佐藤元美がめざすのは、「もうこりた」。
一関市国民健康保険藤沢病院(以下、藤沢病院)の屋上に我々は立っていた。事業管理者の佐藤元美は、ここから見える夕日の写真を撮るのが日課だと言う。取材日は、好天。いつもはカメラマンだが、その日は、真っ青な空をバックに被写体となった。肩の向こうに広がる藤沢町の医療を、理想を追い求めながら支えてきた佐藤の話は、新しい発見に満ちていた。
1992年の夏、25年近くも病院のなかった岩手県藤沢町では、病床数54と小規模ながらも悲願の町民病院が設立を間近に迎えていた。同じころ、卒後13年目の佐藤に依頼が舞い込む。「医療を中心に予防から介護まで一体経営する新病院を創設する。ぜひ院長として来てほしい」。岩手県に生まれ育った彼は、自治医科大学を卒業後、県内の基幹病院に勤務していた。当時を振り返り、「経験不足を自覚しつつも、医療過疎地での完結型医療の運営に挑戦したいとの気概が勝った」と語る。そして1993年、国民健康保険藤沢町民病院(当時)の院長に就任。2005年には、地方公営企業法全部適用を機に事業管理者に。2011年9月、藤沢町が一関市との合併にともない名称は変わったが、政治的な影響をさほど受けず佐藤は粛々と医療と介護の一体的運営を行う。
住民との対話の場、「ナイトスクール」のはじまり
藤沢病院と言えば、「ナイトスクール」。 1994年から実に20年近く地域住民と医療者との話し合いの場として連綿と続けられ、これを手本に地域医療の活性化をめざす医療機関は少なくない。
佐藤がスタートさせたナイトスクールの発端を正確に知る者は、今となってはそう多くないだろう。「地域住民と医療者との対話」という語感から、手に手を取り合って始まったかに思われがちだが、現実はまったく違う。
「開設1年目、病院は異常な熱気を帯びていました。診療をすれば住民の疾患が次々と見つかり、医療者も住民も病院創設の効力のあまりの大きさに、むしろ浮き足立ちました」
しかし、2年目を迎えると、病院のありがたみは急激に薄れていく。住民は待ち時間の長さを理由に「診察なしで薬だけほしい」などと要求し、認めない同院の対応がクレームとなり、町議会の議題までにもなったのだ。
「診察室や町長室で説明を繰り返しても住民の納得は得られませんでした。病院設立からわずか1年で住民との間に、こんなかたちの軋轢が生まれるとは――。予想だにしない危機に直面した私が意を決し、住民を集めた話し合いの場を設けたのが最初のナイトスクールです」
できるだけ多くの人が参加しやすいよう夜7時から9時の開催とし、無診察投薬が法に反する危険な行為であるばかりか、病院の経営不振を招く原因になると説明した。
「病院を利用するだけでなく、住民が病院を支え、育てる役割を担わなければ、当院は失われてしまいかねないと訴えました」
住民と医療者が腹を割って話し合う場がもたらした成果は想像を超えた。無診察投薬の要望、待ち時間への苦情も減り、なんと病院への寄付金まで寄せられるようになったという。
対立を回避する手段として始まった「名無し」の話し合いは、いつしかナイトスクールと呼ばれるようになり定期的開催にいたる。
住民の力で若手を育成する「研修報告会」をスタート
2007年ごろになると、住民から「自分たちが病院をどう支えられるか」といった声があがってくるようになった。あの、開院2年目の日々を思うと隔世の感がある風景である。
「10年以上に及ぶナイトスクールでの積み重ねが、気づきのようなものを授けていたのでしょう。住民の皆さんの中に、『自分たちこそ地域医療の最大の運営者である』との自覚が育まれていました」
住民の前向きな力を医療の現場でどう生かせばいいのか――思案する日々を重ねた結果、ひとつの着想にたどり着く。
「実は、かねてから地域に必要な医師を地域で育てたいと望んでいました。ある日、まるで啓示のように、合点がいきました。当院の強みである住民の力を若手医師の育成に生かせばいいのだと」
同院には、自治医科大学附属病院と岩手県立磐井病院から年間約10名の初期研修医が、約1ヵ月間の地域医療研修を受けにくる。彼のひらめきは、住民の力を借りて研修医教育をしようとの発想だが、現実はそれほど甘くはなかった。
