

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