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2つの職を経た女医が、介護にこだわる理由―吉住直子氏(JCHOうつのみや病院)・前編

2020年3月30日

「ちょっと医学に詳しい近所のおばさんを目指している」と朗らかに話すのは、医師の吉住直子氏です。医学部に入るまでは、臨床検査技師や介護ヘルパーの仕事をしていて、介護現場に立つうちに医師になろうと決意しました。どのような思いで、医師というキャリアを選んだのでしょうか。インタビューを3回に分けてお届けします。(取材日:2020年1月31日)

貧しかった子ども時代、地域に支えられて生き抜いてきた

──医師になる前のキャリアをお聞かせください。

群馬大学医学部保健学科を2005年に卒業し、臨床検査技師として自治医科大学附属病院(栃木県下野市)で働いていました。検査技師になったのは、家族がよく入院していたのでもともと医療に興味があったこと、高校時代に理科系が好きだったことと、「手に職をつけて、人の役に立ちたい」と思っていたからです。私は中学生の頃に父親が病気で倒れ、経済的に苦しい家庭で育ちました。お米を買うお金にも困る状況で、周囲の方々に支えられて生きてきたのです。両親が入院したときは同級生の家から通学させてもらい、高校の制服はリサイクルショップから譲り受けました。

臨床検査技師として働き始めてからは、「もっと直接、人と接する仕事がしたい」と思うようになっていって──。半年で退職し、資格を取得して有料老人ホームのヘルパーに転職しました。

──どのようなところに転職したのですか。

今思うと、少し特殊なところだったかもしれません。普通の民家に10人くらいのお年寄りが入所していて、かなりアットホームな環境でした。認知症のある方がいわゆる徘徊をしたらヘルパーが一緒に行って、歩き疲れたら一休みして帰る。利用者さんが「お風呂に入りたくない!」と言ったら、ヘルパーも裸になって一緒に入浴する──ということが普通にありました。もちろん身体拘束はしませんし、利用者さんたちに何かを指図することもありません。皆さん自分の家のようにイキイキと暮らしていて、私もとても働きがいがありました。転職してよかった、一生この仕事をしていたいと思いました。

臨床検査技師になったときもヘルパーになったときも、医師になろうとは全く考えていませんでした。

「いい介護」をするため、ヘルパーから医師に転職

ヘルパー時代の吉住先生(吉住先生提供)

──その心境から医師になったのは、どういう経緯だったのでしょうか。

3年半にわたってヘルパーとして働く中で、「自分が医師になったほうがいいのでは」と思う出来事がいくつもあったからです。

ある100歳の女性は、少しずつ体が弱り、ご飯も食べられなくなっていきましたが、「最期までこの施設で過ごしたい」と言っていました。ところが、往診をしてくれる医師が見つからず、施設でのお看取りは叶いませんでした。容体が悪くなったときに救急車を呼んで、本人も家族も望まない心臓マッサージを受けた末、医療機関でのお看取りになったのです。

もう1人、90代後半の女性で、腎臓疾患を患った利用者さんがいました。あるとき、1週間の検査入院をしたのですが、その間にADLが大幅に低下してしまって──。入院時は普通に歩けていたのに、退院後はほとんど寝たきりになってしまいました。これをうけて、「この方にとって、検査入院は本当に必要だったのか?」と疑問を持ったのです。疾患だけでなく、その人の人生全体を診てくれる医師が必要だと痛感しました。

また、私たちヘルパーが、検査入院や服薬について「本当は必要ないのでは?」と意見を述べても、ほとんどのご家族は聞いてくれません。毎日、家族同然に利用者さんと過ごし、誰よりもその方を理解しているヘルパーよりも、月に一度来る医師の判断が絶対的なのです。利用者さん1人ひとりに合わせた介護をするには、医師として関わるほうがいいのかもしれない──。そう思うようになり、いい介護をするために、私は医師になる決意をしました。

働きながら受験し、27歳で医学部編入

──ヘルパーの勤務と並行しながら、受験に臨んだのですか。

そうですね。受験期間中もヘルパーとして常勤で働いていました。休日はだいたい勉強にあて、夜勤の日も隙間時間に勉強でしたね。合格するまで2~3年はかかるだろうと思っていましたが、幸いなことに1回目の受験で合格できました。母校の群馬大学で学ぶことにして、医学部医学科に編入しました。

受験のことは家族以外に伝えていなかったので、介護施設の同僚や利用者さんたちには事後報告になったのですが、みなさんから応援の言葉をいただいてうれしかったですね。自分では、夢を叶えるためのスタートラインに無事に立てたことにホッとしていました。

──医学生時代は、どのように過ごしましたか。

編入時は27歳。現役の学生とは7歳くらい離れていましたが、特によそよそしい雰囲気はありませんでした。ただ、周りは部活動をメインとした学生生活を送っていたのに対し、私は部活に入らず過ごしていました。空いた時間は、もともと働いていた介護施設を手伝ったり、国家試験に向けた勉強をしたりしていましたね。

それと、高齢者を診る医師になると決めていたので、早い段階からよく病院見学に行っていました。当時住んでいた群馬県内はもちろん、近隣の栃木県や埼玉県、東京都、遠方だと滋賀県などの病院にも足を運びました。地域医療で有名な佐久総合病院(長野県佐久市)や、亀田総合病院(千葉県鴨川市)も見学させてもらい、医師としてのキャリアのイメージを膨らませていました。

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