「彼らに総合内科の奥深さを体験させようと、外来診療を任せたのですが、若い研修医の診察を拒否する住民が多くいたのです。受診する側に立って考えれば、ある意味当然の反応。こちら側の都合だけで考えた施策を大いに反省しました」
すぐさま、解決策を打つ。病院職員と研修医で行っていた研修報告会を2008年から「意見交換会」と改名し住民に公開することとした。
研修医一人ひとりが15〜30分ほど、同院での研修内容や感想などを発表する。つづいて住民の参加者側から、意見や問題点をフィードバックしてもらう。この仕組み、このやり取りが「私たちが医師を育てる」との住民の当事者意識を喚起した。
「意見交換会実施後、研修医の外来診療はとてもスムーズになり、診察室で患者さんが研修医を励ます光景さえ見られるようになりました」
研修医たちは藤沢町でしか得られない充実感に感銘した。今では、同院の急場と知れば、取るものも取りあえずといった風情で応援診療に駆けつけてくれる若手医師が大勢いるそうだ。
病院長着任前に構想はすでにできていた
保健、医療、福祉を、いっさい別なく垂直展開する同院の基本的な経営方法は、「藤沢方式」と呼ばれる。佐藤の院長招聘時には、すでにできあがっていた構想というから驚く。
「藤沢町の町政に長期間たずさわった佐藤守町長(当時)は、常に先を見通した政治をする方で、当時から高齢社会の到来に際し、町に残るお年寄りが安心して暮らすにはどうすれば良いかを模索しておられました」
佐藤の赴任当時の藤沢町の人口は、約1万2000人、現在は約9000人。予測どおり、若者が減少して急速に高齢社会に傾いている。
「町長は、『生産人口が減るとは、住民の暮らしの根幹を失うに等しい』と考えました。そこで、高齢社会に適応する医療の仕組みをともにつくろうと地域に呼びかけました。
また、当時、町民死亡の約8割が町外の医療機関である事実に衝撃を受け藤沢町に看取りができる病院を切望していたのです」
病院設立をめざし、町長は懸命に地域医療を学んだ。特に広島県の御調町には何度も足を運び、進むべき道を確かめていた。人口約8000人の御調町には何があったのか。
「地域包括ケア」の概念を生み出した町、御調町
「御調町には公立みつぎ総合病院という、この分野では知らぬ者のない、いわば地域医療のメッカがあります」
みつぎ総合病院は、御調町を中心に周辺地域人口約7万人を診療圏域とする地域の中核的総合病院。1970年代半ばから「寝たきりゼロ作戦」を目標に掲げ、町行政と医療福祉施設の連携により、いち早く保健、医療、福祉を統合し、住み慣れた家で療養できるシステムを構築した。
全国にある国民健康保険病院の多くが公立みつぎ総合病院をみならった。現在、国が推進する「地域包括ケア」という概念や言葉も御調町から生まれたものだ。
「全国国民健康保険診療施設協議会の役員を務める町長は、公立みつぎ総合病院から地域包括ケアの考えを学びながら、当院の基本的な柱を固めていったようです。
個人の考えをまとめるのではなく、多くの頭脳が『日本の過疎地の医療をどうするか』を考え抜いた結果の英知をすくいあげ、ソリューションを導いた。賞賛すべき慧眼です」
そういった取り組みは、自然発生的に全国で生まれていたそうだ。各々の過疎地で互いに学び合いながら、「おらが町に合うようにカスタマイズする努力」が重ねられた。
「たとえば当院が〝全部適用〞に移行したのは、みつぎ総合病院にならい、市町村の枠組みが変わるなどの政治的な変動があっても、影響を最小限にとどめるためです。
現在の私たちの在り様は、地域医療の大きなうねりから生まれたひとつの答えの延長線上に位置づけられます」
各地の地域医療の現場で繰り広げられていた試行錯誤の歴史を恥ずかしながら初めて知った。「地域包括ケア」の考えがそれほど前からあったとは。
藤沢野焼祭りに合わせて開催する「藤沢地域医療セミナー」
一関市では、2010年から毎年、藤沢町の野焼祭りの時期に合わせて、「藤沢地域医療セミナー」を開催している。2013年は8月9日から2泊3日で第4回のセミナーが開かれ、医学生や研修医など総勢20名が藤沢町に集合した。セミナーの目的は、地域医療の魅力と醍醐味を発見すると同時に、自らが体験し、そして地域住民との交流等を通じてこれからの地域医療の進展に資するとあるが、佐藤は、「とにかく野焼祭りを楽しみながら、住民と触れ合ってほしい」と語る。セミナーは、実地的なフィールドワークのほか、地域医療のエキスパートたちによる講座が多数用意される。
