1. m3.comトップ
  2. キャリアデザインラボ
  3. キャリア事例
  4. 事例
  5. 「二度と行きたくない」国境なき医師団に、女性医師が参加し続ける理由―国境なき医師団の現場から【3】
事例

「二度と行きたくない」国境なき医師団に、女性医師が参加し続ける理由―国境なき医師団の現場から【3】

2017年7月6日

医師のキャリアの分岐点となる40代。内科医の平井亜由子氏は40歳で国境なき医師団に初挑戦し、今は活動している国の公衆衛生の一端を担うまでに活躍しています。しかし、1回目の活動を終えたときの感想は「もう二度と行かない」。それでも平井氏が活動を続けるのは、ある理由があります。

幼少期からの夢だった医師 ―夢を叶えた末に感じた迷い

―国境なき医師団で活動する前のキャリアを教えてください。

母が看護師だったこともあり、医師を志したのは5歳くらいのときです。専門科目に内科を選んだのは、全身を診られる点に魅力を感じたからです。
大学卒業後は、医局人事で10年間勤務医をしていました。内科全般を4年間経験した後、呼吸器専門医を取得しました。しかし、専門医として働くうちに呼吸器という一臓器の診療にたずさわること、医局の中で将来どうキャリアを積んでいくかに迷い、30代半ばで退局しました。24時間オンコールの主治医制や医療訴訟に対するプレッシャーも大きい中で「自分が医師としてどうあるべきなのか」とか「何を続けたいか、続けられるか」を考えることも多かったです。

―30代半ばまでは、医師として一般的なキャリアを歩まれていたのですね。それから国境なき医師団に参加したきっかけは、何だったのでしょうか。

趣味で通っていた語学学校の友人に「医師でフランス語を学んでいるなら、フランス発祥の国境なき医師団に参加したらいいのに」と言われたことです。海外留学やボランティア経験もなかったため、国境なき医師団は敷居が高く感じていたのですが、友人が自身の海外ボランティアの話を普通のことのように話をしてきたことで、気持ちが軽くなりました。「なぜ医師になったのか」を振り返る良いチャンスになるかもしれないと思い、応募してみました。

「目の前の人を、すぐに助けられない」活動の難しさと対峙

―1回目(2011年)の活動は、ジョージア(グルジア)にあるアブハジア自治共和国で多剤耐性結核のプログラムに参加されましたが、初めての活動に想像とのギャップはありましたか。

正直、ギャップだらけでした。わたしが抱いていた国境なき医師団のイメージは、列をなして助けを待つ患者さんに次々に処置をするというものでした。しかし、アブハジア自治共和国は医師免許の関係上、直接処置ができず、現地保健省の医師と回診したり治療方針を立てたりする、スーパーバイザーとしての活動が主でした。
あわせて難しかったのは、多剤耐性結核は治療に約2年の時間がかかり、患者さんが治療を拒否したり病院から逃げ出したりと、医師としては体力よりも精神的に大変でしたね。今思えば、自分の能力不足のせいなのですが、自分が何のために派遣されているのかを理解することにも苦労し、1回目の活動が終わったときは「もう二度と行かない」と周りにもらしていました。

―「もう二度と行かない」と思ったにもかかわらず、もう一度挑戦しようと思われた理由は何でしょうか。

当時の活動責任者に「もう一度、別のプログラムに参加してから、国境なき医師団を続けるかどうか判断してほしい」と言われたからです。もう1度行くなら、今度は出来るだけ初回とは違う分野の活動に参加したいと思い、長崎大学で熱帯医学研修を受け、フランス語の再勉強に取り組みました。結果、べキリー(マダガスカル南西部)でのフランス語のプログラムに参加することが決まりました。