生活の中にある医療とはどういうかたちなのか
佐藤は、独自の地域包括ケアをかたちづくった今、次のステップに進もうとしている。
「多くの医療機関で展開している医療は患者さんを生活から切り離し、疾患の治療のみに専念するものです。治療が終われば患者さんと縁が切れる医療とも言えるでしょう。しかし、高齢社会では、こうした医療ではすまない。患者さんの生活の中に疾患があり生活と医療は切り離せなくなるからです。目の前にある高齢社会でモデルとなるような医療提供をするために勇気を持って挑みたいことがあります」
20年も地域医療に取り組んできた医師が、あらためて「勇気を持って手がけたい」とはどんな施策か。
佐藤は、自分だけの秘密基地の場所を明かす少年のように目を輝かせた。
まったくユニークな「門前長屋」を計画中
「今、『門前長屋』と称する構想を進めています」
「門前長屋?!」。取材陣の驚いた表情を楽しげに見ながら話をつづける。
「病院の前に、いわゆる〝門前薬局〞がありますね。その長屋版です。高齢の患者さんから自立した生活を奪う廃用症候群を防ぐには、どういう医療のかたちがあるのか。考えた末、門前長屋のアイデアがひらめきました」
たとえば、高齢者が肺炎で入院すると、2週間後に疾患は治るが、廃用症候群により歩行困難になるケースが多々ある。そうなると、退院後からさらに2週間ほどかけて、リハビリに専念しなければならない。結果、帰宅まで1ヵ月を要することになる。
「肺炎でしたら最初の3日間は入院して集中的に治療し、症状が落ち着いた段階で門前長屋に移ってもらいます。長屋では自炊してもいいし、出前を頼んでもいい。長屋は、すっかり人任せの状態から早く離脱し、日常生活にスムーズに戻るための仮住まいです」
門前長屋では、患者は通常入院と同等の治療を受けられ、24時間体制の訪問診療や訪問看護がバックアップする。長屋自体の運営は民間が行い、住民からボランティアを募って人材を確保する計画で、着々と準備が進行中だ。
「『歳をとったら、門前長屋のある町に行きたい』と言われたいですね」
寝たきり高齢者の急増をストップさせる切り札になるかもしれない「門前薬局」ならぬ「門前長屋」。示された、まったくユニークな施策に心が躍った。
ビジネスを優先させず、常に奉仕する精神を持って
本誌の取材では、最後に読者に向けたメッセージを色紙に書いていただいている。尽きない話を惜しみつつ、色紙を差し出すと、しばし考えて膝を打って言った。
「もうこりた」
「?」。いったい何が起きたのかわからなかった。難しい地域医療に「懲りた」との感想か――。佐藤の発言には何度も驚かせられる。
「当院の理念です」
そして、書かれた文字が「忘己利他」。
「この言葉は、当院開設の折に、自治医科大学の初代学長を務められた中尾喜久先生から揮毫(きごう)いただきました。天台宗の開祖である最澄が時の朝廷に学生養成制度の勅許を仰ぐ際に呈した『山家学生式』の中の一節に由来します」
悪事向己 好事与他 忘己利他 慈悲之極――悪事を己に向かえ、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲のきわみなり。
「ビジネスを優先させず、常に奉仕する精神と思いやりの心を持った病院であれとの中尾先生の思いが込められていると解しています」
瞬時に「こりた」を「懲りた」と頭の中で変換していた自分の浅はかさに苦笑し、地域医療が生半可な姿勢では取り組めない医療であると、自らにいかに強くインプットされているかを痛感した。どうだろう、少なからず、読者諸氏も同様ではなかろうか。
佐藤の診察室の机の上には、病院の屋上から撮影した藤沢地域の夕景の写真が置かれている。患者をリラックスさせるため、雰囲気を和やかにしたいときに、写真を見せるのだそうだ。
今日も懲りることなくカメラを持って屋上に向かう佐藤。己を捨て住民のために医療を行う彼に、この土地は毎日、違う顔を見せてくれるのだろう。
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