2回目から、活動の面白さに気づく

―2回目(2013年4月~12月)のべキリーでの活動は、医療チームリーダーとして病院運営をされていたとのことですが、1回目とどのような点が違うと感じましたか。

©MSF

このプログラムは、当初抱いていた国境なき医師団のイメージに近い活動で「地域唯一の病院を運営する」というのが主な内容でした。マラリア、栄養失調など日本ではほとんど診ない疾患に加えて、銃創などの外傷、出産もあり、内科医のわたしには酷な場面もありましたが、紛争地で経験がある看護師に教えてもらうなどして、チームで乗り越えていきました。

わたしが担当を任された医療チームリーダーというポジションは、通常の診療に加えてチームメンバーのマネジメントや患者の緊急搬送の判断なども任されていました。多国籍の医療者が入り乱れるので、チームをまとめあげるのはそう簡単ではなかったです。例えば、国境なき医師団の活動では、医師や看護師、コメディカル、非医療従事者の関係に上下はないのですが、チームリーダーとしてプロジェクトを進めていくには「NO」と言わねばならないときも当然あり、苦労しました。どうしたらメンバー全員に納得してもらえる働きかけができるかは、自分自身スキルアップしていかねばならない部分だと思っています。

―2回目から、国境なき医師団の印象が良い方向に変わったように思いますが、あらためて活動に参加してよかったと思うことは何でしょうか。

活動地での現地の人々が必死に生きている姿から、いつも元気をもらっています。日本が発展しているから幸せとは限らなくて、国によってさまざまな生き方があり、彼らには彼らの幸せがあると感じています。

また、人間も動物の一種であることを思い出す瞬間があります。日本での「死」は特別なことのように感じがちですが、国境なき医師団の活動地の多くでは、妊産婦死亡率や乳児死亡率が高いだけでなく、けんかによる殺し合いなども日常的に起きています。それが良いか悪いかという議論は抜きにして「生きること」をとことん考えさせられる機会を持てたことは、国境なき医師団に参加したからこそだと思っています。

国レベルの医療プロジェクト管理に挑戦

―2017年4月からは、結核対策プログラムで2度目のパプアニューギニアに行かれますが、あらためて意気込みと今後の目標を教えてください。

©MSF

次は、同プログラムの医療コーディネーターとして参加します。今まではチームリーダーとしてプロジェクト単位で責任を負っていましたが、今回は同国で国境なき医師団が展開する全活動の医療責任者を務めますので、現地の保健省やカウンターパートと交渉しながら、マネジメントを行います。目の前の患者さんを救うのはもちろん、パプアニューギニアの結核治療の行く末をもっと大きなレベルで考えるので、やりがいも大きいのではと期待しています。今までの活動を通して抱いた課題や仲間の意見を整理しながら、どうしたらプログラムを最適に進められるかを考えていきたいですね。

医療コーディネーターのポジションになると、最前線で治療をすることからは遠くなりますが、私はそれでも国境なき医師団の活動が楽しいし、活動に参加することで、常に新たな挑戦をさせてもらえるのが魅力です。自分の任務を責任持って進めていきたいと思います。

今後のキャリア形成に向けて情報収集したい先生へ

医師の転職支援サービスを提供しているエムスリーキャリアでは、直近すぐの転職をお考えの先生はもちろん、「数年後のキャリアチェンジを視野に入れて情報収集をしたい」という先生からのご相談も承っています。

以下のような疑問に対し、キャリア形成の一助となる情報をお伝えします。

「どのような医師が評価されやすいか知りたい」
「数年後の年齢で、どのような選択肢があるかを知りたい」
「数年後に転居する予定で、転居先にどのような求人があるか知りたい」

当然ながら、当社サービスは転職を強制するものではありません。どうぞお気軽にご相談いただけますと幸いです。

エムスリーキャリアは全国10,000以上の医療機関と提携して、多数の求人をお預かりしているほか、コンサルタントの条件交渉によって求人を作り出すことが可能です。

この記事の関連記事

  • 事例

    不公平?2児の女性医師が抱える家庭事情

    最近では当たり前になりつつある、夫婦共働き。千葉大学病院脳神経内科准教授の三澤園子先生は出産のタイミングに悩み、34歳、40歳で2児を出産。今も仕事と家庭の両立方法を探り続けています。後編では出産・育児にまつわるエピソードと、共働き夫婦でキャリアアップするための秘訣を聞きました。

  • 事例

    准教授のママ医が、常勤にこだわる理由

    最近では当たり前になりつつある、夫婦共働き。特に医師は、仕事の頑張り時と出産・育児の時期が重なりがちです。医師23年目の三澤園子先生は、仕事と家庭の両立に悩みながらもフルタイム勤務を続け、現在は千葉大学病院脳神経内科の准教授と2児の母、2つの顔を持ちます。前編では、三澤先生のキャリアについて伺いました。

  • 事例

    院長のラブコール「帰ってこい」Uターン医師の新たな挑戦―光田栄子氏

    お看取りのあり方に課題を感じ、介護士から医師に転身した光田栄子先生。諏訪中央病院を経て、現在、岡山市内のベッドタウンにある有床診療所「かとう内科並木通り診療所」に勤めています。地元にUターンした光田先生がこれから取り組んでいきたいことについて、お話を伺いました。

  • 事例

    「診療科の隙間を埋める」院長の挑戦とは―中山明子氏

    大津ファミリークリニック(滋賀県大津市)院長の中山明子先生。外来、訪問診療をしながら、家庭医として、相談先を見つけにくい思春期の子どもや女性のケアに力を入れています。

  • 事例

    日本の当たり前を再考する渡航医学の視点

    さまざまな診療領域の中でも、コロナ禍で大きな影響を受けている「渡航医学」。中野貴司氏は日本渡航医学会の理事長を務めつつ、川崎医科大学の小児科教授、病院の小児科部長としても働いています。改めてこれまでのキャリアを振り返りながら、「渡航医学」の視点がキャリアにもたらすプラスの要素を聞きました。

  • 事例

    コロナで大打撃「渡航医学」の今

    新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって、大きな影響を受けているのが「渡航外来」や「トラベルクリニック」です。各国への出入国が従来よりも難しくなっている今、渡航医学(トラベルメディスン)の現状と未来を、日本渡航医学会理事長の中野貴司氏に聞きました。

  • 事例

    「自分が理想とする糖尿病診療を追い求めて」開業へ

    小児糖尿病の宣告を受けるも、「糖尿病だってなんでもできる」という医師の言葉をお守りに自らも医師を志すことを決意した南昌江内科クリニック(福岡市)の院長、南昌江先生。現在の糖尿病専門科医院を経営するようになった軌跡を伺います。

  • 事例

    小児糖尿病にならなければ、医師の私はいない

    福岡市にある糖尿病専門科医院、南昌江内科クリニックの院長・南昌江先生は、ご自身が中学2年生の際に小児糖尿病を宣告された身の上です。病気を発症した前編に続き、今回は医療への水差し案内人となった医師との出逢いや転機となった出来事について伺います。

  • 事例

    14歳で1型糖尿病「前向きに考えて生きなさい」

    14歳の夏、”小児糖尿病”の宣告を受けた南昌江先生。その数年後、両親や主治医、同じ病気の仲間たちに支えられ医学部受験、医師になるという夢を果たしました。前編では、病の発症、闘病生活について伺います。

  • 事例

    医学生から育児を両立して約10年… 支えとなった言葉

    二人のお子さんが就学し、育児から少し手が離れてきた林安奈先生。現在は、クリニックや大学病院での診療のほか、産業医業務にも注力されています。今日に至るまで、さまざまな壁を乗り越えてきた林先生の支えとなったのは家族の存在、そして、ある医師に言われた言葉でした。

  • 人気記事ランキング

    この記事を見た方におすすめの求人

    常勤求人をもっと見る